一章
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きっとまたここに来るのだろう。
月渓の天幕を出ながら心の中でそう呟いた。
国元に戻ったら学ばなくてはならないこと、朝の現在の様子、民の望むこと。見知らぬ国を国元などと呼んで実感も何も湧かない。何を聞かされようと泣きたくなるだけで、震えこそしないが名前の臆病など月渓には知れているだろう。
それでもきっとここに来る。何度でも、自分でも何が聞きたいのか分からなくとも。
ひどく疲れたのは心のせいか。月渓のそばにいて話を聞くのは安らぐが、その分罪悪感が痛くてたまらない。
恐ろしくて、悲しい。
つらい、という言葉がすっぽりと当てはまって、抜けない。
「峯麒」
外でそう呼ぶことは気をつけていたはずなのに、自らその禁を破った鳥酉の声が震える。
名前の緩慢な動作に合わせて彼女は名前と目を合わせる。
「本当に、月渓侯が王ではないのですか」
「知らない」
もう一度伏礼を試す勇気はなかった。
月渓の天幕から離れる。
真っ直ぐ帰るには落ち着かなくて、足が向く方へ勝手に任せて寄り道をしようとする名前を、鳥酉は止めようとはしなかった。
どうして私なの。どうして。
麒麟に神の声が聞こえると言うのなら。私の声も聞こえていますか。
別天の地を夢見たことがないわけではなかった。異世界に憧れたことがないわけではなかった。物語のような不思議を思い描いたことだってあるし、孤独を世界のせいにして逃げたことだってある。けれどそれは単なる想像上の思いでしかなかった。現実はそうではないと知っていたし、それを受け入れるしかないことも理解していた。日々感じる痛みを世界との離別で解決できるとは思っていなかった。
しかしすべての幻想は現実として降り注いだ。現実となってしまえば幻想は想像からも失せて泡となった。己が望んだ別天は既にここなのだから、これ以上の現実逃避などできようはずもない。できるのはこれは夢だと思い込むことくらいか。異世界は決して己の思い通りに物事が運ぶ世界ではなく、現実・・・日本と何一つとして変わらない。
知らぬことを知れと、やれぬことをやれと、人でなしの役割をこなせと言われる分、性質が悪いかもしれない。
現実逃避なんて本気で望んだんじゃない。望んだとしてもこんなものじゃないはずだ。
神がいるならなぜ故郷として日本を与えた、人としての自分を与えた。知ってしまえば知らなかった時に戻れるはずもないのに。帰りたい、何も知らない頃に。日本に。
「お帰りですか」
は、と声のした方を振り向けば、先ほどの茶の青年がにこにこと柔らかい笑顔でこちらの様子をうかがっていた。
見た目の年齢だけで言えば、名前より少し上だろうか。
月渓に仕えている様子からすると仙かもしれないし、茶汲み程度ではそうでないのかもしれない。
前髪の一部が染め抜いたように若葉色で、あとはそれでもやはり緑色を混ぜたような独特の色合いではあるものの、さらさらと軽やかな明るい茶色をしていた。この世界での髪色に蓬莱の常識は通用しない。
金の髪は麒麟をおいてほかにないというから、そこだけは特別扱いなのだろう。もっとも、名前の髪は蓬莱にいた頃と変わり映えしないので麒麟の象徴だとは言い難いが。
「・・・静丘様?」
細めて笑んでいた目を少し開いて驚くと、照れたのか眉尻が僅かに下がる。
「御存知でしたか、光栄です」
「お茶、ありがとうございました。とても美味しかった」
「いえ。いまの芳はよい茶葉も手に入りにくいので女仙の方のお口に合うか心配しておりましたが」
よかった、と胸を撫で下ろす姿は何とも人が好い。
茶葉をここまで運ぶことも大変だったろうに、その貴重な茶を自分たちのために使わせたと思うとありがたいような悪いような妙なむず痒さを感じた。
「静丘様は月渓様にお仕えする方なのですか」
「従者として参じているのは間違いありませんが、雇われでも昇山者でもありませんよ。若輩者ではありますが、
「ちかん」
思わず鸚鵡返しに繰り返した名前を誤魔化して鳥酉が咳を立てた。
女仙であるなら、国の成り立ちなどある程度理解していて当然のはず。彼も不思議に思ったのか、僅かに首を傾げて微笑みを弱くする。
「遂人とは」
横からの強い声が声高に遮る。
ずっと思っていたが、女仙たちは昇山者にどこか厳しい。居丈高とまではいかないが、王になる候補たちだというにしてはどこか見下ろした言い方をする。高い所に住んでいるから、なんて、まさかそんなことはないだろうけれど。
山の外を知らない名前からしてみれば、ここが高地であることもあまり実感がないのだが。
「随分と責任ある職務を」
「いまはどこもそうですが、そうですね、特に地官はそうかもしれません。天災が止まず、昇山直前まで仕事の山でしたから。もっとも、月渓侯に比べればそれも幾分かましでしょうね」
「やはりお忙しいのですか」
「国主の代わりを務めていらっしゃいますから」
名前の顔が曇る。
万が一下山の際に彼の人が失われたら、芳はどうなってしまうのだろう。
「よろしいのですか、大事な地位にある方が国を空けて」
今回の昇山はこと数が多いと聞く。
空の玉座は天災を招き、妖魔を増やし、天変は日々民を苦しめる。
問題以外起こらないと言っていいだろういまの芳では命取りにならないだろうか。
そんな素人考えは解決済みとでも言うように、静丘は肩をすくめる。
「今回数は多いですが、官吏に関して言えば月渓侯を中心とした一団と、地方から出てきた幾らかに過ぎません。せっかく台輔がお帰りになったのに、国が傾いては本末転倒ですからね。国政が成るだけの人員はきちんと留守居ですよ」
皆で参加者を募って、順番を決めて、計画的に事を運んだのだという。
こと、今回の昇山者には地官、夏官の人間が多い。
季節が厳しくなればいま以上に忙しいことは明白で、そうなる前に行ってこいということだ。
天候も穏やかになりつつある春先のいまであれば多少人員が減っても何とかなる。
無論下山すれば今度は仕事の山を登らねばと苦笑して頬を掻いた。
「特に今回の参加者は、官吏に限って言えばですけれど、それなりに武を嗜んだ者が大半です。何が何でも月渓侯に無事昇山していただき、そして下山していただかなくてはなりませんから。自分の昇山なんてどうでもいい、という者も少なくありません。国を挙げての昇山とは言うものの、官吏組の願いはほぼそれでしょうね。特に恵州出身の人間は」
どこか遠くを見るような、それでいて強い意志をもった瞳が、恐らく何がしかを追憶してるのだろうと見えた。
恵州、それはもともと月渓が州侯として治めていた土地だ。
「また塾の話ですか?静丘殿は相変わらずですね――おや」
唐突に、低めだが緊張感と真剣みに欠ける抑揚で声が割って入った。
急くことのない速度の足音が天幕の裏手からひょこりと参上して悪戯めいた反応をする。
「両手に花とは、羨ましい限り。お邪魔でしたか」
その軽率さと突発さに思わず羽衣で顔を隠す。
鳥酉もさっと緊張の色を強くしたようだった。
静丘の表情が砕けて、いかにも懐かしそうに嬉しそうに駆け寄ってゆく。
「久しいな、参加していたのか」
「恵塾出身者は半強制的に昇山参加、何としてでも月渓侯をお守りしろ、と州司馬のお達しですから」
「そうなのか?見かけなかったが、いままでどこに」
「何もおそばにいることだけが護衛ではありませんよ。最前列にて妖魔掃討の指揮をとっておりましたし、蓬山到着後は後続の守護に。剛氏と昇山者の仲介役として今後の話をつけて、たったいま任を交替し身を清めてきたところです」
「なるほど会わないわけだ」
静丘と同じく表情に笑みが絶える様子はない。が、その笑みはどこか胡散臭い。嘘臭いのではなくて胡散臭い。
丁寧だが内容と相手によっては慇懃無礼ととられそうな口調ですらすらと言葉を紡ぐ。
話の様子からすると武官なのだろうか。
それにしてはいかにも学者風の頭のよさそうな風情、口調、顔つきで、深く暗い色合いなのに色素の薄い青灰色の髪も白い肌も武人とは離れた印象を持つ。
鼻筋も通って、どちらかといえば綺麗だと言われても遜色ない顔立ちなので、言われなければそうとは分からない。
夏官といっても誰もが戦うわけではあるまい、と勝手に納得して二人を観察する。
いかにも親しそうに再会を喜び合ったあと、こちらはと静丘が彼を掌で示した。
「私の古くからの学友で、
「お初にお目にかかります。恵州
先ほどよりやや固く勿体ぶった言い回しで礼をとる。
「どうか一刻も早く芳に新たな王を」
無論名前がその峯麒と知ったわけではなく女仙と思っての発言だろう。
だとしても唐突に名を出されてぎくりと内臓が跳ね上がる。
「それにしても 月渓侯でないとすると難しくなりましたね。峯麒はどうしておいでです?自室に戻られたと聞きましたが」
「ほ、峯麒は」
「誰が王なのか、誰としてもできれば飄風の者を願いたいところです」
月渓侯だと思ったのですが、と外れた予想にため息を吐く。
名前の胸がちくりと痛んだ。
「飄風の王は傑物か愚物のどちらかだと」
「そうですねえ。しかしいまの芳に傑だ愚だの言っていられる余裕はないでしょう。愚王であっても、玉座を埋めてくださればあとはこちらで何とかしましょう。ありがたいことに現在の仮王朝は王が不在ということを抜きにすれば、ここ数代の朝では比べるべくもなく優秀ですからね。余計な勅でも出されれば面倒ですが」
どう思われます、と続いた声に返せる言葉はなかった。
それはこの新たな王が立とうとする時節にあまりにも不遜な言葉だった。
相手が麒麟ではなくただの女仙だと思っているからだろうか、肝の据わった平気な顔で続ける翡翠という男に唖然として鳥酉に至っては憤慨で言葉を失い黙り込んだ。
「愚王であってもなどと」
「これは失礼。無論傑物であるに越したことはありませんよ。ですが峯麒の年齢を考えるにしても、芳国の現状を鑑みても、あまり長く待てる状況ではない」
「翡翠」
たしなめようとして、静丘はやめる。
それは事実であったからだ。
女仙の気分を害しようとどうであろうと芳に残された時間はもうあまりなく、気長に待つのでご随意にお選びくださいなどとそんなことは口が裂けても言えない。
「少し感情的に申しました、ご無礼を。芳は私のような人間ばかりではありませんからご安心ください」
「翡翠、お前は」
かろうじて、苦々しい声を絞り出す。
「もう少し言葉を選べ。それに一言も二言も多い。相手は峯麒に連なる方、礼節と分を弁えよ」
「おや、品行方正で謙虚で控えめな性格を自負しておりますが」
「そういう性格の人間が自称なぞするものか」
「ひどいですねえ、静丘殿は。久々に会った後輩に皮肉屋で冷淡で厭みが過ぎるなどとおっしゃるとは」
静丘は深々と溜息を吐いた。
特に気にする様子もなく、翡翠は名前と鳥酉を見据える。
白々しい微笑みが何とも寒々しくて、思わず羽衣を手繰り寄せる。
「峯麒に、どうかよろしくお伝えください」
居たたまれなくなって、怖くて、一言二言返事を返して背を向けた。
何と答えたかもよく覚えていない。
けれど奇妙な動悸がして、震えが止まらなくなったのだけが現実的だった。
ふわふわとおぼつかない足取りで何とか宮まで帰り着くと、身体を清めてすぐに部屋に戻った。
鳥酉が心配そうに慰めてきたが、耳に入らなかった。
その晩は朱狼に強請って獣の暖かな毛皮の中で眠った。
次の日も儀礼は続く。
何度か休憩をとって、うんざりする時間を繰り返す。
昼前に切り上げて、食事を終えた後朱狼を連れて岩場を散歩した。
かつて女仙以外いないこの山を寂しいと感じたが、ひとが多過ぎるというのも何となく息苦しかった。誰もが自分に会いに来たというのも大きいのだろう。
初日よりも少なくはなったが、二、三日は新たな到着者もあった。
門まで寄ってひと際高い岩場に登って見下ろせば、翡翠が指揮をとってそれらを無事門の中まで送り届けているのが見えた。
本当に武官なのだと改めて驚く。
蓬山の到着に安堵を浮かべる彼ら・・・表情をうかがい知れるほど近くはないが、その空気で分かる老若男女に駆け寄って労いたいとも謝意を示したいとも思ったが、許されないこととも知っていたし、そういった感情に自分でも理由が分からず、結局動けずにいた。
午後になると鳥酉を連れて再び月渓に会いにゆく。
今度は午前のうちに文を出して訪問を予告していたから、彼の方も時間を作って待っていた。
はじめからそうした方がよかったようにも思えたし、そうしなくてよかったとも思った。
月渓自ら言ったように、文を出して会いたいなどと言えば彼の方から参上しただろう。
そして芳国の麒麟と芳国の高官として会話を交わすことに、芳も政も知らないいまの名前に何の意味があっただろう。
気休めがしたいわけではないのだと思う。
それでも月渓に会いに行くという行為がいま気休めにしかならないことも知っていた。
淪静丘殿の淹れた茶が飲みたいので、そう理由をつけて茶葉と茶菓を添えて文を出した。
それと同時に女仙に願って昇山者たちにも何がしかの、少量ずつでかまわないので茶や菓子を贈答してほしいと頼んだ。
できれば滋養のある、薬湯のようなものを。
静丘の茶は美味かった。
もし自分が苦難を乗り越えて蓬山に入った者だとしたらそれにどれだけ心救われるだろうか。
麒麟からの賜り物だと吹聴したわけではないが、昇山者たちは自然とそれを察したようだった。
保存がきくようにと乾果物が大半であったが、中にはありがたがって口にすることなく大事にとっておく者もいたし、懐に入れてお守り代わりにする者まで現れた。
ひどく偽善的なことをしたようで名前は戸惑ったが、喜ばれたのならそれでよしとすることにした。
逆に麒麟への贈答品もあった。多くの命に代えて運ばれてきたものだ。それらをひとつひとつ見るのはどこか苦くあった。
反物、細工、装飾品、本来なら麒であるという話を聞いてか、勇壮な趣の着物も多く、帯にはめでたい刺繍が織り込んである。
人数に対し通例を考えればその量も質も少なく悪いということだったが、名前からしてみれば命がけの昇山にこのようなものはどれだけ邪魔であったろうかと思いを馳せて、自然と顔が曇った。
女仙たちはそれらを検分して誰の持参品か、どれほど高価なものか、どういった技法で作られたものかなどを説明してくれる。
「けれど惜しいこと。麟であると知れていれば美しい簪や帯玉が溢れたものを」
「重ねた薄衣に玉の飾り・・・峯麒はきっとお似合いでしたのに」
「ええ、耳飾も連珠も素敵ではありますけれども。どの細工もどことなく繊細さに欠けますわねえ。凛としていらっしゃるからお似合いにはなるのでしょうけど、やっぱり美しく着飾っていただきたいものだわあ」
「お国元に戻られればいくらでも飾れましょうね」
「宮中の女官たちが羨ましい。わたくしも峯麒の麗しいお姿を拝見できればいいのに。もうすぐおくだりになるかもしれないと思うと寂しくて」
華やかにそう言う女仙たちを尻目に、鳥酉の瞼に大粒の涙が溜まっているのを名前はたしか見る。
しかし再び表情をうかがう頃にはいつもどおり毅然とした態度で品を記帳し、整理する作業を続けていた。
頬に筋も残していない。見間違いであったろうか。
着物のひとつを手に取りながらそんなことを思う。
「あら、峯麒、お気に召されましたか」
「いや、あの」
何気ない行動だったから、否定も肯定もできずうろたえる。贈り主の心を思えば気に召したわけじゃないと言うのは憚られるが、
気に入って着たいと手に取ったわけでもない。
蓬莱育ちの名前からすればこの世界の服装はどれも着慣れない。特にこういった贈り物や正装に見られるような過剰装飾は頭が痛くなる。
「けれどお控えになってくださいまし。王がお決まりになるまでは、身につけるものの類は」
「麒麟が贈り物を身にまとうということには、それなりの意味が御座いますれば」
「身にまとう」
何となくなるほどと思うところがあった。
例えは悪いが、古くは女が男に贈られたものをまとうことに意味があったし、暗黙の了解ではあるもののそれはつまりその男の所有物であると示すことに繋がっていたというから、麒麟がその例になぞらえれば芳で最初に身につけるものの贈り手は王であるべしと誰もがそう望むのだろう。
そうでなくとも贈り物を受け取るということには贈り主の意思や願いを享受するという意味がどこかしら含まれているもの。
二日目も三日目も名前は王を選べなかった。
月渓にそうしたように、そばに寄って声をかけようという行動も、あれ以来なかった。
しかし、最初の頃そうであったように何気なく接することはやめた。
ひとりひとりの顔を、振る舞いを見守る。そうしたうえでピンとこないのは尚更心が萎えた。
天幕には、毎日通いこそしなかったが週の半分以上は顔を出した。
静丘も茶の時間になるとそれを心得て多めに湯を沸かした。
いつ飲んでも美味かったし、何種か贈った茶葉を少しずつ配合を変えて淹れているらしく、いつ飲んでも違った味を楽しめた。
月渓との談義、というほど高尚な内容でもなかったが、毎回話が弾み、午に出かけて夕方まで帰らないこともあった。
時には静丘や翡翠が参加することもあり、名前が無知を晒しそうになるたび月渓はさり気なく庇った。
やがて鳥酉は席を外すようになった。
理由はさだかではない。護衛をせずとも心配なしと判断したか、何かしらの仕事で忙しくなったか、談義の邪魔をすまいと思ったか、そのようなことは何も言うことなく、ある日名前を天幕に送り届けてそのまま宮へと帰還していった。
無論姿は見えなくとも朱狼が常に控えている。
麒麟と知れようと知れまいと名前を害するものがいるとは思えないが、安堵とともに不安がないわけではなかった。
月渓が気を利かせて、帰りは必ず誰かが宮まで送る。
さすがに二度、三度と天幕に足を運べば、何も言わないが静丘も翡翠も何かしらの疑問を抱いていることは察された。
言いたくないのなら構いませんが、まあ何にしても怪しいことこのうえないですね、と翡翠がいつもの笑顔でずばり口に出して言ったのをのぞけばだが。
慇懃無礼な態度が優しく変わるどころかますます苛烈になったのは、嬉しいような悲しいような不思議な感覚だった。
いい意味でも悪い意味でも裏表がないのに、何を考えているのか想像をするのが難しい。食えない人物には違いない。
二度目の訪問で名を聞かれ、泰麒の例を倣って音読みで名字を名乗った。
変わった名だと言われたが、偶然にもどこぞの地名に名字という場所があるらしく、それを前もってそば仕えの女仙のひとりが教えてくれていたので、その地名からとったらしいとつけ足せばどこか不思議がりながらも受け入れられた。
そんな他愛もないことを繰り返すうちに日々は過ぎてゆく。
気候も蓬山の様子も少しずつ変化を遂げてゆく。
宮に届けられる贈り物は、決して高価なものばかりではない。春の喜びと麒麟の成長を祝う文とともに小さな花が贈られるようになった。
高官でも豪商でもなくとも民は麒麟を求めて昇山する。その証のようだった。
心をこめて祈りを捧げる。
芳の冬は厳しいという。であればこの春は人々の心をどれほど温かくするのだろう。
黄色や桃色の柔らかい色をした小さな花々を花瓶に移させ、部屋に飾る。
未だ読むことは難しい文をそれでも胸に抱いて安堵する。
日々温暖になる空に、この陽気ならばせめて凍えて死ぬものは減るだろうという月渓の言葉に安堵する。
国を出た頃はまだ寒さ厳しい冬の頃であった、と。そして帰る頃には夏。
荒廃した大地にも花は咲くだろうか。僅かでも実りはあるのだろうか。
あの薔薇の蕾は開いたのだろうか。
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