一章
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「いってらっしゃいませ、くれぐれもお気をつけて」
「はい」
家出するために通った門を、女仙達に見送られてくぐる。
泰麒には
ちらりと見やれば、薄く微笑む。泰麒の使令は、彼女ともう一つだけだと聞いた。しかしその一つが大層強大な妖魔で、伝説級の存在である
名前にはその饕餮の凄さがよく分からないのだが、女仙の話によるとその力の強大さゆえに千変万化の妖だとか、普通の妖魔であるならその気配を察すると逃げてゆくのだとか。何やらとてつもなさそうである。
そうすると、泰麒が傍にいると普通の妖魔は逃げてしまうんじゃなかろうか。折伏するには妖魔に出会わなくちゃいけないのに。
そう思ったが、言わぬことにした。
折伏できようとできまいと、高里と黄海を散策するのは楽しいに決まっている。蓬盧宮から出られただけでも気晴らしになって気分が良い。
出奔した時は深夜だったので、明るい時分の黄海は新鮮だった。野生の森だという印象は変わらないが、暗闇への恐怖がない分、むしろ神秘性に映る。
以前は妖魔に見つからぬよう張りつめていた気を今度は探す方に向け、欝蒼とした木々に目を凝らす心地もまったく別種であった。
「呼吸は鼻で吸い口で吐く。足の運びは・・・こう、身体の中を常に生気で満たし、心を鎮める。と、難しい言い方になりましたけど、リラックスして落ち着いて無駄なく動くということ。麒麟の所作はヨガや太極拳みたいなものです。」
そう言った後、高里は蓬莱の言葉を久しぶりに使いました、と妙な興奮と共に笑った。
「要さんは、はじめそれを誰に教わったんですか?汕子?女仙?」
「景台輔です。こちらに来たばかりの頃とてもお世話になりました。」
名前は昨晩から泰麒を名で呼んでいた。
そう呼びたいとおずおず申し出れば、もっと早くにおっしゃってくれればよかったのに、ぼくもそうしてほしかったんです、と難なく承諾された。
ぼくも、名前さんと呼んでも構いませんか?名前さんとは、名で呼び合えたらと思うんです。己の主が
草の根を踏み締めて、やがて木々が開ける。
どうやらすぐそばは崖になっていて、そちらに気をつけるようにと朱狼が注意を促した。
「少し休みましょうか、お弁当に桃をいただいてきましたから。」
泰麒は包みを取り出す。布に包まれたいくつかの桃は丸々としていて、桃が縁起物であるというのを抜きにしても福々しい。
「遠足みたい。」
「あれ、ぼくはそのつもりで来たんですよ。」
にこり、と目を細めて笑う泰麒に、思わずきょとんと眼を見張る。
「折伏は?」
「遠足のついでです。」
いかにも生真面目な姿をして、時折お茶目な発言をする彼が好ましかった。名前は耐えきれずにくすくすと肩を揺らす。
桃を受け取ると、丸ごと齧りついた。果物はどれもこうするのが美味いとこちらに来て思い知った。見ると泰麒も同じようにそうしながら草の乾いたところに座った。
「日が出てきた。土が少し乾きましたね、暖かくなって気持ちがいいけど、時間が。」
「急がなくても大丈夫。今日でなくても、明日があります。」
名前はいよいよ嬉しくなって、泰麒のそばに腰を下ろす。
見れば、彼の黒髪は日を浴びていかにも黒々と艶があり美しい。
毎日女仙達が梳かしつけてくれる己の髪も、安闔日までにはそうなるだろうか。
「要は意外とのんびり屋さんですね。」
「折伏はあなたにとってどうしてもやらなくてはならないことではありませんから。それは、女怪のほかに使令が一匹しかいなくて、折伏もいよいよ主上の身が危なくなるまでできなかった不出来な麒麟が保証します。ぼくには友達が少ないから、ぼくと話す時間を優先してもらえたら嬉しいな。」
天を仰いで、泰麒は言う。
もしかすると、自分が共にいることで妖魔が避けて通ることを知っているのかもしれない。いや、知らぬはずがないだろう。
ふと、泰麒の膝の上にあった残りの桃が転がった。
ほとんど平らなと言っても、わずかに傾斜があったのだろう。そのひとつがころころとかなり先まで転がり、薔薇らしき茂みの前で止まった。
つけた蕾が、蓬莱で見かけたものに似ていたし、その香りにも覚えがある。高さは名前の身の丈ほどで、注意して見れば辺り一帯は薔薇科に属する低木であることが分かった。蕾がまだ固く閉まっていることもあってそう目立たないが、これが一斉に開けばなかなか壮観に違いない。
蓬莱の邸宅にもこんな薔薇園があるだろうか?無造作であるのに品が高い。少年期に夢中になって読んだ「秘密の花園」を思い出す。
「綺麗。」
名前がするりと立ち上がるのを、泰麒は見送った。
麒麟である彼女が、蓬莱でどのような日々を送っていたのか。
名前が時折見せる寂しげな笑顔は、蓬莱を懐かしむものか、何か含んだものがあるのか。
自分にとっては、苦い場所であった。苦く、僅かに甘かった。掴み取れないほど微かな甘さが毒のように彼を蝕み、苦しめた。
家族、友、人々、そして――、そこで高里要の思い出は濃さを増した。
「要。」
呼び声に、ようやく意識を回顧から取り戻す。
懐古の情は未だに胸にくすぶっていた。
少女は振り返りながら微笑む。それが眩しい。あちらでも彼女は笑っていたのだろうか、こんな風に。
「薔薇の花です。まだ蕾だけれど、よい香りがする。赤も、桃色も黄色もある、わあ、青も、こんなにいろんな種類があるなんて。咲くのはもう少し先でしょうか。手折るのはかわいそうよね?でも鳥酉にも見せてあげたいし、今の状態から生けたらちょうど開く様を見られるかもしれないと思うのですけど。」
「薔薇ですか?名前、怪我するといけないから。」
棘がある花だ、と思い出したのは、うきうきと弾んだ名前の声がいかにも危うかったから。
思わず桃から手が離れ、腰が浮く。
「だから、名前。」
「峯麒。」
名前が泰麒を振り返る。
その時、茂みががさりと音を立てた。
名前がはっとするのと同時に、朱狼が駆け寄り名前を庇って腕に閉じ込める。そのまま数歩分後ずさる。
「ろくた、だめだ、いけない、戻るんだ。」
「六太?」
茂みの向こうから緊迫した声がした。
聞き覚えのある名に思わず気の緩んだ名前は、するりと朱狼の腕を解く。
一瞬離すまいと力を込めた朱狼を視線で制して沈黙を促す。
人の声と同じくしてやってくるものだから、その声が緊迫していても好奇心が先走った。
この陽気で、近くに泰麒がいるという安心感のせいかもしれない。
名前は生垣のがさがさ揺れるのをじっと見つめていた。
何だろう?ほんの一歩、踏み出した時、ちょうど視線の先にあった薔薇の蕾が宙に待った。
緑の葉、枝は左右に割れて、その間から鮮やかな真紅が飛び出してくる。
「名前!」
「峯麒!」
泰麒と朱狼が悲鳴を上げたのは同時だった。
朱狼が名前の腕をぐいと引いた。しかし名前はその場から動かない。
「汕子、ごうら。」
「わあ!」
名前の上げた声が、恐怖のそれではないことに、泰麒は言葉を止めた。むしろ、最大限に喜色を帯びている。背後からでも分かるくらいに名前は浮足立っていた。
「名前?」
「要、ねえ、こちらへ。何というのか分かる?素敵、見たことのない毛色。」
招く声に泰麒も足早に駆け寄る。
名前の背の向こうに真紅を見て、それでようやくその正体を知った。安堵と緊迫が芽生える。
「名前、離れて。ただの馬じゃない、妖魔です。」
名前の傍らにいたのは赤薔薇のような色の鬣と薄い金の毛並みをした仔馬だった。
額に短く角が生えかけている。幼くも陽光のような激しさを備えた姿に、要は驚く。
一見すれば麒麟にも似ているが、足が八本ある。
多少興奮気味だが、機嫌がいいらしく足元に落ちている桃に鼻を近づけすり寄せていた。
「スレイプニルってご存知ですか?」
名前は仔馬をこれ以上興奮させまいと小声で話す。一瞬こちらでは聞き慣れない音に泰麒は目を瞬かせた。そして、かつては自分も夢中になって読んだ物語が脳裏を駆け巡る。
「スレイプニル・・・北欧神話の?」
思わず頬が緩む。こちらで聞くとは思わなかった。そしてたしかにその通りであるのだ。蓬莱の、外つ国の神話に出てくる空駆ける多足の馬をスレイプニルという。
「そう、思い出しませんか。要はこの妖魔、何という仔か分かりますか?」
「その妖魔は。」
泰麒の代わりに応えたのは、茂みの奥からの声だった。妖魔が開けた穴を、ガサガサと左右に押し開き抜けてくる。
「気性が荒くそう簡単には御し難い。それに特に今の時期この種はよくない、だからーー、これは。」
それは旅姿に近い簡素な衣服の青年であった。全身が木々を抜けると、肩や腰についた葉を振り払う。抜け目のない目元が印象的で、名前は思わずその奥まで見つめ込んだ。衣の隙間に玉の飾りが見えるところからすると、ただの旅人ではあるまい。その目が、驚きを露わに見開かれる。
「懐かしい御仁にお会いした。なんと久しいことか。」
「
驚いたのは泰麒も同じようであった。
名前には聞き慣れない名を呟き、頬に喜びを浮かべて青年の高い背を見上げる。
幾分表情が幼さと懐かしさを帯びて、眼の前の青年に敬意を示している。
「泰麒、いや、今は泰台輔とお呼びすべきか。ご立派になられた。こちらの方は?いや、もしや、蓬山公では。」
話が自分の方へ向いたのに少し心臓を鳴らし、答える。
「蓬莱から参りました、名前と申します。」
「やはり、音に聞いた通りのお方だ。近々お会いできようと思っていた。」
「では今でも時々蓬盧宮へ?」
「黄海では水を得るにも苦労する。」
名前は思わずくすくすと笑った。家出をして、それを身を持って知った名前にとっては何とも親近感の湧く苦労だ。
「峯麒、こちらは犬狼真君。この黄海を守っておられる方。」
この紹介には、真君は納得がいかなかったようで、仔馬の背を撫でてやりながら首を横に振る。
「泰台輔、私は別段黄海を守っているわけではない。日がな一日このように黄海をうろついているに過ぎないよ。」
「それで、この妖魔は?前に連れてらした妖とは異なりますね。」
「ああ、この仔は。」
ろくた、と、呼んでいた。名前は心の中で密かにそう呟いて、仔馬を見つめた。
桃の香りが好きなのか、甘さが気に入ったのか、地面に落ちたそれを蹄で潰して舌先で舐めている。
がっつくようなことはせず、鼻先でふんふんと嗅ぎ続けているからその両方かもしれない。辺りに桃と薔薇の甘ったるい匂いが広がる。
「親に、捨てられたようで。毛色が本来と違うからと妖魔はあまりそういうことをしないはずなんだがな。友が拾ってきたから、しばらく育てることにして。」
友、というのが、その前に連れていた妖魔のことだろう。
この青年は妖魔を友にするのだ。麒麟でもなくそうする人間がいると知り、名前は驚く。
ふと、指先にふんと息がかかった。
見れば、仔馬が名前の指に鼻先を擦りつけている。鼻の水分で僅かに濡れたが、不快を可愛らしさが押しのけて、名前はゆるく笑うと仔馬の頭を撫でた。首の下を撫でてやれば、くすぐったそうに身をよじる。
「可愛い。私の手から桃の匂いがしたの?どうか私の指を食べたりしないで。」
「この仔は甘い匂いが好きなようだ。」
「妖魔とは皆こんなに可愛らしく大人しいのですか?」
「大人しいとはとんでもない。私がすなと言うからこれは人を狩ることをしないが、黄海は妖魔の里、妖魔の本性猛々しく喜んで人を襲うものが大半。それに先程も申したが、これはなかなか気性が荒く私でさえ手に負えない。ある程度育つまで親が面倒を見る種なのだが、捨てられていっそう荒々しい。」
「捨てられて。」
「本来は蒼い鬣と銀の毛並みをしている。このように赤いものは私も見たことがない。」
名前の手が止まると、仔馬は不満いっぱいに首を擦り寄せる。そんな仕草も可愛らしいのに、普段は気性が荒いとはまるで本当に幼子のようだ。
妖魔とは、と聞く名前に思うところがあるのか、犬狼真君は泰麒と名前を見比べながらふむ、と口元に手を当てた。
「折伏にお出かけか?」
「はい、けど、今日が初めてで。」
「で、あれば、はじめは大人しい妖魔を相手にするのがよいだろう。天は麒麟の実力に見合った妖魔を与えてくださるはず。この黄海においては、天意は大きな味方になる。天の庭のようなものだからね。」
名前は仔馬をまっすぐ見降ろした。仔馬も名前を見つめ返す。瞳はいかにも健康そうで、気性の荒さに相応しいだけの気位がある。
「そうするつもりです。大人しく賢い妖魔が私のもとに来てくれるといいのだけれど。この仔にはまた会える?」
「蓬盧宮へ立ち寄る時は連れて行こう。」
「この仔、名前は?」
ろくた、と呼んでいた。
試すようにそう切り出した名前に、真君は応じなかった。不興を買ったかと名前が不安になるほど沈黙した後、
「まだない。」
そう答えた。
「ない?」
「手懐けたのも、ごく最近のことで、まだつけていない。」
真君の目の色に、深いものが滲む。表情はなく、むしろ無表情に近いのに。名前は静かに問い返す。
「名前がないのは可哀想です。」
自分の目がどんな色をしているか、少しだけ気になった。
「では、次に蓬山公にお会いする時までに考えておこう。」
ろくたというのではないのですか、とは、聞かなかった。仔馬を呼ぶ名がないのは少し寂しかった。
真君は話を区切るように背を向けた。追いたてるように仔馬の背に手を添える。
「そろそろ行かれた方がいい。折伏するには時間がない、日を改めるがよろしい。」
「はい、また、お会いするのを楽しみにしています。犬狼真君、それに、真君の言うことをきちんと聞いてね。あまり急に飛び出してはいけないよ。」
名前が呼ぶと、仔馬は是を示して凛々しく鼻を鳴らした。真君は静かに名前と仔馬を見比べた。
麒麟というものは妖魔を恐れないのだろうか。偶然ではあるが、彼が知り合った麒麟はこれですべてが胎果である。
蓬莱から来た麒麟。その国をかつては求めたこともある。
「次に会う時には君の名前を聞かせてね、薔薇色の仔馬さん。」
麒麟は友を慕うように、告げた。