クッキーで吸血鬼な彼と
その日は、朝から雨が降っていた。
低気圧のせいか、それとも重なる疲労のせいか、鉛のように重い体を叩き起こして会社へ向かった。だけど、待っていたのはいつも以上の理不尽だった。 自分のミスではないことで理不尽に怒鳴られ、終わりの見えない雑務を押し付けられ、気づけば時計の針は昨日と同じ場所を指している。
「がんばらなきゃ……新卒なんだから、これくらい……」
呪文のように自分に言い聞かせながら、やっとの思いでアパートのドアを開けた。 薄暗い玄関。いつもなら、ここから一歩踏み出して、リビングのソファにいる彼に「ただいま」と言うはずだった。
なのに、足が、どうしても前に出ない。
靴を脱ぐ気力さえ湧かなかった。 カチャリとドアが閉まった音が、まるで自分の人生のシャッターが下りた音のように聞こえた。
「……ぁ」
ぽた、と冷たい床に涙が落ちた。 一度溢れ出した感情は、もうせき止めることができなかった。ゆきはその場に膝から崩れ落ち、冷たい玄関の床に突っ伏した。
「もう……がんばれない……っ、う、あぁ……っ!」
バッグを床に放り出したまま、子供のように声を上げて号泣した。 がんばっても、がんばっても、誰も認めてくれない。終わりが見えない。心も体も、とっくにすり減って、中身は空っぽだった。張り詰めていた限界の糸が、音を立ててぶち切れてしまった。
「ゆき!?」
バタバタと慌ただしい足音が聞こえ、リビングの扉が勢いよく開く。 飛び出してきたヴァンパイア味クッキーは、床に突っ伏して激しく泣きじゃくるゆきの姿を見て、息を呑んだ。いつも適当で、のんびりとした彼が、見たこともないほど焦った顔をしてゆきに駆け寄る。
「ゆき、どうしたんだい!? どこか痛むの? 何があったの……っ」
「もう、むり……っ、会社、いきたくない……っ、がんばれないよぉ……っ!」
ただひたすら、ぐちゃぐちゃに泣き叫ぶことしかできない。 ヴァンパイア味クッキーは、その細い肩が激しく震えているのを見て、すべてを察した。人間の難しい社会のことなんて分からない。だけど、ゆきがどれだけボロボロになりながら毎日戦っていたかは、一番近くで見ていたから。
「……うん、うん。分かった、もういいよ。がんばらなくていい」
彼はそっと床に膝をつくと、泥のように動けなくなっているゆきを、壊れ物を扱うように優しく、だけど力強く抱きすくめた。
「よくがんばったね、ゆき。偉かったよ。もう十分すぎるくらいだよ……」
大きな手が、ゆきの背中を優しくトントンと叩く。彼の服がゆきの涙と鼻水で濡れていくけれど、彼はそんなこと全く気にする様子もなく、ただ愛おしそうにゆきを抱き締め続けた。
「ヴァンパイア味、クッキー……わたし、わたし……っ」
「うん、オレはここにいるよ。あんなクソみたいな会社、明日からもう行かなくていいさ。オレが許す。ゆきをこんなに泣かせる場所なんて、こっちから願い下げだ」
いつもなら「気楽にいこうよ」なんて適当に言う彼が、今は信じられないくらい真剣な声で、ゆきのためだけに怒り、そして寄り添ってくれている。
「明日からはオレがゆきを養ってあげる……って言いたいところだけど、オレ、クッキーだからお金は稼げないや。でもね、ゆきがまた前を向けるまで、ずーっと隣でおもしろおかしく話を聞いてあげることはできるよ」
耳元で聞こえる彼の少し低くて、心地よい声。 激しかった呼吸が、彼の温もりに包まれているうちに、だんだんと落ち着きを取り戻していく。
「……ひ、酷い顔、してるよね、わたし」
「あはは、そうだねぇ。目も鼻も真っ赤で、お世辞にも可愛いとは言えないかも」
「ひどい……っ」
小さく笑うと、ヴァンパイア味クッキーはゆきの涙を親指でそっと拭った。
「でも、オレにとっては、そんなボロボロなゆきも愛おしいよ。ほら、冷たい床にずっといたら風邪ひいちゃう。中に入ろう?」
お姫様抱っこをするように、彼はゆきの体をふわりと持ち上げた。いつもより少しひんやりとした彼の腕の中は、今のゆきにとって、世界で一番安全で、温かい場所だった。
「今日はもう、美味しい葡萄ジュースを飲んで、オレの胸で泥のように眠っちゃいなよ」
現実の厳しさに叩きのめされても、この部屋に帰ってくれば、彼が全部を受け止めてくれる。ゆきは彼の首に腕を回し、小さく「うん……」と頷いて、ようやく深く息を吐き出すことができたのだった。