クッキーで吸血鬼な彼と

時計の針はとっくに深夜のてっぺんを回っている。
今日も終電ギリギリ、いや、もうアウトな時間だ。
「はぁ……。明日も、朝早いんだけどな……」
ゆきは重い足取りでアパートのドアを開け、玄関に崩れ落ちるように座り込んだ。
新卒で入ったこの会社が、まさか絵に描いたようなブラック企業だったなんて。押し付けられる大量の業務、理不尽な上司の説教、終わらない残業。心も体も、とっくにボロボロで限界を迎えていた。
暗い部屋の中、そんなゆきの耳に、どこか緊張感のない、のんびりとした声が届く。
「おや、おかえり。今日もずいぶんと遅かったねぇ」
リビングのソファで、だらしなく寝そべっていた男――ヴァンパイア味クッキーが、気だるげに体を起こした。白髪に赤い瞳、そして口元からのぞく尖った犬歯。彼は本物の吸血鬼だ。
……もっとも、クッキーの世界からどういうわけかこの現代社会に迷い込んできて、行き倒れていたところをゆきに拾われたわけだけど。
「ただいま、ヴァンパイア味クッキー……。もう、本当に疲れた……」
「お疲れさま。ほら、そんなところで固まってないで、こっちにきなよ」
彼は手元にあったワイングラスを、ゆらゆらと揺らす。中には、まるで血のように深い、濃赤色の液体が満たされていた。
「……それ、また飲んでるの?」
「ん? これ? 最高に熟成された、極上の葡萄ジュースさ。ゆきも一口飲むかい?」
「ううん、私はいいや……」
吸血鬼のくせに、彼が愛飲しているのは本物の血ではなく、ただの市販の葡萄ジュースだ。
ゆきはなんとか立ち上がり、ソファの端に腰掛けた。張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、ドッと押し寄せる疲労感に視界が歪む。涙がボロボロとこぼれそうになるのを、必死でこらえた。
そんなゆきの様子を、ヴァンパイア味クッキーはいつも通りの適当そうな、だけどどこか優しい目で見つめている。
「なんだか、今日のゆきはいつも以上にボロボロだね。そんなに辛いなら、あんな仕事、いっそのこと辞めちゃえばいいのに。人間、もっと気楽に生きなきゃ損だよ?」
「……そんな簡単に辞められないよ。新卒で入ったばかりだし、次の仕事が見つかるかもわからないし……」
俯いて弱音を吐くゆきの頭に、ぽん、と大きな手が置かれた。
そのまま、不器用ながらも優しく髪を撫でられる。
「オレには人間の難しい事情はよくわからないけどさ。でも、ゆきがそんなに泣きそうな顔をしてまで、頑張らなきゃいけないことなんて、この世にひとつもないと思うけどねぇ」
彼の声は、いつもどこか他人事のようでいて、不思議とすんなり心に染み込んでくる。
毎日、理不尽に怒鳴られて失いかけていた「自分」という理性を、彼のこの適当で、でも絶対的な肯定感が繋ぎ止めてくれていた。
「オレさ、ゆきに消えちゃってほしくないんだよね。ゆきが倒れたら、オレに葡萄ジュースを注いでくれる人がいなくなっちゃうだろ?」
「ふふ……動機が不純すぎるよ」
「あはは、本音が出ちゃった。でも、ゆきが笑ってくれたなら、それでいいや」
ヴァンパイア味クッキーはグラスをテーブルに置くと、ゆきの肩を優しく引き寄せ、自分の胸元に頭を預けさせた。
「ほら、今日はもう難しいことは何も考えないで、寝ちゃいなよ。明日あさってのことなんて、その時考えればいいさ。オレが全部、うやむやにしてあげるから」
「……うん、ありがとう」
吸血鬼の身体は、人間のそれよりも少しだけひんやりとしていて、火照った頭に心地よかった。
彼の胸に顔を埋めながら、ゆきはゆっくりと目を閉じる。明日もまた過酷な現実が待っているけれど、この部屋に彼がいてくれる限り、まだ戦える。そんな気がした。
1/8ページ
スキ