闘技場に売られた獣

ケロン軍本部の長い回廊。そこは規律と階級が支配する場所だが、影では嫉妬という醜い感情が渦巻く場所でもあった。

### 卑劣な接触

ヤジュジュは、自身の身体能力と戦績で少佐の座を勝ち取った。だが、一部の古参兵たちはそれを認めない。彼らにとって、ヤジュジュは「ガルル中尉の威光を借りた、出自不明のぽっと出」に過ぎなかった。

「おい、少佐殿。随分といいご身分だな」

角を曲がったところで、数人のケロン兵がヤジュジュを包囲した。ヤジュジュは穏やかに微笑み、やり過ごそうとする。

「ふふ、何か私に用かい? 急ぎの用件でないなら、後にしてくれると助かるのだけれど」

「調子に乗るんじゃねえぞ、この化け物紛いが!」

リーダー格の兵士が、ヤジュジュの首元に手を伸ばした。そして、彼が肌身離さず着けている**鉄の首輪**を、力任せに、前方へと引き絞った。

### 崩壊する現実

カチリ、と硬い金属音が脳内で響く。
その瞬間、ヤジュジュの視界から本部の白い壁が消えた。

(……ああ、まただ。また、鎖が……)

鼻を突く血の匂い、観客の耳障りな罵声、そして首を締め上げる絶望的な重み。
引きずられる感触が、闘技場の冷たい石床を思い出させる。そこは、名前を奪われ、ただの「獣」として殺し合いを強要された地獄。

「……あ、……ぅ、ぁ……っ!」

ヤジュジュの瞳から光が消え、激しい震えが全身を襲う。
心臓が破裂しそうなほどに脈打ち、喉の奥から酸っぱいものがせり上がってきた。

「おい、どうした? 冗談だろ、こんなことで……」

兵士が手を離した時には、もう遅かった。
ヤジュジュはその場にガタガタと崩れ落ち、喉を掻きむしりながら、胃の中のものをすべて吐き出した。涙と嘔吐物にまみれ、異形の耳を極限まで伏せて、ただ「ごめんなさい、殺さないで」と、過去の自分に向けた謝罪を壊れた機械のように繰り返す。

### 黒い沈黙

「――何をしている」

氷点下の声が、廊下に響き渡った。
そこにいたのは、会議を終えたばかりのガルルだった。
弟が無残に地面を這い、汚辱にまみれて震えている光景を目にした瞬間、ガルルの瞳から一切の感情が消え去った。

「あ、いや、これは……ちょっとした教育のつもりで……」

「……その手を、二度と使えなくしてやろうか」

ガルルが放つ殺気は、物理的な圧力となって兵士たちを壁に叩きつけた。彼は一歩ずつ、死神のような足取りで近づく。

「この者が……私の弟が、どれほどの地獄を生き抜いて、今の地位を築いたと思っている」

ガルルの軍靴が、リーダー格の兵士の腕を踏み抜いた。鈍い骨折音が響くが、ガルルの表情は微動だにしない。

「貴様らの下劣な嫉妬のために、彼が守り抜いてきた心の平穏を……よくも、踏みにじってくれたな」

その後の「制裁」は、軍の記録には残されない凄惨なものだったという。ガルルは兵士たちを再起不能なまでの絶望に叩き落とした後、冷え切った声で吐き捨てた。

「消えろ。二度と、私の視界に入るな」

### 回復の抱擁

兵士たちが逃げ出した後、ガルルは膝をつき、まだ震えの止まらないヤジュジュを抱き寄せた。汚れなど気にする様子もなく、その震える肩を、折れそうなほど強く、優しく抱きしめる。

「……大丈夫だ、ヤジュジュ。終わった。もう、鎖を引く者はいない」

「ガ……ル、ル……っ、……ごめ、ん……私は、まだ……」

「謝るな。お前は何も悪くない」

ガルルはヤジュジュの耳元で、彼を現実へと繋ぎ止めるための言葉を、何度も、何度も、囁き続けた。
本部の回廊に、ヤジュジュの咽び泣く声と、それを包み込む兄の静かな鼓動だけが、長く、長く響いていた。
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