クッキーで吸血鬼な彼と

翌日。昨夜の憤慨が嘘のように、ゆきはまたしても疲れ果てた姿でアパートに帰ってきた。
「ただいま……。今日は一段と、ライフがゼロだよ……」
カバンを床に放り出し、限界一歩手前でリビングに滑り込む。
ソファでは、相変わらずヴァンパイア味クッキーがだらしなく横たわり、何をするでもなく天井を見つめていた。
「おや、おかえり。今日もすっかりお疲れモードだねぇ。同僚の人たちには、もう余計なことは言わなかったかい?」
「言わないよー、もう懲りたもん……」
ゆきは床にぺたんと座り込み、ソファの彼を見上げる。
すると、ヴァンパイア味クッキーはふっと視線を落とし、いつもより少しだけ真面目なトーンで口を開いた。
「実はさ、ゆきが仕事に行ってる間、オレなりにちょっと考えてたんだよね」
「え? 何を?」
「どうやったら、ゆきがその『ぶらっく企業』ってやつから、もっと楽に逃げ出せるかなーって。オレの故郷(クッキーの世界)なら、魔女から逃げるなんて日常茶飯事だしさ」
彼は体を起こすと、テーブルの上に置いてあった一枚の紙を指差した。そこには、どこかのお店のチラシの裏に、彼の独特な丸っこい筆跡で何かが出鱈目に書き殴られている。
「……これ、なに?」
「題して、『ゆきを救うための、オレ様の完璧な脱出作戦(仮)』!」
ゆきが紙を手に取って見てみると、そこには驚くほど適当なイラストと文字が並んでいた。
【作戦其の1】
ゆきが会社に行っている間、オレが会社に忍び込んで、偉い人の机の上の書類を全部葡萄ジュースで真っ赤に染める。仕事がなくなってハッピー!
【作戦其の2】
朝、起きられないゆきのために、オレがコウモリに変身して会社に「ゆきは今日からコウモリの仲間入りをしたので、出社できません」と書いた手紙を届ける。
【作戦其の3】
いっそのこと、オレがその会社を買い取る。……あ、でもオレ、人間のお金持ってないや。
「……ちょっと、ツッコミどころが多すぎるんだけど!」
ゆきは思わず吹き出してしまった。
作戦1はただのテロだし、作戦2はただの怪文書、作戦3にいたっては前提から崩壊している。
「あはは、やっと笑ったね。まぁ、オレに人間のビジネスなんてサッパリだからさ、これが限界」
ヴァンパイア味クッキーは頭の後ろで手を組み、再びソファに背を預けた。
「でもさ、オレは本気だよ。ゆきが毎日、その『会社』って箱の中で、すり減っていくのを見るのは退屈だし、何より嫌なんだよね。法律だの常識だのは知らないけど、ゆきの心が一番大事でしょ?」
赤い瞳が、真っ直ぐにゆきを捉える。
いつものんびりしていて、葡萄ジュースばかり飲んでいる彼。だけど、誰よりもゆきの傷つきやすさを理解し、その心を本気で守ろうとしてくれている。
「……ありがとう。なんか、そのめちゃくちゃな作戦見てたら、本当にどうでもよくなってきた」
「そうそう、それでいいんだよ。人間の人生なんて、クッキーが焼き上がるよりは長いんだから、少しくらい立ち止まったって誰も文句は言わせないさ」
彼はグラスにトクトクと葡萄ジュースを注ぎ、ゆきの前に差し出した。
「さ、作戦会議(という名のただの愚痴大会)をはじめようか。今夜は朝まで、オレがいくらでも付き合ってあげるよ」
「うん……!」
ゆきはグラスを受け取り、彼と軽くカチン、と音を立てる。
冷たい葡萄ジュースの甘さが、乾いた心にじんわりと染み渡っていく。彼の突飛で優しい優しさに包まれながら、ゆきは「もう少しだけ、自分のために生きてみよう」と、心の中で小さく決意するのだった。
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