クッキーで吸血鬼な彼と

「いやぁぁぁーーーっ!! む、虫!! 虫がいる!!」
深夜の静かなアパートに、ゆきの悲鳴が響き渡った。
リビングの壁の、ちょうど目線の高さあたりに、黒くて不気味な影がへばりついている。
ゆきは一気に血の気が引き、ソファの上へと飛び上がって、クッションを盾のように構えた。
「ちょっと、ヴァンパイア味クッキー! 起きて、お願い! 虫が出たの、退治して!!」
必死の形相で助けを求めるゆきに対し、ソファの反対側でだらしなく寝そべっていたヴァンパイア味クッキーは、気だるげに薄目を開けただけだった。
「んん……なんだい、ゆき。そんなに大声を出すなんて、泥棒でも入ったのかい……?」
「泥棒より最悪! あそこ! 壁に大きな虫がいるの! お願いだから早く潰して!!」
ゆきが震える指で壁を指さすと、ヴァンパイア味クッキーはそちらに視線を向け、それから「なんだ」と気の抜けた声を漏らした。
「なーんだ、ただの虫じゃないか。そんなに血相を変えなくたっていいのに」
「よくないよ! 私、本当に無理なの! 早く叩いて、それか新聞紙でバシッと……!」
「えぇー、退治しちゃうの? かわいそうに。虫だって、一応オレたちの友達みたいなものなのにさぁ」
「はぁ!?」
ゆきは思わず絶句した。
「友達!? あんなカサカサ動く不気味な生き物が!?」
「そうだよ。オレのいた世界でもさ、コウモリとか小さな虫とか、暗闇の仲間たちとは結構うまくやってたんだよねぇ。彼らも悪気があってそこにいるわけじゃないんだし、そんなに目の敵にしなくてもいいじゃないか」
「ここは現代日本の賃貸アパート! 私の生活スペースなの! そんなのんきなこと言ってないで、早くなんとかしてよー!」
「うーん、そうは言ってもねぇ……。オレ、友達を攻撃するのはちょっと気が引けるなぁ。だいたい、潰したら壁が汚れちゃうかもしれないだろ?」
「それは……そうだけど! じゃあどうするのよ、私、あの虫がそこにいる限り、怖くて一歩も動けないし、今日眠れないんだけど!」
半べそをかき始めたゆきを見て、ヴァンパイア味クッキーは困ったように笑い、ようやく重い腰を上げた。
「やれやれ、お困りのようだね。じゃあ、折衷案といこうか」
彼は近くにあった空きカップをひょいと手に取ると、驚くほど無駄のない、吸血鬼らしい素早い動きで壁の虫をパカッと閉じ込めた。そして、隙間にチラシを滑り込ませて、虫を上手に閉じ込める。
「退治はしない。だけど、ここから退場してもらう。これでどうだい?」
「う、うん……! 外に出してくれるなら何でもいい!」
ヴァンパイア味クッキーはそのままベランダの窓を開け、夜の闇に向かって「バイバイ、またねぇ」と、虫をそっと逃がしてやった。
窓を閉め、パチンと鍵をかける。その様子を、ゆきはソファの上から固唾をのんで見守っていた。
「はい、おしまい。これで安心して床に降りられるだろ?」
「……うん。ありがとう、助かった……」
ゆきは深いため息をつき、ようやくクッションを抱きしめ直してソファに座り込んだ。心臓はまだバクバクしている。
「まったく、ゆきは怖がりだねぇ。オレにとっては、毎日夜遅くまでゆきを働かせるあの会社の上司のほうが、よっぽど恐ろしいモンスターに見えるけどね」
ヴァンパイア味クッキーはそう言って笑うと、またいつものようにソファへ寝転がり、葡萄ジュースの入ったグラスを傾けた。
「それは……確かにそうかもしれないけど」
ゆきは苦笑いしながら、ベランダの向こうの暗闇を見つめる。
彼の「虫は友達」という独特すぎる感性には到底ついていけそうにないけれど、それでも、こうして我が家の平和を守ってくれた吸血鬼に、今夜も心から感謝するゆきだった。
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