クッキーで吸血鬼な彼と

「……ねぇ、ヴァンパイア味クッキー。ここ、本当に貴方の家なの?」
ゆきは目の前にそびえ立つ巨大な建造物を見上げて、完全に硬直していた。
ブラック企業に心身ともに限界を迎え、ヴァンパイア味クッキーの「じゃあさ、オレの故郷にちょっと逃げちゃおうか」という適当な一言に流されるまま、気づけばクッキーたちの世界へとやってきていた。
案内されたのは、鬱蒼とした森の奥深くに佇む、息をのむほど立派でクラシカルな大邸宅。薔薇のツタが絡まる鉄格子、重厚な彫刻が施された大きな扉――どう見ても、由緒正しき貴族か大富豪が住むようなお屋敷だ。
「そうだよ。ちょっと埃っぽいかもしれないけど、好きに使っていいからねぇ」
当の本人は、人間の世界にいた時と全く変わらない、緊張感のない様子で鍵を開けて中へと入っていく。
広々としたエントランスホール、高い天井から吊り下がる豪奢なシャンデリア。磨き抜かれた床にはふかふかの絨毯が敷かれており、壁には歴史のありそうな肖像画がずらりと並んでいる。
「すごすぎる……。何部屋あるの、ここ……」
「さぁ? 数えたことないからわからないや。オレ、基本的にはリビングのソファから動かないし」
「もしかして……ヴァンパイア味クッキーって、実はもの凄く高貴で、偉い人(クッキー)だったの……!?」
人間の世界では、一日中ソファでゴロゴロしながら市販の葡萄ジュースを飲んでいるだけの「ちょっとだらしない居候」だった。それがまさか、こんな大豪邸の主だったなんて。
急に彼が雲の上の存在、それこそ本物の『伯爵様』のように思えてきて、ゆきは急にドギマギして緊張しはじめた。借りてきた猫のように、服の裾をぎゅっと握りしめてソワソワとあたりを見回す。
そんなゆきの様子に気づいたヴァンパイア味クッキーは、ふっとおかしそうに目を細めた。
「あはは、なんだいゆき、急に他人行儀になっちゃって。オレが凄いクッキーに見える?」
「だ、だって、こんなに広いお屋敷に1人で住んでるなんて、普通じゃないよ! 私なんか、あんな狭いアパートでヒーヒー言いながら残業してたのに……!」
一歩引いて畏まろうとするゆき。
すると、ヴァンパイア味クッキーは歩み寄り、いつもと全く同じ、大きくて少しひんやりとした手でゆきの頭をぽんぽんと撫でた。
「あのね、ゆき。ここがどれだけ広くても、オレはオレだよ。このお屋敷だって、ただ先祖代々そこにあるからオレが1人で占領してるだけさ。偉い仕事なんて、なーんにもしてないよ」
「でも……」
「それにさ、こんなに広くても、1人じゃ退屈で、ただ眠るだけの場所だったんだ。だけど、今はゆきが隣にいる。それが何より嬉しいかな」
彼はそう言って、嬉しそうにワイングラス(中身はもちろん極上の葡萄ジュース)を掲げた。
「ほら、オレの特等席のソファ、ゆきに半分貸してあげる。こっちの世界には、ゆきをこき使う上司も、終わらない残業も、意地悪な同僚もいない。ただ、オレと、のんびりした時間があるだけさ」
いつもの、気怠げで、だけど絶対的な安心感をくれる笑顔。
その表情を見た瞬間、ゆきの緊張はすーっと溶けていった。お屋敷がどれだけ豪華になっても、彼はやっぱり、ゆきの心を救ってくれる優しい吸血鬼のままだ。
「……うん。じゃあ、遠慮なく、その大豪邸のソファでゴロゴロさせてもらうね」
「そうこなくっちゃ。じゃあ、ゆきの新しい生活と、オレの最高の同居人に――乾杯しようじゃないか」
シャンデリアの光を浴びて、彼の瞳とグラスの葡萄ジュースが、これまでになく美しくきらめいた。
6/8ページ
スキ