一章
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泰麒が滞在する間に何度か挑戦してみたものの、折伏を成功させることはできなかった。
不思議と落胆はない。教えを請える相手がいる、迷いと不安に寄り添ってくれる人がいるというだけで心強かった。
曖昧な空想でしかなかった折伏も、ようやく現実味を帯びた。蓬莱でいえばオカルトや密教のイメージでしかなかったのだ。今もその想像からさほど遠くはないが、おぼろげながらも己が能力なのだという実感を得られたのは、大きな収穫だ。
安闔日が、近づく。
昇山者が麓から頂へ道程を越えるまでにまたしばらくかかるから、一月以上の猶予はある。
最初の昇山で即位する王を『
疾風の如く即位した王、の意。傑物か、またはその逆か、と言われている。
戴の王、泰王
現戴王朝はその始まりに国が荒れたが、事を治めてからの復興の様は、飄傑の王に相応しい辣腕ぶりであったという。
芳は、という話題になると、女仙達の間でしきりに一人の男の名があがっていた。
元恵州侯、
それほどまでの人物なら、その人が王になればいいと思う。
なら、迎えに行こうか、と言った名前に、女仙達は驚き慌てて首を横に振った。
「それはなりませぬ」
とんでもない、という口ぶりである。
「なぜ?皆の口ぶりからすると、月渓が王になればいいと望んでいるように聞こえるのに」
蓬盧宮そばの川辺。
大量の布を洗濯する女仙に囲まれ、名前は先ほどまで水切り遊びをしていたが、今は疲れて休んでいた。女仙にもらった焼き菓子をもくもくと口に運ぶ。
まったく、ここへ来てからというもの至れり尽くせりで困る。
あちらに帰った時この怠惰ぶりというか我儘ぶりが抜けていなかったら苦労するではないか。
「それは、その、そういう意味ではなくて。王は麒麟が王気を見定めてお決めになることですから」
自分達の言葉が行き過ぎていたかと女仙達は口をもごもごさせて名前の顔色をうかがう。
「それに、もしそうでも、なりませぬ、麒麟が最初の昇山も待たぬまま市井に下るなど前例が御座いませぬ。麒麟は本来王の昇山を待つものです」
「芳は一刻も早く王がほしいんでしょう?安闔日を待っていたら、みんな昇山しはじめてしまう」
そうなれば危険と隣り合わせだ、王となるべき者が死するのは困る。
天意の庭である黄海は、昇山者の中に王がいるとそれだけで比較的安全に渡ることが出来る。この鵬の雛の翼に便乗する、という意味で、鵬翼に乗るといわれる。だが、雛はあくまでも雛、天意に守られていようと、失う時もある。そうなればそれまでの天運が一気に逆に働くというから、被害も相当なものだろう。
なら、さっさと王を決めてしまうことに利点はあれど不利益はないと思うのだが。
論ずる名前に、女仙達は困惑する。
でも、とか、しかし、とか、要領を得ない言葉を並べては目の前の強情な麒麟に溜息を吐く。
「早まれるな、峯麒」
「玄君」
振り返れば、碧霞玄君が供を連れてするすると岩の坂道を降りて来るところだった。
女仙達が礼をとり、名前も立ち上がって、頭を下げる。
「最初の昇山もなく麒麟が市井に降り立てば、民は不安に思おう」
「昇山もなく王が決まれば、民はきっと喜びます。傑物か愚物かは私には分からないけど。王気があるんでしょう」
それで即位するなら、民は心踊ろう。
名前は思うのだが、碧霞玄君は短慮だと言い返す。
「もしそれで王が決まらなければ?よろしいか、峯麒、芳の民は既に長く長く耐えてきたのです。先王の時代から、月渓侯の仮朝の間も。王なき国は荒れるさだめ。そのさだめに根気強く耐えてきた民を、これ以上落胆させないでやってほしい。月渓侯が王でなければいかがされる」
昇山した月渓が王ではないと分かるのとは違う。麒麟がわざわざ城を訪れ月渓を王ではないと拒絶するのだ。それは芳に与えられた天罰と言ってもいい。
いつか新しい王が、その希望を頼りに長く耐えてきた芳の民が、今年の冬を越せるか。月渓に絶大なる信頼を寄せてきた芳の民が、これ以上仮朝を信じることが出来るか。その危うさを、この麒麟は分かっていないのだ、と碧霞玄君は憂う。麒麟の存在の大きさと価値を未だに把握していないのだろう。
人として芳を想うがゆえに、出される案は現実的、合理的で、民の心は踏み躙る。
この娘が、麒麟ではなく王であれば、優しい王になっただろう、王でなくても官吏でもいい。
聡明ではある、そして柔軟さも、視野の広さも深さも、優しさも、慈悲深さも、理想主義に偏らない現実性もある。
帰還してから見守ってきたが、名前はどうにも人間らしすぎる。人そのものを愛することはできるが、万民を愛することはできない。麒麟ならば忌避して然るべき弱肉強食の思考も厭わない。
「生きるのに他の命を奪うのは必然。歩けば虫を潰し、腹が減れば肉を食べる。菜食主義の麒麟だって、その食料が贖える他の命の分を自分が奪うのだから、同じこと。麒麟はその事実に背を向けている世界一の偽善者だ」
などと宣った時には女仙たちが顔を真っ青にしたものだ。
自分が何の命を何のためにどうやって奪っているのか、そこから目をそらして生きるなんてこと、自分はしたくない。そう言いきった名前の目を、碧霞玄君は印象的に覚えている。
それで、国に降りたら自分は肉でも魚でも食べてやると宣言したのだから、さすがの女仙の長も笑えばいいのか怒ればいいのか。
他の麒麟と同様血には弱いくせ、強情にもそれを認めないのだ。芳の黄医はさぞかし苦労することだろう。
碧霞玄君がそんなことを考えているとは露知らず、名前は背を伸ばすような姿勢で碧霞玄君を睨み返す。
「国中を探せばいい。それにもし王が子供だったら昇山できないでしょう。恭の王様みたいな行動派じゃない限り」
国中を探し回るのは悪くないことのように思えた。
こちらのことをよく知らないのだし、これから自分が宿ろうという国に行ったこともないというのは妙だと思う。
だが碧霞玄君は名前を生意気だと責めることも殊勝だと褒めることもせずただ首を横に振った。
口元にたたえた微笑みが、彼女の非凡な美しさを際立てる。のんびり構えるそれが、名前には何とも焦れた。
早く王様を決めて、役目を果して、蓬莱に帰りたい。
「せめて最初の昇山をお迎えくださいませ。昇山の道すがら王気を身につける方もいらっしゃる。お下りになるのはそれからでも遅くはありませぬ」
春を待て、と。冬が開けて春になるその日はもうあと少し。それを越えれば、厳しい芳の気候も穏やかになる。今は、あまりにも早い。
碧霞玄君は北の大地にある極国を憂う。今、民にとって、芳にとって、帰還したばかりのこの麒麟は輝かんばかりの希望なのだ。それを自覚していないところが、名前の長所であり短所なのだと思う。
光陰矢の如し、などとはいったもので、まだ幾日もあると思っていたのに、月日はあっという間に過ぎ去った。
いよいよ安闔日である。
令乾門が開き、昇山者が蓬盧宮に辿り着くまであとひと月ほど。
この、猶予はないのに待たねばならない時間が何とも焦れったくて、名前はそわそわと落ち着きがなかった。
あの山の向こうにいるかもしれない。自分の仕えるべき、王が。
不安、期待、恐怖、緊張。いろいろなものが混ざって、引き籠って耳をふさぎたいほど憂鬱なのに気になってそれもできない。
結局黄海を見降ろすことのできる崖まで出向いて、朱狼に他愛もないことを語りかけながら過ごした。
ようやく男装にも着慣れたが、髪は結えない切れないで鬱陶しい。
その上、いかに男物を着ようと、自分を男だと偽るためには気が抜けない。
仕草や口調や声色、身体からにじみ出る雰囲気など、こちらに来て以来ずっと訓練してきた成果を十分に発揮し、昇山者のイメージするよき麒麟として振る舞ってやらなくてはならない。
どうせ選定が終われば、その正体も知れてしまうのだけれど。
あまりの面倒くささに、王が飄風の者であってほしいと切に願う。
ただでさえ儀礼のことを思うと億劫であるのに、性別を偽らなくてはならないなんて。
峯麒は女装好きの女顔、なんて噂を流すとかどうだろう。それなら楽でいい。いっそわざと初日にばらしてやろうか。
サラシも巻かず、甲高い声を上げて、女仙に黙って女物の着物で昇山者の前に現れてやるのだ。文句を言う輩には、男に会いに来たのなら出て行けっと蓬山から叩き出す。
これはなかなか痛快な気がした。
口には出さないが、女仙が聞けば涙を流しそうなことを想像する。
夕暮れ間近に蓬盧宮へ戻れば、鳥酉がほくほくとした笑顔で出迎えた。安闔日を迎えた祝言は既に聞いたから、そのことではあるまい。
「峯麒、お喜びください」
一気に言いたいのを我慢しているような、慎重で弾んだ声だ。
「此度の昇山者、異例の数になりそうです。それもこれも、月渓侯の采配によるものとか」
名前は内心ギョッとしたのを表面には出さず、何事かと興味を抱いた神妙な顔つきで鳥酉に先を促す。
それに鳥酉は満足したのか、滑らかな口調と明るい抑揚で口を開いた。
「国内に昇山者を募ったそうです。というのも、此度の昇山、もともと長い王の不在のため我こそはと名乗りを上げる者は数多くおりました。けれど、今の芳は貧困のためほとんどの民は仕度もままならず、昇山するにも難しい者がほとんど。そこで侯は、昇山予定の将や富豪に掛け合って、そういった昇山を希望する民を従者とすることをお決めになったのです」
民の中に次の王がいるかもしれない。その可能性を捨てることなく、麒麟に会いに行くのなら、皆一丸となって行こうではないか、と。
鳥酉の声の端々に月渓への尊敬が滲む。
敬服仕切ったその仕草に、名前は首を傾げた。
「鳥酉は、侯を知っているみたい」
「それは、わたくしは」
鳥酉の舌が、口の中で浮いたまま止まる。唇が上下に離れ、薄く空白を生む。
「申し訳ありません、本来なら、申すべきことではないのかもしれませんが、わたくしは、芳の生まれにございます、峯麒」
一つ一つ、細切れに、声が音となって滲んで消えそうなぐらい辛うじて零れたそれは、名前にとって特別意外でもなく、だが鳥酉にとっては何かを押し殺す作業に見えた。
鳥酉は女仙である。戸籍は既に故郷にない。
けれど目の前に蓬山公、芳の麒麟がいて、今までに何度も選びそうになったのだ、芳の生まれである自分を。
「わたくしは、芳の生まれで、父は官吏をしておりましたが、后妃の不興を買い、両親が罰せられることに。わたくしももう少しで命を落とすところであった頃、月渓侯が、当時は恵州侯であられたかの方が謀反を起こし、何とか死罪を逃れたのでございます」
そして祈った、天に。新しい麒麟を、新しい王を、芳に希望を。鳥酉は重くならない程度に要約し、語る。
胸の内で思い出すのは、生き延びた、そして一人残されたと知った冬の寒い日のこと。一度死にかけた命、ならば大事、芳のためなら惜しむらくはない。己を殺そうとした絶望の芳国ではなく、我が故郷として誇れる新しい芳国。どうかこの命お使いください、麒麟のためにお使いください、どうか。
貧困に喘ぐ国で、そう祈った、何べんも。そして飢えて死にかけた頃に迎えが来て、蓬山に。
今も芳は飢えている。衣食住が保障され仙として歳をとることもない自分は何と贅沢なことかと思う。自分にはそれだけの使命があるのだ、今次々と命を落とす同胞達が、少しでも日の光を浴びるために、麒麟を、峯麒をお育てし、王の選定をお手伝いし、民を愛し愛される、健やかなる存在として国へ帰すのだ。
峯麒が帰山してからこの方、そればかりを胸に誓って日々を過ごしてきた。そして迎えた安闔日。
峯麒は聡明なお方、それにとてもお優しい。蓬莱生まれらしい突拍子のなさがあるが、それも個性の一つだろう。胎果の治める国にはどこも吉事が舞い込むと聞く。侯がおいでになる、この素晴らしい麒麟が王を選ぶ、何もかもよくなるのだ、きっと。
鳥酉は他のどの民よりも希望に燃えていた。
「そう。では、鳥酉の命の恩人」
「今の全ての芳の民にとって、侯は命の恩人にございます。峯麒もご安心されませ」
何を安心すればいいのか、名前には判別できなかった。
彼の人がいれば国は安泰だからとでも言うのか、国元に戻った時には頼ればいいとでも言うのか、その仁徳に敬服しろというのか、それとも王に選べと催促しているのか、傅いて、忠誠を誓えと。
自分には何もかも許されていないような気がした。王を選ぶ基準も天意、選べば台輔という役割が待っている、女であることも何とか隠さなくてはならないし、早いところ己の僕を手に入れて獣の姿を人の目にさらさなくてはならない。無理にでも帰ってやろうとは思っているが、帰りたくても帰れないかもしれない。
二重三重に囲まれた檻が名前の手足の自由すらも奪うようだった。
最初の昇山者の中に、彼の人はいた。
月渓は長旅で乱れた服をしていながらも従者を励まし、ここまでの苦労を拭うような優しい微笑みを浮かべて門をくぐった。
堂々としているが威圧的ではなく。粗末だが清潔感のある見栄を張らない身嗜み。温厚そうな態度に好感を持った。
あれが、芳を統べる者。誰もが褒め称える男。
その姿に人柄がおおいに現れているような気がした。
質素な衣服のままで大器を感じる者が昇山してくる、己に会うために。
そのことに名前は密かな誇りと喜びを感じていた。現に、月渓の一行以外に特別目を引く集団はない。あのあたりが、いっとう覇気と活気に満ちている。あれが王でなければ、目に入るところに王はいないだろう。
名前は朱狼に頼みいつも黄海を見降ろしていた崖からその様子を見守っていた。
昇山者達はなるほど凄まじい数の列を成して、坂を少しずつ進んで来る。その緩慢さが不安を誘う。
「朱狼、この辺りに妖魔がいないか見てきて。ここまで来て昇山者が襲われたら嫌だ。私は大丈夫だから、妖魔の気配があったら、峯麒が怖がって泣いているから何とかしてくれと玄君に伝えてちょうだい」
もちろん、万が一があっても、さすがにまさかこの麒麟の住まう宮の目前で民を見放すとは思えないが。
朱狼は薄く微笑む。そのままするりと溶けるように大地に消えた。
一人になり、風が頬を撫でるのを感じながら昇山者を見降ろし続ける。風はまだ冷たいがいずれ春も来る。芳に戻るのはできれば春がいいと思っていた。
月渓を囲む従者達は、どれもみな朗らかで人がよさそうだ。中には厳めしく鍛えられた体躯の者もいるが、それでさえもう少しで蓬盧宮だと分かると安堵感を漂わせていた。
ただ、と、名前は顔をしかめる。
月渓のそばを決して離れない若者がいた。
それは周りがどれほど和気藹々と笑おうとも薄い笑みで応え、しかも手が必ず剣に添えられているのだ。隙がない、一分も。
この中ではどうやら珍しい玄人の護衛だろうか、だがそれにしては、浮かべる表情が軽薄だ。
月渓に対してもどこか冷たい空気があり、ただひたすらに職務を全うしているような温度。そこに主人への敬い慕わしさは感じられない。
月渓という人物について騒がれる文句――温厚で寛容で、目下であろうと膝を交え、民と親しむ大人物――を考えると、少しばかり違和感を覚えた。
その男がほかの誰とも混ざろうとしないせいかもしれない。
距離が離れているので詳しくは見えないが、解かれることのない警戒心はその異質さで分かる。
彼がこちらを見ないか、見つからないだろうかと一瞬思った。自分の視線が気付かれるのではないかと思うほど、彼の張りつめた警戒心は異質なのだ。
けれどそうなることはなく、名前は安堵で溜息を吐くと残りの昇山者をぼんやりと見つめていた。
蓬盧宮に帰るとしばらくして朱狼も戻ってきたので手足を拭うと着替え、昼食をとった。
昇山者達の世話をする女仙達の興奮といったらなかった。
誰それはどこの誰だの、位がどうの、顔がどうの、月渓も話題に上ったが、それとは違う若い官吏や商人出の青年、最年少で昇って来た少年に対する黄色い声に押され気味だ。
名前が苦笑して、
「容姿で選ぶなら誰かな」
などと冗談で口にしたものだから、女仙達は競って自分のお気に入りを推薦した。
どうやら人気を二分しているのは名家出身で官吏の若者と、下級兵士ながら将来有望な若者の二名。
その特徴といったら正反対ながらそれぞれ女性のツボを射ているようで、先輩の女仙が入ってきて止めるまで昇山者の採点式談義は盛り上がった。
次の日を待って儀礼が始まる。場所は甫渡宮。蓬盧宮よりも黄海に近く天井の高い宮殿と広場のある神殿。
まずはその姿を昇山者の前にさらし、無事の到着を祝い、労う。
続いて昇山者達が天に祈りを捧げ香を焚く。名前はその様子を御簾を隔てて見守りつつ、王がいないかをたしかめるのだ。
まさに老若男女、それに衣服や立ち居振る舞いから生まれ育ちまで違いが出る。
彼らを一人ずつ覚える気はなかったが、それにしても不躾なくらいぼんやりと眺めて見送った。
葬式を見ているようだ、と、縁起でもないと分かっている想像をする。
女仙の誰もがはっと緊迫したのが分かって、名前は顔を上げた。
入口に月渓が足を踏み入れ、そのまま部屋の中央で止まった。
名前もさすがに身を正す。
月渓は洗練された、それも人の上に立つことに慣れた者のする堂々としたものでその場の空気を圧倒した。
名前も思わず息を止め、彼の一挙一動を注視する。
このような場は初めてであろうはずが、彼はまるで手慣れたことのようにこなし、動きに一寸の淀みもない。天に捧げる祈り、彼のそれはいったい何を意味し、何を祈ったのだろう。
月渓は麒麟に何を求めるだろうか。彼に仕えるなら、私に何が出来るのだろうか。帰りたいと請う私を、月渓は何と思うのだろう。
儀礼は波のように長く長く続いた。祈りが終わると、昇山者は麒麟に挨拶に来る。
恭しく、敬意と、憧憬と、そしてそれぞれの胸に宿る、さまざまな事情を匂わせる表情で名前に頭を垂れた。
王がいるなら、と、名前は目の前で麒麟への祝いをつらつら並べる男の頭頂部を眺めながら思う。王にもこんなことをさせるのか、己の主にも、おかしなことだ。主であろうとなかろうと、こんな風に誰かに傅かれるのは嫌だった。何を思ってそうしているのか、想像できる部分と、その範疇を超えた部分があまりに大きすぎる。
王に選べと言うのか、自分を。私に麒麟たれと言うのか。そして何をしろと。
名前の機嫌が悪いことに気付いたのか、男は慌てて残りの口上を述べるとそそくさと退散した。
中には何度も繰り返しやって来る者がいて、気が滅入った。
選ばれないはずがないのだと鼻息荒く名前を見つめ、問いかける。どうして己は王ではないか、誰が王なのか。
その男が女仙によって締め出されると、名前はその背に向かって投げかける。
「きっと、だから、あなたは王ではないのだ」
昇山したのだ、お前は、それだけの覚悟を持って。
しばらく間を置き、名前の気が落ち着いてから次の訪問を受け付ける。
続いて現れたのは、月渓であった。
名前は慌てた。先ほどの騒動を聞き及んでいるだろうか。彼を見るたび、己は己に恥じてしまう。
だからだろうか、月渓が温厚そうな顔を拳で隠し礼を取ろうとしたのを見て、瞬発的に腰を上げて駆け寄った。
誰もが驚き、目を見張り、そして感嘆と共にやはり、と頷く。ざわつきが、静謐な響きへと変わる。
「蓬山公」
「やめてください」
その手を、取る。
まっすぐに目の奥を見上げながらゆっくりと。
誰より驚いているのが月渓本人だった。噂に違わぬ人柄に安堵する。
「どうして麒麟だからってみんなそう謙るの。意味が分からない」
月渓は苦笑した。何と答えていいのか、考えあぐねているらしい。
「あなたが、そうする必要はない」
心の底からそう思った。この人が自分を敬う必要はないのだと。
ほんの数度、こうして観察していただけでも、礼節正しい人だと分かる。
人々が求めている器なのだ、その人に礼をとらせることはできないと思う。
その笑顔を見ると安堵したし、喜ばせてやりたいとも思った。この人が王であれば、人々は喜ぶだろうとも思った。
そうして名前は、膝を床につけた。誰もがその様子を見守った。
怒涛のような苦痛が始まったのは、その瞬間のことだった。
年月と経験に裏付けされ、磨き上げられた大器の手をとった瞬間の安堵が突風のようにさらわれてゆく。
代わりに目も眩むような鼓動が身体を駆け抜けた。
月渓への思いが塗り替えられる。
なぜ、ああ、どうして、視界が歪む、息が詰まる。
「蓬山公?」
床に膝をついたまま、そこでぴたりと動きを止めた名前に月渓は訝る。名前は彼を見上げ、言葉にならない動きで唇を動かす。身動きがとれない。
こんなことは初めてだ、膝をつくことも生まれて初めてではないし、こんな行為に矜持が傷つけられることなどない。
それなのに、身体はそれを拒否してこれ以上指一本たりとも自由にならない。礼をとるという行動を、自分の中から排除したように。
何の難しいことがあろうか。手をついて、頭を下げるだけだ、それだけのことだ。
まるで呪われたように手足が痺れる。己の身体とは思えない。
名前の目から涙が零れるのを見て、月渓は目を見開いた。
「できない」
「蓬山公!お気をたしかに!」
「どうして」
「峯麒!」
顔色を失ってゆく名前を、月渓は慌てて抱き起こす。
女仙や朱狼も慌てて名前の前に飛び出した。ぐったりと力を失った名前を、朱狼は月渓の腕から半ば奪い取るように強引に引き寄せる。
「峯麒!」
ああ、と悲鳴を上げながら名前の肌に頬を擦り寄せて、慈しんで抱きしめる。月渓から大きく距離をとると庇うように腕に隠した。警戒した獣がそうするように、朱狼の全身の気が逆立つ。
「月渓侯、何を!」
鳥酉の声も、悲鳴のように甲高かった。
まるで自分が何かされたかのように、非難めいて痛みを発している。
「私は、何も」
多少うろたえながらも、月渓ははっきりと答えた。
「鳥酉、違う、やめて」
名前は絶え絶えな息の合間に、言葉を連ねた。
朱狼の身体にしがみついて何とか足を奮い立たせる。
「叩頭できなかっただけ」
「では」
「無理にしようとして」
ごめんなさい、としぼんだ名前の声に、注目が月渓に集まる。
申し訳なかった、本当に申し訳なかった。彼がどれだけ居たたまれなさを感じているか考えると、身が裂かれそうだった。
誰もが狼狽していた。目の前の光景は誰も予想していなかったものだ。
麒麟が王でない者に叩頭しようとする、それも相手は月渓で、無理をした麒麟は苦痛を訴える。
どれもこれもどう対応していいか分からなくて、ただ一人冷静であったのは月渓その人であった。
「では、王ではないのですね」
彼は苦虫を噛み潰したような何とも言えない表情で俯いた後、それでも顔を上げた時には毅然とした微笑みで名前をまっすぐ見つめていた。
そして、問う、言葉にしてくれることを請う。それがお前の責務であると。
ああ、と、名前は再び泣いた。
この中で誰よりも絶望を感じ、また屈辱を感じているのは彼であろう。それなのに彼はどうして私をそうまっすぐ見てくれるのだろう。
「ごめんなさい、私、そんなつもりじゃ」
「無理をさせた」
月渓が歩み寄ると、ようやく呪縛から解された名前は己の足で立ち、深呼吸を一つ、あとは余分を捨て去って、正面から向き合う。
逆毛立つ朱狼には僅かに後ろに下がらせた。
「大事になされよ、お一人のお身体ではありません」
何とか弁解したかった、無礼を働くつもりではなく、侮辱するつもりでもなく、本当に王になってほしいと思ったのだと。
「私、あなたが王であればいいのにと、そう思ったんです。あなたが王になれば、みんな喜ぶんです」
口早に言った名前の声に、月渓はきちんと耳を傾ける。
「皆が?」
「みんな、あなたが王になってほしいと言います」
言葉に詰まった。
伝えなくてはならない、痛みを伴う言葉を、自分はまだ伝えていない。
「でも、あなたは王じゃありません」
「はい」
謝ることじゃない、屈辱的な場に合わせたことは謝るべきかもしれないけれど、王でないことは謝ることじゃない。謝罪は、ただの埋め合わせだ。自己満足したいだけの、己への慰めだ。だから、口に出してはならない。
キュッと口元を結ぶと、月渓は親のような表情で名前の頭を撫でた。
額は避けたから、そこが嫌だと知っているのだろう。
だがその表情も、一瞬過っただけで奥に引き下げる。喉の奥を戒めるように緊迫させた。
「蓬山公、いや、今この時より私はあなたを峯台輔とお呼びしよう」
「峯、台、輔」
涙が零れ落ちて、視界が晴れる。
知らぬ響きが、自分を示すものだと気づいて顔を上げた。真剣なまなざしが突き刺さる。
「国元でお会いする時には、そうお呼びすることになる。台輔と」
「台輔」
そこにどんな意味があるか、知っている。
月渓は名前をまさしく芳に迎える麒麟として呼称したのだ。その瞳は厳しくも優しい。
不満などない。王ではないと判明したのだから、今後はそう呼ぶ。ただそれだけのことと、声色が言う。
すがりたいほどの善意に、名前は力強く何度も頷いた。
この人は諦めたのじゃない、納得したのだ。
「お仕えするのを楽しみに、お待ちしております。どうかよい王を、芳に」
月渓が礼をとるのを、今度は止めなかった。
止めてはならないと知っていた。
どうして麒麟だからってみんなそう謙るのか、意味が分からない、本当に、分からない。
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