日常
23:59
婆羅陀魏黙示録・・・
---------------
復活宣言から遅くなりましたが、この話だけは来年に先送りしたくないと思い、どうにか今日までに間に合わせました。
今日は僕がこの約8ヶ月間、何をしていたのかを話そうと思います。
皆様の事を騙していたような内容や、一見本当なのか信じずらい内容もありますが、この日記に書いた事は、全て真実です。
8ヶ月の失踪期間の話の前にまず、昨年の4月における嘘を話さなければいけません。
その頃の日記や会話では「変わらず寮から会社に通っている」と振る舞っていましたが、実は昨年4月の初めに会社通いが嫌になり、一週間以上寮に引きこもった挙げ句に「会社では世話しきれない」として、母がいる実家に戻されていました。
理由は愚痴にしかなりませんが、暑がりには過酷な仕事内容、コミュニケーションを強要する会社全体の空気、そして職場に言動・性格全てが嫌に感じる、正直に本音を吐き出すと、「死んでくれ」とすら思う人が何人もいて、その人達と顔も合わせたくないから・・・つまりは、「逃げ」です。
僕が良く思っていた上司の方に何度も心配を掛け、上司や母に泣きながら土下座し、「寮を出て実家から通勤し、嫌な人から少しは離れられる職場・シフトに変え、二度と勝手に仕事を休まない」のを条件に、再び会社に戻れました。
それでも、その職場でも新しく嫌に思う人との遭遇、相変わらず嫌な人との嫌な会話・・・夜勤無しの雑用同然の仕事に変わったので、給料も減りましたし、新しく入って来た新人にも示しが付かない立場なのも分かっていました。
しかし、それでも心から尊敬出来る職場の方からの励ましや、負担を掛けた母を今度こそ楽させる為に、僕は頑張りました。
ここからが本題ですが、単刀直入に申すと結局僕は今年の4月、約2年通った会社を辞めました。
理由も同じく「勝手に仕事を休み続けた」からで、再びそんな事をした理由も同じです。
しかも、今回は朝に出勤するふりをして道中「風邪で休む」と会社に電話し、母が仕事に行くのを見計らって家に戻る、と言う全ての人を騙す最低の行為を続けました。
もちろん、そんな事が続く筈も無く、会社が母に電話したのをきっかけに僕の行為が判明し、上司の方との話し合いの末に会社を辞めました。
最初こそ、これまでに無いくらいに上司の方から怒られましたが、最後は「君の再就職を祈っています。」と、優しく僕を送り出して下さいました・・・無論、その上司の方も僕が尊敬していた方の1人で、他の上司の方も頭ごなしに僕を責める事はありませんでした。
ちなみに、母が出るのを待っていた間の僕は公園で携帯の曲を聞いたり、コンビニに立ち寄ったり、授業中の高校の前に行き、二十年余りの人生ながら、僕の中で一番輝いていたと言える高校生活を校舎を見ながら思い出し、またあの頃に戻りたいと涙に暮れる、情けない時間を送っていました。
嫌な所もありましたが、会社自体はいい所だったと、僕は思います。
ただ、僕が悪い所も含めてあの会社を受け入れられなかっただけなのです。
会社を辞めて無職になり、内心願っていた自由な時間を手に入れた僕は、ハローワーク通いになりました。
生活給付金は自分から会社を辞めたので3ヶ月後まで待つ事になりましたが、貯金はある程度残っていたので、給付金の存在に甘えてスローペースで仕事を探しながら、時間とお金を消費する日々を続けました。
特友の勧めもあって、仮面ライダーや特撮怪獣のアクションフィギュアの世界や、噂のアニメ「けいおん!」―厳密には昨年冬からですが―にどっぷりとはまり、家への入金もあって限りあるお金もみるみる減って行きました。
そしてその最中、6月に僕は交通事故を起こしました。
相手は70代の男性で、青になった横断歩道を渡ろうとした時に僕が自転車で横から軽くぶつかった形でした。
いつもなら僕も人にぶつからないように走っていたのですが、この時ばかりは前をちゃんと見ずに道路を走ってしまい、その結果が人生初の交通事故でした。
その時偶然にも特友が一緒にいたり、警察署の前での事故だったのがせめてもの救いだったかもしれませんが、突如として加害者になり、頭が真っ白になったあの時のショックは、今でも思い出せます・・・
警察の方の取り調べや現場検証を終え、自転車で軽くぶつかった程度の事故なら警察から罰金や前科などの話は無いと聞き、怒り心頭ながらも当日中に被害者のおじいさんと会え、謝罪しました。
翌日、手土産を持って改めておじいさんに会いに行き、入院費は全て自分が入っている保険から9割負担し、残り1割を払う話になりました。
しかしおじいさんは既に右腰に骨の代わりになる棒を入れており、事故の際にそれがずれ、棒を戻す手術の費用も負担してくれ、と言って来ました。
その上おじいさんの言動にも不審に感じる所があり、医師との会話や診察結果をかたくなに話さない、会う度に「過失致傷罪で訴える事も出来る」と脅しとも言えるような事を言う、退院時に自分で書いた慰謝料に関する誓約書を書くように迫る・・・
一応、この点は市役所の弁護士さんや事故の際にお世話になった警察の方に相談し、「棒を入れている以上、元々不用意に出歩くべきではなかった」、「自転車同士の事故では過失傷害罪にはならない」、「払うべきなのは示談金であって、慰謝料ではない」、「事故の際の怪我の程度を教えない以上、手術するまでもない軽度の傷の可能性があり、手術代も払う必要は無い」・・・と言う相談結果になり、この結果を武器に「過失傷害で訴える」とかたくなに自分の意見を曲げないおじいさんと、何度も論争になりました。
そんな日々が2ヶ月程経ち、最終的に話は「示談金と入院費だけを払い、手術代は払わない」と言う形で解決し、おじいさんとも最後は寿司屋で食事と話をし合いつつ、後腐れ無くお別れしました。
勝手な想像ですが、どうもおじいさんは家族や親戚から疎まれていた様子で、おじいさんの退院時に医者から検査の時にまた付き添いで来て欲しい・・・と言う話を嫌々聞く親戚の態度から、それがうかがえました。
更に入院時は基本的に一人であり、やる事も無くいきなり入院生活をさせられた上に前述の事情もあって、心が荒んでいた・・・と一応擁護はしておきます。
こちらも支払いで金が底を尽き、時間を問わずに何度も来る脅迫まがいの電話に心が傷付き、問題解決に尽力し続けた母もまた心体共にボロボロになり、その点は絶対に許せませんので。
事故を乗り越え、ハローワークからようやく生活給付金が支給され、あとは僕が再就職するだけとなりましたが・・・僕は三度母に負担を掛けてしまいました。
生活給付金が来たのをいい事に、また買いあさりの日々を始めたのです。
請求額は万を余裕で超える、給付金の半分以上の額にもなり、それを給付金の支給が終わる先月の始めまで続けました。
その癖、前々から母に言っていたと言う理由で、仕事探しも支給が終わるまでろくにせず、家への支払いも日に日に少なくなって行きました。
そして先月の請求書が来た日、遂に僕は母を怒らせてしまいました。
「趣味を否定しないが、グッズを買うお金があるのならその分で食べられる物を買って欲しい」、「自分にも買いたい物があるのに、それを買わずに生活費に当てている」、「話していなかったが、もう数ヶ月は家賃を滞納している」、「こんな年末に雇ってくれる所なんて少ないし、あっても来年からしかお金は入らない」、「もし私がいなかったら、どう生活していたのか」・・・
全てが僕の胸に突き刺さり、僕が仕事を辞めてからずっと苦しんでいた母の本心を知り、僕はどんなに愚か者なのかを思い知りました。
ずっと僕を育ててくれた母への恩返し、親孝行の為に社会人として頑張る・・・あの頃の気持ちを僕は忘れていたのです。
仕事から逃げ、自分だけが楽しい日々に逃げ、こんな自分を見せたくないとサイトからも逃げていた自分を恥じた僕はその日、再起を誓いました。
それからパートではありますが、昨日の日記で話した新しい仕事、お菓子やギフトの箱詰めの仕事を見つけました。
低給料ながら、仕事場を駆けずり回る毎日が残業の、多忙な仕事です。
しかし、またしてもお金が底を尽きた僕に後はありません。
もう一度、生活費を全て払える日が来るまでは、やり続ける決意です。
サイトでの復活宣言も僕やゴジラの誕生日等、もっと早くしようと考えてはいましたが、今さらこんな自分が顔を出す資格なんて無いだろう・・・と先送りし続けた結果が今月18日の復活宣言です。
嫌な事から逃げ続けて自分を追い込み、痛い目を何度も受けましたので、もう今後はこんな事が無いように、心から反省します。
最後に、ここまで見て下さった全ての皆様に、感謝とお詫びを致します。
人間の底辺にまで堕ちた日々を過ごした以上、もう「また僕を信じてくれ」と引き留めません。
再びサイト黎明期の様な自分に戻れる時まで、皆様の信頼を取り戻すその日まで、どんな目に遭おうとどんな事を言われようと、全てを受け入れて過ごして行く所存です。
それでも僕を信じようと思って下さった全ての皆様、改めて宜しくお願い致します・・・m(_ _)m
婆羅陀魏黙示録・・・
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復活宣言から遅くなりましたが、この話だけは来年に先送りしたくないと思い、どうにか今日までに間に合わせました。
今日は僕がこの約8ヶ月間、何をしていたのかを話そうと思います。
皆様の事を騙していたような内容や、一見本当なのか信じずらい内容もありますが、この日記に書いた事は、全て真実です。
8ヶ月の失踪期間の話の前にまず、昨年の4月における嘘を話さなければいけません。
その頃の日記や会話では「変わらず寮から会社に通っている」と振る舞っていましたが、実は昨年4月の初めに会社通いが嫌になり、一週間以上寮に引きこもった挙げ句に「会社では世話しきれない」として、母がいる実家に戻されていました。
理由は愚痴にしかなりませんが、暑がりには過酷な仕事内容、コミュニケーションを強要する会社全体の空気、そして職場に言動・性格全てが嫌に感じる、正直に本音を吐き出すと、「死んでくれ」とすら思う人が何人もいて、その人達と顔も合わせたくないから・・・つまりは、「逃げ」です。
僕が良く思っていた上司の方に何度も心配を掛け、上司や母に泣きながら土下座し、「寮を出て実家から通勤し、嫌な人から少しは離れられる職場・シフトに変え、二度と勝手に仕事を休まない」のを条件に、再び会社に戻れました。
それでも、その職場でも新しく嫌に思う人との遭遇、相変わらず嫌な人との嫌な会話・・・夜勤無しの雑用同然の仕事に変わったので、給料も減りましたし、新しく入って来た新人にも示しが付かない立場なのも分かっていました。
しかし、それでも心から尊敬出来る職場の方からの励ましや、負担を掛けた母を今度こそ楽させる為に、僕は頑張りました。
ここからが本題ですが、単刀直入に申すと結局僕は今年の4月、約2年通った会社を辞めました。
理由も同じく「勝手に仕事を休み続けた」からで、再びそんな事をした理由も同じです。
しかも、今回は朝に出勤するふりをして道中「風邪で休む」と会社に電話し、母が仕事に行くのを見計らって家に戻る、と言う全ての人を騙す最低の行為を続けました。
もちろん、そんな事が続く筈も無く、会社が母に電話したのをきっかけに僕の行為が判明し、上司の方との話し合いの末に会社を辞めました。
最初こそ、これまでに無いくらいに上司の方から怒られましたが、最後は「君の再就職を祈っています。」と、優しく僕を送り出して下さいました・・・無論、その上司の方も僕が尊敬していた方の1人で、他の上司の方も頭ごなしに僕を責める事はありませんでした。
ちなみに、母が出るのを待っていた間の僕は公園で携帯の曲を聞いたり、コンビニに立ち寄ったり、授業中の高校の前に行き、二十年余りの人生ながら、僕の中で一番輝いていたと言える高校生活を校舎を見ながら思い出し、またあの頃に戻りたいと涙に暮れる、情けない時間を送っていました。
嫌な所もありましたが、会社自体はいい所だったと、僕は思います。
ただ、僕が悪い所も含めてあの会社を受け入れられなかっただけなのです。
会社を辞めて無職になり、内心願っていた自由な時間を手に入れた僕は、ハローワーク通いになりました。
生活給付金は自分から会社を辞めたので3ヶ月後まで待つ事になりましたが、貯金はある程度残っていたので、給付金の存在に甘えてスローペースで仕事を探しながら、時間とお金を消費する日々を続けました。
特友の勧めもあって、仮面ライダーや特撮怪獣のアクションフィギュアの世界や、噂のアニメ「けいおん!」―厳密には昨年冬からですが―にどっぷりとはまり、家への入金もあって限りあるお金もみるみる減って行きました。
そしてその最中、6月に僕は交通事故を起こしました。
相手は70代の男性で、青になった横断歩道を渡ろうとした時に僕が自転車で横から軽くぶつかった形でした。
いつもなら僕も人にぶつからないように走っていたのですが、この時ばかりは前をちゃんと見ずに道路を走ってしまい、その結果が人生初の交通事故でした。
その時偶然にも特友が一緒にいたり、警察署の前での事故だったのがせめてもの救いだったかもしれませんが、突如として加害者になり、頭が真っ白になったあの時のショックは、今でも思い出せます・・・
警察の方の取り調べや現場検証を終え、自転車で軽くぶつかった程度の事故なら警察から罰金や前科などの話は無いと聞き、怒り心頭ながらも当日中に被害者のおじいさんと会え、謝罪しました。
翌日、手土産を持って改めておじいさんに会いに行き、入院費は全て自分が入っている保険から9割負担し、残り1割を払う話になりました。
しかしおじいさんは既に右腰に骨の代わりになる棒を入れており、事故の際にそれがずれ、棒を戻す手術の費用も負担してくれ、と言って来ました。
その上おじいさんの言動にも不審に感じる所があり、医師との会話や診察結果をかたくなに話さない、会う度に「過失致傷罪で訴える事も出来る」と脅しとも言えるような事を言う、退院時に自分で書いた慰謝料に関する誓約書を書くように迫る・・・
一応、この点は市役所の弁護士さんや事故の際にお世話になった警察の方に相談し、「棒を入れている以上、元々不用意に出歩くべきではなかった」、「自転車同士の事故では過失傷害罪にはならない」、「払うべきなのは示談金であって、慰謝料ではない」、「事故の際の怪我の程度を教えない以上、手術するまでもない軽度の傷の可能性があり、手術代も払う必要は無い」・・・と言う相談結果になり、この結果を武器に「過失傷害で訴える」とかたくなに自分の意見を曲げないおじいさんと、何度も論争になりました。
そんな日々が2ヶ月程経ち、最終的に話は「示談金と入院費だけを払い、手術代は払わない」と言う形で解決し、おじいさんとも最後は寿司屋で食事と話をし合いつつ、後腐れ無くお別れしました。
勝手な想像ですが、どうもおじいさんは家族や親戚から疎まれていた様子で、おじいさんの退院時に医者から検査の時にまた付き添いで来て欲しい・・・と言う話を嫌々聞く親戚の態度から、それがうかがえました。
更に入院時は基本的に一人であり、やる事も無くいきなり入院生活をさせられた上に前述の事情もあって、心が荒んでいた・・・と一応擁護はしておきます。
こちらも支払いで金が底を尽き、時間を問わずに何度も来る脅迫まがいの電話に心が傷付き、問題解決に尽力し続けた母もまた心体共にボロボロになり、その点は絶対に許せませんので。
事故を乗り越え、ハローワークからようやく生活給付金が支給され、あとは僕が再就職するだけとなりましたが・・・僕は三度母に負担を掛けてしまいました。
生活給付金が来たのをいい事に、また買いあさりの日々を始めたのです。
請求額は万を余裕で超える、給付金の半分以上の額にもなり、それを給付金の支給が終わる先月の始めまで続けました。
その癖、前々から母に言っていたと言う理由で、仕事探しも支給が終わるまでろくにせず、家への支払いも日に日に少なくなって行きました。
そして先月の請求書が来た日、遂に僕は母を怒らせてしまいました。
「趣味を否定しないが、グッズを買うお金があるのならその分で食べられる物を買って欲しい」、「自分にも買いたい物があるのに、それを買わずに生活費に当てている」、「話していなかったが、もう数ヶ月は家賃を滞納している」、「こんな年末に雇ってくれる所なんて少ないし、あっても来年からしかお金は入らない」、「もし私がいなかったら、どう生活していたのか」・・・
全てが僕の胸に突き刺さり、僕が仕事を辞めてからずっと苦しんでいた母の本心を知り、僕はどんなに愚か者なのかを思い知りました。
ずっと僕を育ててくれた母への恩返し、親孝行の為に社会人として頑張る・・・あの頃の気持ちを僕は忘れていたのです。
仕事から逃げ、自分だけが楽しい日々に逃げ、こんな自分を見せたくないとサイトからも逃げていた自分を恥じた僕はその日、再起を誓いました。
それからパートではありますが、昨日の日記で話した新しい仕事、お菓子やギフトの箱詰めの仕事を見つけました。
低給料ながら、仕事場を駆けずり回る毎日が残業の、多忙な仕事です。
しかし、またしてもお金が底を尽きた僕に後はありません。
もう一度、生活費を全て払える日が来るまでは、やり続ける決意です。
サイトでの復活宣言も僕やゴジラの誕生日等、もっと早くしようと考えてはいましたが、今さらこんな自分が顔を出す資格なんて無いだろう・・・と先送りし続けた結果が今月18日の復活宣言です。
嫌な事から逃げ続けて自分を追い込み、痛い目を何度も受けましたので、もう今後はこんな事が無いように、心から反省します。
最後に、ここまで見て下さった全ての皆様に、感謝とお詫びを致します。
人間の底辺にまで堕ちた日々を過ごした以上、もう「また僕を信じてくれ」と引き留めません。
再びサイト黎明期の様な自分に戻れる時まで、皆様の信頼を取り戻すその日まで、どんな目に遭おうとどんな事を言われようと、全てを受け入れて過ごして行く所存です。
それでも僕を信じようと思って下さった全ての皆様、改めて宜しくお願い致します・・・m(_ _)m