亀と獣
まだ空が青白く白み始める前の、静まり返った早朝の地下隠れ家。
誰もいないはずのリビングに、足音が一つ。
「ん……? この時間はまだ誰も起きる頃じゃねぇはずだが……」
トレーニング用の赤いマスクをまだ額に掛けたまま、ラファエロはキッチンへと向かっていた。ふと目をやったリビングのソファの隅に、小さく丸まっている人影を見つけて彼は足を止める。
「――って、おい。ゆき?」
電気のつかない薄暗い部屋で、膝を抱えてじっと座っていたゆきは、びくりと肩を震わせて顔を上げた。
「……あ、ラフ……おはよう」
「お前、こんな朝っぱらから何やってんだ? もしかして……早起きして朝食の準備でも手伝おうってのか? ははっ、すげぇじゃねぇか、偉いぞ!」
ラファエロはガハハと豪快に笑いながら、いつものようにその大きな手でゆきの頭をポンポンと撫でようとした。しかし、近づいた瞬間に彼女の顔色を見て、その手がピタリと止まる。
ゆきの白い頬は青白く、その目の下には、隠しきれない痛々しい「クマ」がくっきりと刻まれていた。とても清々しく早起きした人間の顔ではない。
「……おい、なんだその顔は。……もしかして、全然寝てねぇのか?」
ラファエロのトーンから一気にふざけた空気が消え、真剣な低音に変わる。
ゆきは気まずそうに視線を泳がせ、モジモジとパジャマの裾を指先でいじった。
「ううん……偉いわけじゃなくて……ただ、眠れなくて……」
「眠れなかった? どうしてだ、部屋が寒かったか? それともまた調子悪いのか?」
心配そうに身を乗り出すラファエロに、ゆきは小さく首を横に振った。
「そうじゃなくて……ミュータントになってから、なんだかずっと不眠症気味でさ……。夜になると感覚が冴えすぎちゃって、少しの物音とか、暗闇の気配とかにどうしても敏感になっちゃうの。それに、この身体になってからどうやって寝たらいいのか、いまだによく分かんなくて……。気づいたら朝になってたって日が、最近多いんだよね……」
言いながら、ゆきは自分の目の下のクマを指先でトントンと軽く擦った。
人間の頃の緩んだ感覚から、夜行性でいつでも臨戦態勢をとれる猫の身体へと変わってしまった代償。焦れば焦るほど神経が逆立ち、布団に入っても一睡もできない夜が増えていたのだ。
みんなに心配をかけたくなくて隠していたわけではないが、こうして見つかってしまうと情けなくて、ゆきは小さく肩を落とした。
「……そうだったのか」
ラファエロは黙り込んだ。
彼女がそんな悩みを一人で抱え込んでいたこと、そして、その小さな身体の裏側でどれほど緊張が続いているのかを想像すると、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
ガシッ。
迷いのない大きな腕が伸びてくると、ゆきは次の瞬間、ふわりとラファエロの分厚い胸の中にすっぽりと包み込まれていた。
「っ、ラフ……?」
「馬鹿野郎。そんなこと、なんで今まで黙ってたんだよ」
呆れたような、しかしどこまでも優しく温かい声が頭の上から降ってくる。
「寝られねぇなら、無理に一人で起きなくてよかったんだ。俺たちの部屋に来いよ。……お前が安心して眠れるまで、このデカい腕で抱っこしてでも寝かしつけてやるからさ」
「……そんなの、赤ちゃんみたいじゃん……」
「赤ちゃんでも何でもいいだろ! 健康第一だ、ほら、今から二度寝するぞ」
強引だけど、これ以上ないほど心強い言葉に、ゆきの張り詰めていた神経がふっと緩んだ。
誰もいないはずのリビングに、足音が一つ。
「ん……? この時間はまだ誰も起きる頃じゃねぇはずだが……」
トレーニング用の赤いマスクをまだ額に掛けたまま、ラファエロはキッチンへと向かっていた。ふと目をやったリビングのソファの隅に、小さく丸まっている人影を見つけて彼は足を止める。
「――って、おい。ゆき?」
電気のつかない薄暗い部屋で、膝を抱えてじっと座っていたゆきは、びくりと肩を震わせて顔を上げた。
「……あ、ラフ……おはよう」
「お前、こんな朝っぱらから何やってんだ? もしかして……早起きして朝食の準備でも手伝おうってのか? ははっ、すげぇじゃねぇか、偉いぞ!」
ラファエロはガハハと豪快に笑いながら、いつものようにその大きな手でゆきの頭をポンポンと撫でようとした。しかし、近づいた瞬間に彼女の顔色を見て、その手がピタリと止まる。
ゆきの白い頬は青白く、その目の下には、隠しきれない痛々しい「クマ」がくっきりと刻まれていた。とても清々しく早起きした人間の顔ではない。
「……おい、なんだその顔は。……もしかして、全然寝てねぇのか?」
ラファエロのトーンから一気にふざけた空気が消え、真剣な低音に変わる。
ゆきは気まずそうに視線を泳がせ、モジモジとパジャマの裾を指先でいじった。
「ううん……偉いわけじゃなくて……ただ、眠れなくて……」
「眠れなかった? どうしてだ、部屋が寒かったか? それともまた調子悪いのか?」
心配そうに身を乗り出すラファエロに、ゆきは小さく首を横に振った。
「そうじゃなくて……ミュータントになってから、なんだかずっと不眠症気味でさ……。夜になると感覚が冴えすぎちゃって、少しの物音とか、暗闇の気配とかにどうしても敏感になっちゃうの。それに、この身体になってからどうやって寝たらいいのか、いまだによく分かんなくて……。気づいたら朝になってたって日が、最近多いんだよね……」
言いながら、ゆきは自分の目の下のクマを指先でトントンと軽く擦った。
人間の頃の緩んだ感覚から、夜行性でいつでも臨戦態勢をとれる猫の身体へと変わってしまった代償。焦れば焦るほど神経が逆立ち、布団に入っても一睡もできない夜が増えていたのだ。
みんなに心配をかけたくなくて隠していたわけではないが、こうして見つかってしまうと情けなくて、ゆきは小さく肩を落とした。
「……そうだったのか」
ラファエロは黙り込んだ。
彼女がそんな悩みを一人で抱え込んでいたこと、そして、その小さな身体の裏側でどれほど緊張が続いているのかを想像すると、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
ガシッ。
迷いのない大きな腕が伸びてくると、ゆきは次の瞬間、ふわりとラファエロの分厚い胸の中にすっぽりと包み込まれていた。
「っ、ラフ……?」
「馬鹿野郎。そんなこと、なんで今まで黙ってたんだよ」
呆れたような、しかしどこまでも優しく温かい声が頭の上から降ってくる。
「寝られねぇなら、無理に一人で起きなくてよかったんだ。俺たちの部屋に来いよ。……お前が安心して眠れるまで、このデカい腕で抱っこしてでも寝かしつけてやるからさ」
「……そんなの、赤ちゃんみたいじゃん……」
「赤ちゃんでも何でもいいだろ! 健康第一だ、ほら、今から二度寝するぞ」
強引だけど、これ以上ないほど心強い言葉に、ゆきの張り詰めていた神経がふっと緩んだ。
