亀と獣

地下の隠れ家で暮らし始めてから、しばらくの時間が過ぎた。
身体の変化にも少しずつ慣れ、タートルズたちとの日常に溶け込んでいっていたゆきだったが、ここ数日、ドナテロはある違和感を覚えていた。

「……ん?」

ラボで作業をしていたドナテロは、廊下から聞こえてきた微かな音に手を止めた。
*「……んっ、くっ……けほ、ごほっ……!」*

それは、何かを押し殺すような、乾いた変な咳だった。
数日前から、ゆきが時折その咳をしているのを聞いていた。ドナテロは最初、「人間の頃の名残で少し風邪気味なのかな」くらいに思ってあまり気に留めていなかったのだが、日を追うごとに、その咳の仕方にどこか引っかかるものを感じ始めていた。なんだか、喉や気管の奥が詰まっているような、苦しげな音なのだ。

(風邪にしては熱もないし、長引いてるな……。今度、しっかり診ておいたほうがいいかもしれない)

そう思いながらも、ラボの作業に戻ったその日の午後。
隠れ家のトレーニングスペースでは、ラファエロとゆきが汗を流していた。

「ほら、ゆき! そこだ、もっと重心を低くして隙を作るな!」
「ううん、こう……っ!?」

ラファエロの繰り出す豪快な攻撃を、ゆきは身軽な身のこなしでかわしていく。ミュータントとしての身体能力は日に日に向上しており、最近では簡単な手合わせならついていけるようになっていた。
しかし、激しい運動を続けていたその時――。

「……っ、はぁ、はぁ……っ!」

ぴたりと、ゆきの動きが止まった。
彼女はその場に膝をつき、両手で自分の喉元をギュッと押さえた。

「おい、どうしたゆき? もうバテたのか?」
心配そうに近づいたラファエロだったが、次の瞬間、青ざめた。

ゆきの口から漏れたのは、先日の比ではない、激しく苦しそうな喘鳴(ぜんめい)だった。
*「ひゅーー……っ、くっ、はぁっ、……げほっ……!」*

呼吸が浅く、何度息を吸い込んでも空気が肺に入ってこない。喉の奥でゼーゼーと音が鳴り、ゆきの顔から血の気がサーッと引いていく。

「ゆきっ……!? おい、どうしたんだよ!」
ラファエロの頭が真っ白になった。さっきまでの頼もしいお兄ちゃんはどこへやら、恐怖に歪んだ顔でゆきの肩を掴む。

「は、ひゅっ……息が……すえない……っ、ぅ……!」
「うそだろ、おい……! ドナテロォオオオッ!! レオ! マイキー!! 早く来い!!」

ラファエロの絶叫を聞きつけて、ラボからドナテロが、隣室からレオナルドとマイキーが慌てて飛び込んできた。

「どうしたのラフィ――って、ゆきちゃん!?」
「これ、は……っ!」

駆け寄ったドナテロは、ゆきの苦しみ方とあの変な咳の理由を、一瞬で理解した。

「喘息の発作だ……!」
「喘息……っ? なんだそれは!」ラファエロが叫ぶ。

「ゆきちゃん、人間の頃から喘息持ちだったんだね……! 気管が狭窄(きょうさく)を起こしてるんだ、早く吸入器を――!」
ドナテロは自分のラボへ猛ダッシュで引き返し、特製の発作治療薬と吸入器を持って一目散に戻ってきた。

「ゆきちゃん、僕の言う通りにして。深く息を吸ってから、これを口にくわえて――そう、ゆっくり吸い込んで……っ」

ドナテロに促されるまま、ゆきは震える手で吸入器を口にあて、必死に息を吸い込んだ。
数秒間、全員が息を詰めて見守る中、何度か咳き込んだものの、ゆきの荒かった呼吸が徐々に落ち着きを取り戻していく。

「……はぁ、はぁ……っ、ふぅ……」

ようやく酸素が肺に行き渡り、ゆきは床にぺたりとヘナヘナと座り込んだ。額には冷や汗がびっしょりと滲み、猫耳もしょんぼりと垂れ下がっている。

「……よかった……発作が治まったよ」
ドナテロがホッと胸を撫で下ろすと、周囲を取り囲んでいたタートルズたちもようやく息をついた。

当のゆきは、申し訳なさそうにぎゅっと目を閉じて頭を下げた。
「ごめんなさい……みんなに、心配かけて……」

隠していたつもりはなかった。ただ、ミュータントになってからというもの、不思議と一度も発作が起きていなかったので、ゆき自身も「もしかして、体質が変わったから治ったのかも」と思い込んで油断していたのだ。

「隠してたわけじゃ、ないんだ……。人間の頃はたまにあったんだけど、ここにきてから全然出なかったから、もうすっかり治ったんだって思ってて……」

消え入りそうな声で謝るゆきを見て、ラファエロはゆっくりと大きな息を吐き出した。
彼はまだ少し震えている手をごつごつとした拳に握りしめると、ゆきの前にどっかりと胡坐をかいて座り込んだ。

「……お前なぁ」

低く、けれどどこかホッとしたような声。
ラファエロは大きな手を伸ばすと、ゆきの頭をガシッと掴み、自分の胸元へと強引に引き寄せた。

「隠してただなんて思ってねぇよ。……ただ、な。あんな風に苦しそうにしてるお前を見たら、心臓が止まるかと思ったんだぞ」

「ラフ……」

「治ったと思って油断してたのは、俺たちも同じだ。これからは、そういう体調の癖とかもちゃんと教えてくれよ。お前が一人で抱え込む必要は、どこにもねぇんだからさ」

叱るどころか、どこまでも優しく包み込むようなラファエロの言葉に、ゆきは胸が熱くなり、再び目頭が熱くなった。

「うん……ごめんね、ラフ。これからは、ちゃんと言う……」
「おう、それでいい」

ドナテロが「今度から僕の方でも気管支のケアができる薬を常備しとくよ」と笑い、マイキーが「びっくりしたぁ、もう激しい運動は禁止ね!」と温かいお茶を差し入れてくれる。

人間の頃からの持病さえもまるごと受け入れてくれる家族のような存在に囲まれ、ゆきは安心感に包まれながら、ラファエロの温かい腕の中でゆっくりと呼吸を整えるのだった。
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