一章
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どうしてなのだろう。
ちゃんと考えた。誰もが褒めたたえるだけって、素晴らしい人柄だと感じた。流されただけとか、適当にとか断じてそんなつもりはない。
あの人なら選んでも大丈夫だと思ったのに。
名前は寝台でうずくまり、頭を抱えていた。
月渓でなければ、王などいるのだろうか、どこに?
このままでは帰れない。
麒麟は民意の具現化だという。民の望む言葉を王に伝える、民ではなくなった王の半身。
だから伝えたのに。月渓を王に望んでいる、今まで芳を支えてきたあなたならきっとうまくやれる、と。
礼をとる、月渓を王に迎える。
そう思った瞬間、体中が言うことをきかなかった。理性で制御して入れる力はまるで入らないのに、本能の部分が強く拒絶しているのだけは分かった。
天意というものがあるなら、もっとはっきり示してほしい。王はどこにいる誰であると。
「不便で理不尽なのね」
ぽつりと呟いた。誰にも届くことはないだろう、虚脱感を覚えて。
天も世界も麒麟も不便で理不尽だ。麒麟なんていなくても何とかなりそうなものなのに。
だって、結局は王が政をするのでしょう。だって、少なくとも蓬莱では麒麟なんていないし、と名前は口の中で呟く。
世界史にだって日本史にだって麒麟のような存在はないのだ。
王は王なのだと思うけれど、自分の立ち位置はいまいち分からない。
麒麟は王に絶対服従なら、結局のところ諫言したって意味はないだろうし、実際王が暴君と化して滅んだ国のことは女仙達からも聞いている。
月渓の件を機に本日の目通りは一旦中止され、名前は奥へと引っ込んだ。
こんなはずじゃなかったのに。
腹痛の子供がそうするように背を丸めてかけ布を頭から被った。
心配する鳥酉が温かい花茶を差し出すと、朱狼に受け取らせて人を払う。
がたがたと体が震えそうなのを懸命にこらえた。
女仙たちは、言っていたわ、私が市井に降りて、王を見つけられなかったなら。月渓は王ではないと言ったなら、それは最悪の事態だと。民は悲しみ、傷つき、天に見放されたと思うだろうと。
けれど実際月渓は王ではなかったのだ。
私は彼を王に選べなかった。
布団の布越しに朱狼の暖かな手が乗った。
「名前」
「そんなつもりじゃなかった、あの人を傷つけたかったわけでも、落胆させたかったわけでも。あの人はとても立派で、いい人だと思ったの。だから選んだのに、ちゃんと選んだのに。選ぶってそういうことじゃないの?ちゃんと、考えたのに。選べって、言うからよく考えたのに」
自分なりの人生経験と直感から考え、導き出した判断であったのに、そんな慎重さも真摯さも無碍にされたようで寒い。
この世界に居たいとは思わないなりにこの世界に対して真剣に対処した自分の誠意は、この世界そのものに否定されたのか。
「名前」
「だって、そうでしょう、この世界は、芳の民はほかに誰を望むって言うの?麒麟だからって、この世界に来たばっかりの人間に任せてないで、リクエストがあるなら言うべきでしょう。天意も民意も責任感が無いんじゃないの」
心配そうな朱狼の声を遮ってまでまくし立てると次々と溢れてきて、そのまますっきりするまで並べ続けた。
意味なんてどうだっていい、私は不満だらけなの、それでいい。
一通り臓腑を空っぽにさせると妙な爽快感と高揚感があって、理屈の無い自信とやる気が芽生えてくる。
不思議なものね、さっきまで、意気消沈していたのに。
寝台の中でもぞもぞと体勢を変えると、手を広げ大きく大の字になって天井を見上げた。
目尻から自分でも気づかなかった涙が零れて枕に落ちたけれど、もうそれほど悲しくはなかった。
妙に他人事で、ひどく現実的だった。
「朱狼」
勢いをつけて起き上がると、掌で包むようにして湯飲みを握っていた朱狼と目があった。
すっかり冷えた花茶を受け取って、そばの小さな卓に置く。
「出かけよう。用意してほしいものがあるから鳥酉を呼んで頂戴」
布団から足を出しながら言えば、朱狼はすぐに足に靴を履かせてくれる。
散々寝転がったから髪が肩を跳ね回っている。
それをそっとひとまとめに撫でつけながら、
とん、とん、と爪先まで靴をはめ込んだ。
名前の要望が伝えられた時の鳥酉の顔ったら。
しばらくは思い出すたびににやにやと口元が緩むだろうし、一生忘れまい。
慌てふためいて報告に訪れた女仙たちを碧霞玄君は責めなかった。
強く我を通した蓬山公の意向に逆らえなかったからといって、誰に叱ることができようか。
黒髪の少女が人々の前に現れて、その日一番の笑みを浮かべるのを鳥酉はただただ頭を抱えて見守っていた。
「いい考えだと思わない?」
宮殿から敷石の階段を外に出つつ、少女は上機嫌で言う。
蓬廬宮から甫渡宮へ降りて、昇山者たちが陣を張る広場へと出る。上品に結い上げた髪と青々とした爽やかな麻の裾がひらりと舞った。
羽衣で顔を隠すように陰を作っているとはいえ、真っ直ぐに夕刻の光を浴びるのが気持ちいい。
鳥酉の少し後ろ、従うように楚々として歩きながら、手に持った荷物をぎゅっと抱きしめて緩む頬を押さえる。
「ね、鳥酉様」
鳥酉が明らかに困惑してため息を吐くと、それもなお嬉しそうにふふっと笑った。
「こんなこと、異例にも程があります。早々に済ませましょう」
「鳥酉様は見たくないのですか?昇山者たちを。随分な男前の将軍がどこぞにいると伺いましたけど」
嗚呼!
鳥酉は叫びだしそうなのをぐっと堪えて、隣を歩く少女を見下ろした。困惑で涙が出てきそうだ。
「わたくしは反対しているのです、今も」
「後輩女仙にそんな口の利き方はおかしいでしょう、鳥酉様」
にやにやと嬉しそうに笑った顔は、ここへ来てはじめて見る、それは心から楽しそうで、愛嬌があって人好きのするものではある。
けれど、状況が状況だ。
その自称新米女仙は鼻歌でも歌いだしそうな様子でさくさくと進むのだから、鳥酉も慌ててそれを追う。
昇山者たちの天幕が並ぶ隙間を縫って歩くと、時折すれ違い、視線が刺さった。
新米女仙は気にする風もなく鳥酉と言葉を交わし、道順を聞いてくる。うっかり答えに詰まると、自ら確認しに駆け出してしまいそうだから心臓に悪い。
それでも何とか目的の天幕の前まで到着すると、ようやく安堵にほっと息を吐き出した。
「月渓殿はいらっしゃるか」
天幕のそばで夜の仕度をしている青年に声をかければ、青年はくるりと振り返って二人に礼をとる。
仕草は爽やかで品があり、微笑は羽毛のように柔らかく、鳥酉の緊張を解かせるのに難は無かった。
「いらっしゃいますよ。お呼びしましょうか」
返事を待たずして青年は天幕の入り口に手をかける。視線でこちらの声を促して、笑顔で頷いた。
「否、できれば」
鳥酉はふっと声を低く落とした。意味深にならない程度に静々と向き合う。
「できればあまり人目につきたくはありませぬ」
「分かりました、伝えましょう」
青年の後姿を心を込めて見送る。粗い布越しの声が、いくつかの会話を交わしていた。そうして、再び入り口が割れて、隙間から青年の極上の笑みが覗く。
「お入りください。今、茶をお持ちします」
「ありがたい」
深く頭を下げると、鳥酉は少女に先んじて青年の腕が押し広げる間をくぐった。
「あなたは」
口を丸く開けて、月渓の筆を持つ手が宙で止まる。
穂先からぽたりとしずくが落ちる寸前で置くと、唖然とした表情で名前を見つめていた。
客人だと聞いたが、と続けて呟いて再び沈黙したのを見て、名前は申し訳ないようなおかしいような不思議な気持ちになった。
無理もない。蓬山の主たる麒麟が、既に選定に叶わずと判明した己を訪ねてきたのだ。それも女仙の衣服を纏って。月渓は王ではないと言われた時以上に頭が白くなるのを感じていた。
もともと女と見まがう容姿をしているとは思っていたが、こうも完全に女の姿をしていれば驚きもする。天幕に入ってきた一瞬は峯麒と気がつかなかった。ただ強烈に見覚えがあったから、容姿というよりはその存在感そのものでその人だと気づけたのだ。もし最後まで分からなかったとして、責められたことではないだろう。麒が女装して落選者を訪れるなどという発想が誰にあろうか。
その姿を眺めて、不躾さに思い至って慌てて立ち上がるまで、たっぷりと時間がかかった。お座りください、と声が震えるのと、入口が再び開いて香ばしい茶の香りがするのとはほぼ同時のことだった。筆を取り落とさなかっただけ、誰かに褒めてもらいたい気分だ。
「お茶をお持ちしました」
己に仕えている青年が、茶器一式を盆に載せてするりと天幕に入る。峯麒と女仙に軽く礼をして、卓に近づく。
「ああ」
書きかけの書類を、筆記具を横へ押しやって卓をあける。仕事の途中だったもので、と言い訳して、再び椅子をすすめる。青年は慣れたように静かに茶器を並べ、注ぐ。順に置くのをじっと眺めていた。
「いかがされましたか」
「いや」
月渓の茶を注ぎながら青年はぼそりと小さく聞いた。柔和で優男と称されそうな外見をしているが、その実洞察力の鋭い若者だ。峯麒に動揺していることが僅かでも伝わったのだろう。その敏さにため息を吐きそうになりながら、何でもないと首を振った。
それ以上追及することはなく、青年は天幕を出てゆく。背が幕布の向こうに消えるのを確認してから、ふっと笑った。
「驚いた」
「すみません」
「いや、謝られるようなことではないが、しかし驚いた」
ようやく正面から峯麒の姿をとらえて、微笑む。
儀礼で見た時より自然体で、けれど月渓の反応を意識しているのだろう、緊張も見える。
ようやく落ち着いてきた己を自覚して頷いた。
「あれは・・・いまの、茶を持って来た若者は、
そう言ってやれば、ようやく思い至ったように湯気の立つ椀を見やった。
ほ、と頬が緩み、座る。
生活感のあふれる温かそうなそれは、道中の厳しさを物語るように端が欠けていて。生きていること、麒麟に会えたこと、長きに渡る暗雲のような苦労と、これから始まる輝かしいばかりの苦労を思わせて月渓は溜息とともに苦笑した。
「昇山に嗜好品はいらぬと申したのですが、あれが茶葉だけは要ると強情を張りましてな。僅かではありますがこうして。しかし、道中この茶のお陰で何度心安らいだことか、いまにして思えば助けられました」
誰もが苦しかった。何度も心が荒み、涙を流した、失うものも多かった。何人もが妖魔の餌食となって、水の確保にも難儀した。にもかかわらず茶を啜るいまの己の何と平和なことか。
無論下山には行きと同等かそれ以上の苦心が待っている。国元での再会を口にしたものの、それを守れるかどうかなど定かではない。
茶が苦く感じた。それでもいつものように美味かった。
「何事か、御用でいらしたか」
月渓がゆっくりと問えば目の前に座る若者はぎくりと肩を揺らして湯呑を置いた。
「ごめんなさい。非常識なのは承知しているんです」
言葉を詰まらせる。何かに悩み、幾度か口が開きかけ、閉じるのを、月渓は黙って見守った。
「お会いしたいと思ったんです。けどもう会いに来てもらえるわけはないし、それで」
不可能ではないが、一度落選した者が何度も麒麟に目通り願うことの無礼を、不躾さを、月渓は知っている。
本当に城で再会するまでもう二度と会えないのではないか、と思うと、名前は不安でたまらなかった。
「お呼び出しになれば、我らは誰であろうと、それがいつであろうと参じよう」
「違うんです、そうじゃなくて」
蓬山公であるから、麒麟であるから、王を選ぶから、だから自分が呼べば誰でも、月渓も会いに来てくれるだろう。
それは重々承知したうえで、嫌だと思った。
自分が麒麟だから会いたいと思ったことは否定しようのない事実なのだが、そう思われてしまうのは何だかたまらなかった。
このひとの前では生身でいたい、六太に峯麒と呼ばれると切ないのと同じで、けれど六太にそうするようにそれをそのまま伝えてはならない現実が壁となって隔てる。
隣で鳥酉が心配そうにこちらをうかがっているのが分かる。
待って、あと少しだけ。大丈夫。
心の中で僅かな数をゆっくりと時間をかけて数えて、静かに長く息を吐く。
出されて幾らか経ち、舌にも優しくなった茶を飲み込んでからようやく月渓の目を見た。
真摯な光を宿した眼差しに、真っ直ぐにこたえる。
「先ほどは大変失礼いたしました。それをまず詫びさせていただきたい」
「それは」
「王に選ばなかったことではありません。取り乱したこと、ご迷惑をおかけしたこと、その無礼を。もっと落ち着いてお伝えすべきだったのに」
「なるほど」
あっても責められはしないだろうに、月渓の態度に怒りの類は見受けられなかった。
何事もなかったように気にしていないと告げて、名前の話の先を促す。
痺れのようなもどかしさを感じたが、名前もそれ以上は重ねずに呼吸で肝を落ち着かせる。
「私は胎果です、この世界の生まれではありません。蓬莱ではごく普通の人間として育ちました」
「存じております」
「芳とは」
はっと極僅かに息を飲む音が聞こえた。
口元を一文字に結び、先ほどより幾分硬くした表情で月渓は湯呑を掌に抱く。両手で包みこんだまま、名前の声に耳を傾ける。
「如何な国ですか、この世界は」
声が震えた。
怖いのでも泣きたいのでもないはずなのに、落ち着いていられなかった。
自分の中で何かがまとまらない。
寝 所で思いついてからここまでずっと考えてきたことなのに。
月渓に会ったらどうするか、何を言うのか、聞くのか、どんな顔をするのか。
心の中で自分の肩を掴む、待てと叫ぶ声がする。
聞いてはいけないことを、聞いた気がした。
「芳は、北の極国である、とは、御存知か」
「はい、寒く、冬は雪深いと」
「今年もたくさん死んだ」
一瞬胸が裂けるかと思った。
茶が詰まって鈍い音をたてておりてゆく。月渓の言うそれは何がと聞かずとも分かった。
静丘の淹れてくれた茶は僅かに苦味があろうと香ばしくまろやかで喉越しがいい。
笑みの消えた月渓の沈んだ表情は、湯呑の中の渋みとは別の理由だ。
「私の国では」
静かにこぼれた名前の言葉に、月渓の眉がぴくりと動く。
「絶対的な王はいませんでした。民主主義といって、民の意思で選ばれたひとが民の代表として国を動かすんです」
実際は生まれや育ちがあるから、理想通りの民主政治とはいかないだろうが、それでも近代国家の大半は民を国の中心に据えている。
この世界ではそれを神が決めるという。神の意志、民の意思を伝えるのが麒麟であるという。ならば神も民も直接王に申し立てればいい、なぜ麒麟を間に挟む必要がある。
「私にとってこの世界は分からないことが多過ぎて」
「分かります」
月渓の言葉が、名前の立場や気持ちに対するものなのか、いずれ分かるという意味なのかは分からなかった。
神籍にある名前は言葉に苦労はしないが、そこに含まれる心まで訳されることはないのだ。
月渓の口から語られるのは芳国についてで、それは名前の望んでいた答えであるはずなのにひどく心がささくれ立った。
彼は悪くない、そう分かっていても。
国の成り立ち、人々の暮らし、今年の冬を彼らがいかに過ごしたか、麒麟の帰還をどれほど喜び、心の支えにしたか。
相槌を打ち、時折口を挟むが、ひどく他人事のように思えて思考がからからと乾いた。
寝台の上でひとしきり喚いた時、月渓に会おうと思ったのはどうしてだか、それを名案だと喜び間も置かず参じた理由は何であったか、もうぼやけて思い出せなかった。
心の中にまとまらず形にならぬまま散じて霧のように浮かんではいるが、それは霞と同じで手に取ろうとしても掴みどころがなかった。
会いたいと思ったのはたしかなのに。
しまいには己の言葉が何もかも言い訳じみて聞こえて、口を開くことが躊躇われた。
言い訳をしに来たのではない。それだけは言える、詫びたり、自分を正当化させたり、機嫌窺いに来たのじゃない。
会おうと願った瞬間のすっきりと澄んだ感情を、感覚だけは覚えている。
どうしようもない困惑が襲う。悔しさに似たそれは、幼子が己の心を母に伝える言葉を持たない焦燥にも近い。
ただ幼子であれば泣けばよいのだろうが、名前は幼くもなく、月渓は母でもなかった。
芳を知りたいと思った。それもまた事実だ。けれど、知ってどうしようと思ったのかが、分からない。
これが最善だと確信に近く思ったのに、思惑などもともとないに等しいのに、それでもあてが外れたという虚無感がないわけではなかった。
芳では気候が簡単にひとを殺す。その数は毎年増える。妖魔も、不作も、埋まらない玉座の代わりを必死で繋ぐ人々の苦労を裏切るように加速する。
「朽ちる国には、お戻りになりたくないか」
月渓の疲弊した声色の向こうに芳が見える。
名前が日本で過ごした日々、こちらに連れ戻されてからの日々。
その間も、名前の知らぬところで、知らぬ民が名前の存在を待ち望んでいた。
絶望と希望の狭間で感情を浮遊させて、生き喘いでいた。
涙を凍らせて、手足はひび割れて、飢えて、折れる寸前の心で、それでも風雨に耐えた民草、国そのもの。
湯呑を抱く彼の手は切望で震えている。
「最早芳は、神もお見捨てになるか」
「月渓様」
「どうか」
目もとの皺も、表情が失せればやつれて見える頬も、本来時を止めた仙であるはずの彼を、いくらでも老いて映らせる。
月渓も同じなのだ、雪の上で凍える民と全く同じように、流された卵果に絶望し、帰還した麒麟に、ひいては新しい王に希望を向けている。
芳の民は長く耐えた。月渓は繰り返す。
「芳を、どうか。どうか蓬莱をわたしの国などと、せめて我ら芳の民の前で言うてくださいますな」
それは鳥酉から、玄君から繰り返し聞かされた言葉よりも狂おしいほどの渇望が込められていて、名前は心臓に吹雪にさらされたような冷たくしんとした痛みを感じていた。
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