うさぎのモンスターと骨兄弟
世界が、不自然な光に包まれて「巻き戻った」。
あの凄惨な虐殺も、サンズが命を懸けて戦った最後の審判も、すべてがなかったことにされた。町の住民たちは何事もなかったかのように笑い、パピルスは今日も元気にスパゲッティを作っている。
けれど、世界がどれだけ綺麗にリセットされようと、ゆきの「耳」と「魂」に刻み込まれた恐怖だけは、消えてくれなかった。
リセットの直前、ゆきはただ、いつも通りスノーフルの町を歩いていただけだった。
そこで、見慣れない衣服を着た、小さなニンゲンの子供を見かけた。それが何者かも知らず、ただ親切心から「こんにちは」と声をかけようとした、それだけだった。
次の瞬間には、冷酷な光を放つ刃物が、ゆきの柔らかい腹部に深く突き刺さっていた。
(あつい……っ、いたい、いたいよぉ……!!)
肉を切り裂くおぞましい音。内臓が焼け付くような激痛。何が起きたのかも分からないまま、ゆきは雪の上に倒れ伏し、血の代わりに自分の身体がサラサラと乾いた「塵」へと崩れ去っていく恐怖の中で、悶え苦しみながら意識を失ったのだ。
あの痛みが、あの絶望が、どうしても頭から離れない。
だから、世界が元通りになっても、ゆきは家の奥底に引きこもり、布団を頭から被ってガタガタと震え続けることしかできなかった。
自慢だった大きな耳は、今は恐怖の増幅器でしかなかった。
ドアの向こうから聞こえる住民たちの楽しげな声も、雪を踏みしめる足音も、すべてが「自分を殺しにくるニンゲンの足音」に聞こえてしまう。
「だれも、信じられない……。みんな、みんな怖いよぉ……っ」
もう、誰も信じられない。あの優しかったパピルスも、いつも笑わせてくれたサンズも、もしかしたら化け物で、自分をまたあの激痛の中に突き落とすのではないか。そう思うと、部屋の鍵を開けることすらできなかった。
---
カチャリ、と静かな部屋に、不意に空間が歪むような音が響いた。
「ひぃっ……!?」
ゆきは悲鳴を上げて、布団の中にさらに深く潜り込んだ。心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つ。にんげんだ。またにんげんが、自分を殺しにナイフを持ってやってきたんだ――。
「……よお、ゆき。ずいぶんと頑丈な引きこもりを決め込んでるじゃん」
布団越しに聞こえてきたのは、低くて、少し掠れた、聞き馴染みのある声だった。
サンズだ。彼はドアの鍵など関係なく、ショートカットで直接部屋の中に入ってきたのだ。
「いやだ、こないで! お願いだから、私を殺さないで……っ!!」
ゆきは布団の中で泣き叫んだ。
いつもなら、サンズの声を聞けば安心したはずだった。けれど今のゆきは、彼がポケットの中にナイフを忍ばせているのではないかと、本気で怯えていた。
サンズは何も言わなかった。
ただ、静かに歩み寄り、布団にくるまって丸まったまま震えているゆきの横に、どさりと腰掛けた。
「殺さねえよ。オイラが、お前さんを傷つけるわけないだろ」
「うそだっ……! みんな、笑いながら、急にナイフで刺すんだもん! すっごく痛くて、あつくて、私、塵になっちゃったんだよ……! 誰も信じられない、サンズだって、本当は怖いよぅ……っ!」
ゆきは激しい涙とともに、胸の奥に溜まっていた呪詛のような恐怖を吐き出した。
世界がリセットされた以上、サンズにはゆきが「一度殺された」という明確な記憶はないはずだった。けれど、サンズには『タイムライン』の異常を察知する力がある。そして何より、人一倍いい耳を持つ大ファンが、今どれほどの絶望の底で鳴いているのか、その声の震えだけで全てを察していた。
サンズはポケットからゆっくりと手を出すと、布団の上から、ゆきの小さな身体を包み込むようにそっと手を置いた。
骨の手の冷たさが、布団越しに伝わってくる。
「……そっか。痛かったな、ゆき」
サンズの声は、いつものぐうたらな響きではなかった。
優しくて、ひどく静かで、そして、ゆきと同じように胸を痛めているのが伝わってくるような声だった。
「誰も信じられなくて当然だ。あんなひどい目に遭わされて、また外に出ろなんて、オイラも言えねえわ。……オイラのことだって、疑っていい。怖がっていいよ」
「サンズ……?」
「でもさ、これだけは覚えておいてくれ」
サンズは布団の隙間にそっと指を差し入れ、ゆきの長い耳の先を、驚くほど丁寧に、優しく撫でた。
「お前さんが誰も信じられなくなっても、オイラはお前さんを信じてる。お前さんがこの部屋から一歩も出たくないなら、オイラが毎日、ここに美味いもんを運んでやる。お前さんがオイラの顔を見たくないなら、ドアの向こうからダジャレだけを置いてってやるよ」
ゆきは、布団の中で目を見開いた。
耳を澄ます。サンズの胸の奥から聞こえる音は、嘘や悪意の濁った響きなんかじゃなかった。ただただ、ゆきを心配し、守りたいと願う、あの温かくて不器用な「サンズの音」そのものだった。
「お前さんがまた、オイラのジョークで笑ってくれる日まで……何年かかろうが、オイラはずっと待ってるぜ。なんたってオイラは、お前さんの世界で一番の『ファン』だからな」
布団の隙間から、じわりと涙が滲み出て、サンズの骨の手を濡らした。
ゆきはゆっくりと、本当に恐る恐る、布団の端を下げて顔を出した。
目の前には、いつもの青いパーカーを着たサンズがいた。その両目には、静かで優しい白い光が灯っていて、ゆきを真っ直ぐに見つめていた。
「……本当に、刺さない?」
「ああ。もしオイラがお前さんを傷つけるような真似をしたら、それこそオイラの骨を全部バラバラにして、パピルスのスパゲッティの具材にでもしてくれよ」
不謹慎で、いつも通りのくだらないジョーク。
それを聞いた瞬間、ゆきの胸の奥の凍りついた痛みが、ほんの少しだけ溶けたような気がした。
ゆきは小さな手足を伸ばし、サンズの青いパーカーの袖を、ぎゅっと、弱々しく握りしめた。サンズはそれを拒まず、むしろ引き寄せるようにして、小さなゆきの頭を何度も優しく撫で続けた。
誰も信じられない世界の中で、たった一つだけ。
この冷たくて優しい骨の温もりだけが、ゆきが再び息をするための、唯一の光だった。
あの凄惨な虐殺も、サンズが命を懸けて戦った最後の審判も、すべてがなかったことにされた。町の住民たちは何事もなかったかのように笑い、パピルスは今日も元気にスパゲッティを作っている。
けれど、世界がどれだけ綺麗にリセットされようと、ゆきの「耳」と「魂」に刻み込まれた恐怖だけは、消えてくれなかった。
リセットの直前、ゆきはただ、いつも通りスノーフルの町を歩いていただけだった。
そこで、見慣れない衣服を着た、小さなニンゲンの子供を見かけた。それが何者かも知らず、ただ親切心から「こんにちは」と声をかけようとした、それだけだった。
次の瞬間には、冷酷な光を放つ刃物が、ゆきの柔らかい腹部に深く突き刺さっていた。
(あつい……っ、いたい、いたいよぉ……!!)
肉を切り裂くおぞましい音。内臓が焼け付くような激痛。何が起きたのかも分からないまま、ゆきは雪の上に倒れ伏し、血の代わりに自分の身体がサラサラと乾いた「塵」へと崩れ去っていく恐怖の中で、悶え苦しみながら意識を失ったのだ。
あの痛みが、あの絶望が、どうしても頭から離れない。
だから、世界が元通りになっても、ゆきは家の奥底に引きこもり、布団を頭から被ってガタガタと震え続けることしかできなかった。
自慢だった大きな耳は、今は恐怖の増幅器でしかなかった。
ドアの向こうから聞こえる住民たちの楽しげな声も、雪を踏みしめる足音も、すべてが「自分を殺しにくるニンゲンの足音」に聞こえてしまう。
「だれも、信じられない……。みんな、みんな怖いよぉ……っ」
もう、誰も信じられない。あの優しかったパピルスも、いつも笑わせてくれたサンズも、もしかしたら化け物で、自分をまたあの激痛の中に突き落とすのではないか。そう思うと、部屋の鍵を開けることすらできなかった。
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カチャリ、と静かな部屋に、不意に空間が歪むような音が響いた。
「ひぃっ……!?」
ゆきは悲鳴を上げて、布団の中にさらに深く潜り込んだ。心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つ。にんげんだ。またにんげんが、自分を殺しにナイフを持ってやってきたんだ――。
「……よお、ゆき。ずいぶんと頑丈な引きこもりを決め込んでるじゃん」
布団越しに聞こえてきたのは、低くて、少し掠れた、聞き馴染みのある声だった。
サンズだ。彼はドアの鍵など関係なく、ショートカットで直接部屋の中に入ってきたのだ。
「いやだ、こないで! お願いだから、私を殺さないで……っ!!」
ゆきは布団の中で泣き叫んだ。
いつもなら、サンズの声を聞けば安心したはずだった。けれど今のゆきは、彼がポケットの中にナイフを忍ばせているのではないかと、本気で怯えていた。
サンズは何も言わなかった。
ただ、静かに歩み寄り、布団にくるまって丸まったまま震えているゆきの横に、どさりと腰掛けた。
「殺さねえよ。オイラが、お前さんを傷つけるわけないだろ」
「うそだっ……! みんな、笑いながら、急にナイフで刺すんだもん! すっごく痛くて、あつくて、私、塵になっちゃったんだよ……! 誰も信じられない、サンズだって、本当は怖いよぅ……っ!」
ゆきは激しい涙とともに、胸の奥に溜まっていた呪詛のような恐怖を吐き出した。
世界がリセットされた以上、サンズにはゆきが「一度殺された」という明確な記憶はないはずだった。けれど、サンズには『タイムライン』の異常を察知する力がある。そして何より、人一倍いい耳を持つ大ファンが、今どれほどの絶望の底で鳴いているのか、その声の震えだけで全てを察していた。
サンズはポケットからゆっくりと手を出すと、布団の上から、ゆきの小さな身体を包み込むようにそっと手を置いた。
骨の手の冷たさが、布団越しに伝わってくる。
「……そっか。痛かったな、ゆき」
サンズの声は、いつものぐうたらな響きではなかった。
優しくて、ひどく静かで、そして、ゆきと同じように胸を痛めているのが伝わってくるような声だった。
「誰も信じられなくて当然だ。あんなひどい目に遭わされて、また外に出ろなんて、オイラも言えねえわ。……オイラのことだって、疑っていい。怖がっていいよ」
「サンズ……?」
「でもさ、これだけは覚えておいてくれ」
サンズは布団の隙間にそっと指を差し入れ、ゆきの長い耳の先を、驚くほど丁寧に、優しく撫でた。
「お前さんが誰も信じられなくなっても、オイラはお前さんを信じてる。お前さんがこの部屋から一歩も出たくないなら、オイラが毎日、ここに美味いもんを運んでやる。お前さんがオイラの顔を見たくないなら、ドアの向こうからダジャレだけを置いてってやるよ」
ゆきは、布団の中で目を見開いた。
耳を澄ます。サンズの胸の奥から聞こえる音は、嘘や悪意の濁った響きなんかじゃなかった。ただただ、ゆきを心配し、守りたいと願う、あの温かくて不器用な「サンズの音」そのものだった。
「お前さんがまた、オイラのジョークで笑ってくれる日まで……何年かかろうが、オイラはずっと待ってるぜ。なんたってオイラは、お前さんの世界で一番の『ファン』だからな」
布団の隙間から、じわりと涙が滲み出て、サンズの骨の手を濡らした。
ゆきはゆっくりと、本当に恐る恐る、布団の端を下げて顔を出した。
目の前には、いつもの青いパーカーを着たサンズがいた。その両目には、静かで優しい白い光が灯っていて、ゆきを真っ直ぐに見つめていた。
「……本当に、刺さない?」
「ああ。もしオイラがお前さんを傷つけるような真似をしたら、それこそオイラの骨を全部バラバラにして、パピルスのスパゲッティの具材にでもしてくれよ」
不謹慎で、いつも通りのくだらないジョーク。
それを聞いた瞬間、ゆきの胸の奥の凍りついた痛みが、ほんの少しだけ溶けたような気がした。
ゆきは小さな手足を伸ばし、サンズの青いパーカーの袖を、ぎゅっと、弱々しく握りしめた。サンズはそれを拒まず、むしろ引き寄せるようにして、小さなゆきの頭を何度も優しく撫で続けた。
誰も信じられない世界の中で、たった一つだけ。
この冷たくて優しい骨の温もりだけが、ゆきが再び息をするための、唯一の光だった。
