拍手短編集

‐我が羨望のバラダギ様






「ふう、ふう・・・」



ここは岐阜県と長野県の狭間に位置する野麦峠。
十年に一度、熊笹が麦に似た実を実らせる事から「野麦峠」と呼ばれたこの峠は明治時代には数々の女性が働き手となる為にこの峠を越え、かつては高山市と松本市を結ぶ通行路の役割を果たしていた。
しかし近年は近くの峠である安住峠に大きなトンネルが出来た為、専ら景観を観る観光用の道として使われている。
その峠に、かつてバラン騒動で志真と知り合った老人、源の姿があった。



「ふう、到着・・・」



とは言っても源がいるのは切立った崖の上であり、様々な事に興味がある源は一般路に生えない、どちらかと言えば山奥に生える野草を見ようとここまで来たのだ。



「おお、これは見た事の無い野草だ!あの草も、この草も・・・」



記憶に焼き付ける様に、源は辺りを見渡す。
それからそれを形にしようと傍らのリュックからスケッチ道具を取り出そうとしたが、そこに凄まじい地震が起こった。



「う、うわあっ!」



老体にはあまりにも辛い衝撃の中で、必死に地面に掴まる源。
だが無情にも地震は源の足場を崩し、源を崖下の林へと放り出した。

[グァウウウウ・・・]



――ああ、わしはこれから天に召されるんだな・・・
出来れば、その前に彼と会いたかった・・・
あの姿を・・・



目を瞑り、源は死を覚悟する。
が、何処までも落ちていく筈である体の感覚が、突如止まった。
それは林に落ちたわけでもない、何かに受け止められた様な感覚。



「んっ・・・?わしは、まだ生きている・・・?」



自分が生きている事を確認し、ゆっくりと目を開けた源はぼんやりと自分を助けた主の姿を見た。
姿こそよく見えなかったが、遠くなってきた耳にもその声は聞こえた。



グウィウウウウウウン・・・



「・・・まさか、貴方が助けてくれたとは・・・」



やがて目の焦点が合い、はっきりと源はその主・バランの姿を見る。
幾年振りに間近で見るバランの勇姿は源を幼き時代へと巻き戻し、心の底の本音を口に出させる。



「やはり、わしは貴方に会える事を信じてここまで来たのかもしれない。わしの事なんて知りもしないと思うけれど、わしは一時も忘れはしなかった・・・」



源を崖に戻したバランは一度だけ源を見ると、空の彼方へと去って行った。
その様子を見ていた源は一言、こう呟いた。



「有り難う御座います。バラダギ山神様。」

[グウィウウウウウウン・・・]
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好釦