闘技場に売られた獣

ククイ博士の研究所は、サナのデリケートな体調を最優先に考え、**24時間いつでも26度**の快適な室温に保たれている。それが、この家における絶対のルールであり、彼女を守るための防壁だった。

しかしその日、ククイがスクールの急用でどうしても数時間だけ外出しなければならなくなった。
その僅かな空白を、最悪のタイミングが襲う。

原因は落雷による一時的な電圧の異常か、あるいは基盤の寿命か。ククイが家を出て一時間ほど経った頃、リビングのエアコンが奇妙な電子音を立てて完全に沈黙した。

アローラの昼下がりの太陽は、容赦なく屋根を焦がしていく。
外気温は瞬く間に上昇し、締め切られた研究所の中は、逃げ場のない温室へと変貌していった。

「……は、ぁ……、……っ……」

ロフトのベッドで眠っていたサナは、異様な息苦しさで目を覚ました。
部屋の空気が、ねっとりと肌にまとわりつくように熱い。26度で一定だったはずの空間は、今や30度、35度へと跳ね上がり、室内に籠もった熱気がサナの体力を容赦なく削り取っていく。

(あつい……息が、うまく……できない……)

ただでさえ体温調節機能が壊れているサナの身体は、急激な室温の上昇に耐えられなかった。
心臓が警報のように激しく脈打ち、頭の芯が沸騰したようにドクドクと痛む。全身から嫌な汗が吹き出し、シーツを濡らしていく。

水を飲まなければ、このまま干からびて死んでしまう。
本能的な恐怖に突き動かされ、サナは這うようにしてベッドから降りた。しかし、ロフトからリビングへ下りる梯子に手をかけた瞬間、凄まじい目眩が彼女を襲った。

「あ……、……っ、」

視界が真っ白に染まる。手の力が抜け、サナはそのまま梯子からリビングの床へと、なす術なく転落した。

「っ……、……!」

床に激しく身体を打ち付けたが、熱さの苦痛が勝って痛みすらまともに感じられない。
リビングの床は、太陽に熱せられて信じられないほど熱を持っていた。空気はよどみ、まるでオーブンの中に閉じ込められているかのようだった。

「はか……せ……、だれ、か……」

かすれた声は、熱い空気の中に消えていく。窓を開けようにも、指一本動かす力さえ残っていなかった。脱水と熱中症、そして持病の悪化が重なり、サナの意識は急速に遠のいていく。

(わたし……ここで、おしまいなのかな……)

薄れゆく視界の向こうで、玄関のドアが勢いよく跳ね返る音が聞こえたような気がした。

「ただいま――って、なんだこの暑さは!? サナ!!」

帰宅したククイは、玄関を開けた瞬間に室内の異常な熱風を肌で察知した。そして、リビングの床に力なく倒れ伏しているサナの姿を見て、サングラスの奥の目が驚愕に見開かれる。

「サナ!!」

ククイは白衣を脱ぎ捨てながら彼女に駆け寄り、その身体を抱き上げた。
腕の中のサナは、まるで火の塊のようだった。肌は真っ赤に上気し、呼吸は浅く、完全に意識を失っている。

「嘘だろ、エアコンが……っ! なんてことだ、俺がついていながら……!」

ククイはすぐさまサナを抱えたまま、一番日陰になっていて比較的熱が籠もりにくいラボの奥へと走った。
冷蔵庫から氷嚢と冷えたスポーツドリンクを引っ張り出し、彼女の首元、脇の下、鼠径部へと手際よく滑り込ませる。

「サナ! しっかりしろ、サナ!」

呼びかけながら、ククイの手は微かに震えていた。
あと数十分、いや、あと数分帰宅が遅れていたら、この小さな命は本当に熱の中に溶けて消えていたかもしれない。その恐怖が、ククイの心臓を冷たく締め付ける。

応急処置を施し、ポータブルの冷却機をフル稼働させると、サナの荒かった呼吸がほんの少しだけ落ち着きを取り戻し始めた。

「……う、……ん……はか、せ……?」

微かに開いたサナの瞳に、涙を浮かべんばかりの必死なククイの顔が映る。
ククイは彼女の冷やした手を、自分の両手で包み込むように強く握りしめた。

「ああ、俺だ。悪かった、サナ……本当にすまない。怖かったよな、苦しかったよな……」

「わたし……いきてる……?」

「生きてるさ。絶対に死なせたりしない。……もうどこへも行かない、ずっと隣にいるからな」

ククイは彼女の額の汗を拭いながら、自分の見通しの甘さを激しく呪うとともに、この儚い命を何があっても守り抜くと、熱い部屋の中で二度と忘れない誓いを立てていた。
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