闘技場に売られた獣
薄暗いロフトのベッドの上で、サナは静かに本のページをめくっていた。
ククイが「少し難しいかもしれないが、気分転換に読んでみな」とリビングの本棚から貸してくれた、古い哲学の随筆集だった。
文字を追っていたサナの指先が、ある一説の前でピタリと止まる。
『本当の悪とは、悪意を持って他者を傷つける者ではない。自らの行動が他者に与える影響に気づかない、悪意のない鈍感な人間だ。それこそが、最も残酷な害悪となる』
活字が、冷たい棘のようにサナの胸に突き刺さった。
「悪意のない……鈍感な、人間……」
サナは本を胸の上に抱えたまま、ぽつりと呟いた。
その言葉が、まるで鏡のように自分自身を映し出している気がして、急に心臓が嫌な音を立てて脈打ち始める。
自分のこれまでの行動が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
体調が悪くて動けないからと、ククイ博士に甘えて、夜通し看病をさせたこと。
「眠るのが怖い」と泣いて、彼の仕事の時間を奪って隣にいてもらったこと。
「美味しいスープが飲みたい」と言って、忙しい彼をキッチンに立たせたこと。
(私は……『博士に優しくしてもらいたい』っていう自分の気持ちだけで、博士を振り回していたんじゃないのかな……?)
そこに悪意はなかった。本当に苦しくて、本当に怖くて、ただ大好きなククイを頼ってしまっただけだ。
けれど、この本が言う通りなら――「悪意がないからこそ」、彼の優しさに甘え続け、彼の時間やエネルギーを奪っていることに気づけなかった自分は、とてつもなく鈍感で、残酷な存在なのではないか。
自分が無自覚な「悪」になって、ククイの未来や生活を蝕んでいるのかもしれない。
そう思った瞬間、激しい自己嫌悪と不安が押し寄せ、サナの身体は冷たく強張っていった。
「……サナ? どうした、そんなに怖い顔をして」
梯子を上がってくる軽い足音と共に、ククイがロフトに顔を出した。手には、温かいハーブティーの入ったマグカップが握られている。
サナはビクッと肩を揺らし、慌てて本を伏せた。
「は、博士……」
「顔色が悪いぜ。またどこか痛むのか?」
ククイはすぐに眉をひそめ、ベッドの傍らに歩み寄って彼女の額に手を伸ばそうとする。
しかし、サナはその手を拒むように、小さく身を引いてしまった。
「サナ……?」
差し出されたククイの手が、空中で止まる。サングラスの奥の瞳に、明らかな動揺が走った。
「ごめんなさい、博士……私、」
サナは毛布を強く握りしめ、消えそうな声で呟いた。
「私、ずっと……悪意のない鈍感な人間だったかもしれない。博士が優しいからって、自分のことばっかりで、博士にいっぱい迷惑かけて……。自分が、すごく残酷なことをしてる気がして、怖くなっちゃって……」
ポロポロと、堪えきれなくなった涙がシーツに染みを作っていく。
ククイは、彼女が伏せた本に視線を落とした。開かれたページに書かれた一説を目にすると、彼は全てを察したように、深く息を吐き出した。
ククイは今度は拒まれないよう、ゆっくりと時間をかけて、サナの震える肩を大きな掌で包み込んだ。
「……サナ、その本を書いたやつはな、君のような優しい子のことを言ったんじゃないぜ」
「でも……!」
「いいかい。本当の『鈍感な悪』ってやつはな、自分が誰かを傷つけているかもしれないなんて、これっぽっちも悩まない人間のことだ。こうして『自分が迷惑をかけているんじゃないか』って涙を流して、相手を思いやれる君は、世界で一番繊細で、優しい女の子だよ」
ククイはサナの顔を覗き込み、いつもの揺るぎない、太陽のような笑みを浮かべた。
「俺はな、君にどれだけ時間を奪われたって、それを『迷惑』だなんて思ったことは一度もない。むしろ、君が俺を頼ってくれることが、俺のゼンリョクの原動力なんだぜ? だから、そんな難しい本を読んで一人で迷子になるな。俺の言葉だけを信じておけ」
「博士……」
「ほら、お茶が冷めちゃうぞ。これを飲んで、今夜はもう難しいことを考えるのはおしまいだ」
ククイから手渡されたマグカップは、驚くほど温かかった。
サナはその温もりを両手で包み込みながら、彼のまっすぐな言葉によって、胸の中の冷たい不安が少しずつ溶かされていくのを感じていた。
ククイが「少し難しいかもしれないが、気分転換に読んでみな」とリビングの本棚から貸してくれた、古い哲学の随筆集だった。
文字を追っていたサナの指先が、ある一説の前でピタリと止まる。
『本当の悪とは、悪意を持って他者を傷つける者ではない。自らの行動が他者に与える影響に気づかない、悪意のない鈍感な人間だ。それこそが、最も残酷な害悪となる』
活字が、冷たい棘のようにサナの胸に突き刺さった。
「悪意のない……鈍感な、人間……」
サナは本を胸の上に抱えたまま、ぽつりと呟いた。
その言葉が、まるで鏡のように自分自身を映し出している気がして、急に心臓が嫌な音を立てて脈打ち始める。
自分のこれまでの行動が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
体調が悪くて動けないからと、ククイ博士に甘えて、夜通し看病をさせたこと。
「眠るのが怖い」と泣いて、彼の仕事の時間を奪って隣にいてもらったこと。
「美味しいスープが飲みたい」と言って、忙しい彼をキッチンに立たせたこと。
(私は……『博士に優しくしてもらいたい』っていう自分の気持ちだけで、博士を振り回していたんじゃないのかな……?)
そこに悪意はなかった。本当に苦しくて、本当に怖くて、ただ大好きなククイを頼ってしまっただけだ。
けれど、この本が言う通りなら――「悪意がないからこそ」、彼の優しさに甘え続け、彼の時間やエネルギーを奪っていることに気づけなかった自分は、とてつもなく鈍感で、残酷な存在なのではないか。
自分が無自覚な「悪」になって、ククイの未来や生活を蝕んでいるのかもしれない。
そう思った瞬間、激しい自己嫌悪と不安が押し寄せ、サナの身体は冷たく強張っていった。
「……サナ? どうした、そんなに怖い顔をして」
梯子を上がってくる軽い足音と共に、ククイがロフトに顔を出した。手には、温かいハーブティーの入ったマグカップが握られている。
サナはビクッと肩を揺らし、慌てて本を伏せた。
「は、博士……」
「顔色が悪いぜ。またどこか痛むのか?」
ククイはすぐに眉をひそめ、ベッドの傍らに歩み寄って彼女の額に手を伸ばそうとする。
しかし、サナはその手を拒むように、小さく身を引いてしまった。
「サナ……?」
差し出されたククイの手が、空中で止まる。サングラスの奥の瞳に、明らかな動揺が走った。
「ごめんなさい、博士……私、」
サナは毛布を強く握りしめ、消えそうな声で呟いた。
「私、ずっと……悪意のない鈍感な人間だったかもしれない。博士が優しいからって、自分のことばっかりで、博士にいっぱい迷惑かけて……。自分が、すごく残酷なことをしてる気がして、怖くなっちゃって……」
ポロポロと、堪えきれなくなった涙がシーツに染みを作っていく。
ククイは、彼女が伏せた本に視線を落とした。開かれたページに書かれた一説を目にすると、彼は全てを察したように、深く息を吐き出した。
ククイは今度は拒まれないよう、ゆっくりと時間をかけて、サナの震える肩を大きな掌で包み込んだ。
「……サナ、その本を書いたやつはな、君のような優しい子のことを言ったんじゃないぜ」
「でも……!」
「いいかい。本当の『鈍感な悪』ってやつはな、自分が誰かを傷つけているかもしれないなんて、これっぽっちも悩まない人間のことだ。こうして『自分が迷惑をかけているんじゃないか』って涙を流して、相手を思いやれる君は、世界で一番繊細で、優しい女の子だよ」
ククイはサナの顔を覗き込み、いつもの揺るぎない、太陽のような笑みを浮かべた。
「俺はな、君にどれだけ時間を奪われたって、それを『迷惑』だなんて思ったことは一度もない。むしろ、君が俺を頼ってくれることが、俺のゼンリョクの原動力なんだぜ? だから、そんな難しい本を読んで一人で迷子になるな。俺の言葉だけを信じておけ」
「博士……」
「ほら、お茶が冷めちゃうぞ。これを飲んで、今夜はもう難しいことを考えるのはおしまいだ」
ククイから手渡されたマグカップは、驚くほど温かかった。
サナはその温もりを両手で包み込みながら、彼のまっすぐな言葉によって、胸の中の冷たい不安が少しずつ溶かされていくのを感じていた。
53/53ページ
