亀と獣
地下の隠れ家で暮らすようになってから、ゆきには密かな悩みがあった。
それは、夜になるとどうしてもやってくる「不眠症」だ。ベッドに入っても、人間だった頃の記憶や、変わってしまった自分の身体のこと、未来への不安が頭をグルグルと回り、なかなか眠りにつけない日が続いていた。
そんなゆきの様子にいち早く気づいたのは、あの優しい四人組のタートルズだった。
ある日の夜、隠れ家のリビングに集まったラファエロ、レオナルド、ドナテロ、ミケランジェロの4人は、深刻な顔で円陣を組んでいた。
「なぁ、最近ゆきの奴、あんまり寝てねぇみたいなんだ。目の下にクマ作っててよ……見てて痛々しいんだよな」
ラファエロが腕を組みながら、渋い顔で言った。
「だよなー。夜中にコソコソお水飲みに行ったりしてるの見たもん」マイキーも心配そうに耳を垂れる。
「人間の頃と環境がガラリと変わったストレスもあるだろうし、体内時計が狂ってるのかもな」レオナルドが腕を組んで分析する。
そこで立ち上がったのが、自称「天才科学者」のドナテロだった。
「ふっふっふ、任せてよ。こういうときこそ科学の出番さ。ずばり、人間の脳を強制的にオフモードにする手っ取り早い方法を思いついたよ」
ドナテロが自信満々に掲げた作戦。それは――
『ドナテロの、最高に退屈で独りよがりな長々とした科学の授業を聞かせれば、単調なリズムと難解すぎる内容に脳が飽和状態を起こして、いつの間にか意識がなくなっている作戦』だった。
「……それ、絶対ゆきのためじゃなくて、ドニーが自分の研究を聞かせたいだけだろ」とラファエロが鋭いツッコミを入れたが、「まあまあ、騙されたと思ってやってみようよ!」とドナテロは早速作戦を実行に移すことにした。
数分後。
実験室のホワイトボードの前に立ったドナテロは、プロジェクターを起動し、難解な数式と謎の生物の遺伝子配列が描かれた巨大なスライドを映し出した。
「えー、それでは本日は、変異生物(ミュータント)における細胞分裂の特異性と、外分泌腺の適応進化についての基礎講義を始めます。まず第1章、テロメアの短縮化に伴う……」
ソファーに座らされたゆきは、最初は「ドニー、わざわざありがとう……」と少し恐縮していた。
しかし。
「――おや? ゆき、このグラフの数値に注目してごらんよ。猫のミュータント化した君なら、この神経伝達物質の分泌パターンの変化に、何となく直感的なアプローチができるんじゃないかい?」
ドナテロが興味深そうに振ると、生物や理科の授業がもともと嫌いではなかったゆきの中で、何かがカチリと音を立てて切り替わった。
(あ、あれ……? これってつまり、私の体内で今起きてる細胞の書き換えってこと……?)
ゆきの黒い猫耳がピクンと動き、丸かった目がキラリと知的な光を帯びる。眠気を誘うどころか、彼女の知的好奇心に完璧に火がついてしまったのだ。
「待ってドニー! それって、もしシナプスの結合速度が環境適応を上回ったら、拒絶反応じゃなくて一時的な知覚過敏が起きるってことじゃないの?」
「おっ、いい着眼点だね! 実はその仮説の先にはね……」
そこから先は、もはや「授業」ではなく、完全に『熱を帯びた科学者たちのディープな議論』へと変貌を遂げた。
「いや、でも待ってよ、だとするとミトコンドリアの活性化エネルギーの効率は――」「そこなんだよ! 僕の計算だとこうで――」
ホワイトボードに次々と数式や図解が書き殴られ、二人の早口な専門用語の応酬が実験室に響き渡る。
――そして、その様子をソファーの端で聞いていた他の3人の運命は、言うまでしかなかった。
「……んあ……? なんか、ドニーのやつ、ずーーっとブツブツ言ってやがる……」
開始から15分もしないうちに、ラファエロは巨大な腕を組みながら、船を漕ぎ始めた。
「むにゃ……ねぎとろ、大盛りで……って、うぅ、難しすぎて頭がショートしそう……zzz」
マイキーは早々にソファーに横になり、完全に白目を剥いて夢の世界へ旅立っている。
レオナルドも「あー……今日のパトロールの復習より、この数式見るだけで脳がフリーズする……」と呟いたまま、ガクンと頭を垂れてスースーと規則正しい寝息を立て始めた。
結局、不眠症だったはずのゆきは、ドナテロと朝まで白熱した生物学の議論を交わし続け――気づけばすっかり頭を使い果たした結果、議論が終わった瞬間に「ふぁあ……」と心地よい疲労感と共に、ストンと深い眠りに落ちていったのだった。
翌朝。
実験室の床やソファーで盛大にヨダレを垂らして爆睡している3人を見下ろしながら、ゆきはすっきりと晴れやかな顔で「おはよ、ドニー。昨日はすごく楽しかったよ!」と微笑んだ。
ドナテロは「……作戦は大成功……と言っていいのかな?」と、ぐったり眠る兄弟たちを見ながら苦笑いするしかなかった。
それは、夜になるとどうしてもやってくる「不眠症」だ。ベッドに入っても、人間だった頃の記憶や、変わってしまった自分の身体のこと、未来への不安が頭をグルグルと回り、なかなか眠りにつけない日が続いていた。
そんなゆきの様子にいち早く気づいたのは、あの優しい四人組のタートルズだった。
ある日の夜、隠れ家のリビングに集まったラファエロ、レオナルド、ドナテロ、ミケランジェロの4人は、深刻な顔で円陣を組んでいた。
「なぁ、最近ゆきの奴、あんまり寝てねぇみたいなんだ。目の下にクマ作っててよ……見てて痛々しいんだよな」
ラファエロが腕を組みながら、渋い顔で言った。
「だよなー。夜中にコソコソお水飲みに行ったりしてるの見たもん」マイキーも心配そうに耳を垂れる。
「人間の頃と環境がガラリと変わったストレスもあるだろうし、体内時計が狂ってるのかもな」レオナルドが腕を組んで分析する。
そこで立ち上がったのが、自称「天才科学者」のドナテロだった。
「ふっふっふ、任せてよ。こういうときこそ科学の出番さ。ずばり、人間の脳を強制的にオフモードにする手っ取り早い方法を思いついたよ」
ドナテロが自信満々に掲げた作戦。それは――
『ドナテロの、最高に退屈で独りよがりな長々とした科学の授業を聞かせれば、単調なリズムと難解すぎる内容に脳が飽和状態を起こして、いつの間にか意識がなくなっている作戦』だった。
「……それ、絶対ゆきのためじゃなくて、ドニーが自分の研究を聞かせたいだけだろ」とラファエロが鋭いツッコミを入れたが、「まあまあ、騙されたと思ってやってみようよ!」とドナテロは早速作戦を実行に移すことにした。
数分後。
実験室のホワイトボードの前に立ったドナテロは、プロジェクターを起動し、難解な数式と謎の生物の遺伝子配列が描かれた巨大なスライドを映し出した。
「えー、それでは本日は、変異生物(ミュータント)における細胞分裂の特異性と、外分泌腺の適応進化についての基礎講義を始めます。まず第1章、テロメアの短縮化に伴う……」
ソファーに座らされたゆきは、最初は「ドニー、わざわざありがとう……」と少し恐縮していた。
しかし。
「――おや? ゆき、このグラフの数値に注目してごらんよ。猫のミュータント化した君なら、この神経伝達物質の分泌パターンの変化に、何となく直感的なアプローチができるんじゃないかい?」
ドナテロが興味深そうに振ると、生物や理科の授業がもともと嫌いではなかったゆきの中で、何かがカチリと音を立てて切り替わった。
(あ、あれ……? これってつまり、私の体内で今起きてる細胞の書き換えってこと……?)
ゆきの黒い猫耳がピクンと動き、丸かった目がキラリと知的な光を帯びる。眠気を誘うどころか、彼女の知的好奇心に完璧に火がついてしまったのだ。
「待ってドニー! それって、もしシナプスの結合速度が環境適応を上回ったら、拒絶反応じゃなくて一時的な知覚過敏が起きるってことじゃないの?」
「おっ、いい着眼点だね! 実はその仮説の先にはね……」
そこから先は、もはや「授業」ではなく、完全に『熱を帯びた科学者たちのディープな議論』へと変貌を遂げた。
「いや、でも待ってよ、だとするとミトコンドリアの活性化エネルギーの効率は――」「そこなんだよ! 僕の計算だとこうで――」
ホワイトボードに次々と数式や図解が書き殴られ、二人の早口な専門用語の応酬が実験室に響き渡る。
――そして、その様子をソファーの端で聞いていた他の3人の運命は、言うまでしかなかった。
「……んあ……? なんか、ドニーのやつ、ずーーっとブツブツ言ってやがる……」
開始から15分もしないうちに、ラファエロは巨大な腕を組みながら、船を漕ぎ始めた。
「むにゃ……ねぎとろ、大盛りで……って、うぅ、難しすぎて頭がショートしそう……zzz」
マイキーは早々にソファーに横になり、完全に白目を剥いて夢の世界へ旅立っている。
レオナルドも「あー……今日のパトロールの復習より、この数式見るだけで脳がフリーズする……」と呟いたまま、ガクンと頭を垂れてスースーと規則正しい寝息を立て始めた。
結局、不眠症だったはずのゆきは、ドナテロと朝まで白熱した生物学の議論を交わし続け――気づけばすっかり頭を使い果たした結果、議論が終わった瞬間に「ふぁあ……」と心地よい疲労感と共に、ストンと深い眠りに落ちていったのだった。
翌朝。
実験室の床やソファーで盛大にヨダレを垂らして爆睡している3人を見下ろしながら、ゆきはすっきりと晴れやかな顔で「おはよ、ドニー。昨日はすごく楽しかったよ!」と微笑んだ。
ドナテロは「……作戦は大成功……と言っていいのかな?」と、ぐったり眠る兄弟たちを見ながら苦笑いするしかなかった。
