闘技場に売られた獣

ケロン軍本部、とある会議室。窓から差し込む午後の光が、机の上に散らばった白紙の報告書を虚しく照らしていた。

「ううむ……」
ヤジュジュが唸り始めてから、すでに30分が経過している。戦場では獣人の血を引く驚異的な身体能力と判断力で「ヤジュジュ少佐」として名を馳せる彼も、この事務作業という強敵には苦戦を強いられていた。
現場での任務なら誰よりも早く完遂できる自信がある。しかし、この真っ白な紙を文字で埋める作業だけは、どうにも勝手が違った。

「何事にも適材適所というものがあるんだから、軍の者だって書類作成が得意な者に仕事を割り振ればいいものを……」

眉間の皺を深くしながら、やっとのことでペンを走らせる。だが、その思考は遅々として進まない。

「精が出るな」

聞き慣れた厳格な、しかしどこか柔らかな声が室内に響いた。

「ガルル……」

顔を上げると、そこにはヤジュジュの兄であり、軍の精鋭として知られるガルルが立っていた。

「ええと……もしかして今からここを使うのかい?」
「いや、今日はお前の様子を見に来た。それに、兄弟での時間も必要だと思ってな」

ガルルは弟の向かいに腰を下ろすと、机上の惨状に目をやった。ヤジュジュは気まずそうにペンを指先で回す。

「ああ、それなら嬉しいよ。でもあいにくだけど、報告書の作成に難航していてね。悪いけど話なんてできそうに……」
「こことここ、脱字してるぞ」
「えっ!? ああ、本当だ……」

ガルルの指摘は的確だった。彼は流れるような動作で書類を指差し、弟の「弱点」を次々と暴いていく。

「それに同じ言い回しが多い。これでは表現がくどいな。この表現は前も使っただろう?」
「うっ……」
「お前の悪い癖だ。無意識に同じ言葉を繰り返している。それが報告書の見栄えを悪くしているんだ」

兄の容赦ない添削に、ヤジュジュは思わず声を漏らした。わかってはいる。だが、それが簡単に直せるなら、これほど頭を抱えてはいないのだ。

「仕方ないな……ヤジュジュ、次の現場までまだ時間はあるのか?」
「い、いや……すぐ出ないとまずいんだ」

その言葉を裏付けるように、ヤジュジュの腰の無線機が駐機場からの催促を告げて鳴り響く。顔を曇らせる弟を見て、ガルルは静かに立ち上がった。

「ひとまず、お前は現場に行きなさい。これは俺が預かっておこう。俺が仕上げて上層部に通しておく。そうすれば本部も納得するはずだ」

「ええっ!? でも、今日提出しないとまずくて……。ガルル、そこまでしてもらうわけには……」

申し訳なさに身を縮めるヤジュジュの肩に、ガルルは大きな手を置いた。その瞳には、かつて救えなかった弟への深い悔恨と、慈しみが混在している。

「……お前には、散々辛い思いをさせたからな。これくらいはさせて欲しいんだ」

ヤジュジュの動きが止まる。母の治療費のために父に売られた闘技場での日々。地獄のような檻の中で、ヤジュジュはただ孤独に耐えていた。ガルルが必死に金を工面していたことも、救い出された時の兄の絶望に満ちた表情も、ヤジュジュは忘れていない。

「……ガルル、もうその話はやめようって言ったはずだ。過ぎたことだし、貴方がそれを重荷に思う必要なんて……」
「確かに過ぎたことだ。だが、だからこそ今度は俺がお前を守る番なのだ」

兄の重みのある言葉に、ヤジュジュの胸が熱くなる。甘えてしまいたいという誘惑が心をよぎった、その瞬間だった。

『ちょっとぉ! どこで油売ってるんスか!? 上層部の人、カンッカンッスよ!?』

突如として窓の外から響いた大音量に、二人は肩を跳ねさせた。ヤジュジュに至っては、勢い余って椅子から転げ落ちる始末だ。

「ひゃぁぁあっ!」
「むっ!?」

窓の外では、ヤジュジュの部下Aが操縦する小型飛行メカがホバリングしていた。スピーカー越しに部下の怒鳴り声が続く。

『隊長ぉ! さっきから連絡取りまくりッスよ! あれ? そこにいらっしゃるのは……うわぁああ! ガルル中尉!? こ、これは失礼したッス! 以後お見知りおきを!』
「あ、ああ……いつも弟が世話になっているね」

ガルルが冷静に、かつ威厳を持って手を振ると、部下Aは慌てて敬礼を返し、脱兎のごとく飛び去っていった。

「全く……タイミングが悪いったらありゃしない」

ヤジュジュは額の汗を拭い、立ち上がった。そして、ガルルの手から報告書をひょいと取り上げる。

「ヤジュジュ?」
「やっぱり、これは自分の手で書くことにするよ。部下に示しがつかないし、何より貴方に借りを作ると、後で高くつきそうだしね」

ヤジュジュはいたずらっぽく笑い、書類を鞄に詰め込んだ。その顔には、先ほどまでの迷いはない。今の彼は、戦場を駆ける勇猛な少佐の顔をしていた。

「ふふ、ギロロによろしく伝えておいてくれ。じゃあ、行ってくるよ!」

風のように部屋を飛び出していく弟の背中を見送り、残されたガルルはふっと口角を上げた。

「……まったく。少しくらい甘えてくれてもいいものを」

独りごちは静かな会議室に消えた。だが、自立していく弟の姿は、ガルルの心にある古い傷跡を、ほんの少しだけ癒やしてくれたようだった。
2/53ページ
スキ