一章
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六太と景麒はいろいろなことを教えてくれた。
この世界のこと、麒麟とは、いずれ仕えるべき王のこと。
特に六太ときたら、女仙達が「峯麒におかしなことを吹き込まないでくださいませ。」と顔をしかめるくらい、あれやこれやと面白おかしい話を聞かせてくれた。
王宮を抜け出す時には金髪だから隠さなくてはならないのだが、これがなかなか思う通りにいかない。年齢を怪しまれるのは困るので、顔みしりを作るわけにはいかないのが少し寂しい。泰麒や名前は黒麒麟なので、あまり問題がないだろうという言葉には、胎殻のままである自分が本当に黒麒麟なのか疑問があった。六太とて蓬莱にいた頃には黒髪であったはずだ。
この世界にいることに関しては納得したが、姿が変わるかもしれない、それも性別まで変わってしまうかもしれないという恐怖は拭えなかった。
六太が放浪癖のある主のことを持ち出すと、それまで黙って聞き役もしくは窘め役に徹していた景麒もため息交じりに便乗した。
不真面目なわけではないし、何事も自分の眼で確かめようという姿勢は敬意に値するが、己の立場を軽んじて行動されるので困る、目に余るものがある、という景麒の苦言に、六太は盛大に笑った。
景麒が女王のことを愚痴ったのだ、今まで散々生真面目に六太を諌めていた彼が。それが何だか可笑しい。
王とは皆そういうものなのだろうか、それとも彼らの王が特殊なのだろうか。
深夜までかけてあれこれ語り合い、次の日の早朝に見送るのがとても辛かった。
切ないし、置いてけぼりをくらってしまったような寂しさがしんと身にしみる、それに眠い。
「また来るから、な、景麒。」
「約束はしかねます。・・・・・・公務に差し支えのない程度にであれば、いずれ。」
二人のその言葉を頼りに頷くと、朱狼が慰めるように手をつないでくれた。
苦笑とともに、
「そんな顔をされてはお二人がお困りになります。」
と言われ、本当に自分が母に窘められる幼子になったようで恥ずかしかった。
また会いたかった。
次に会う時には、もう少し成長していたいと思った。
麒麟達との会談を境にして、名前は女仙と朱狼に請い十二国について勉学を始めた。
まずは世の理、天の存在、地理。その形に驚き、天帝の存在に驚き、麒麟の存在が本当に尊いものとして扱われていることを知った。
王を選ぶ神の獣、霊獣、といかに言われようと、仁徳を本性に持つ人型の獣なんて、現実味もなければありがたみもなかったのだ。
未だに実感はないが、その責任と存在の重さは震えのくるほど思い知った。
また神仙の類が常識として存在することや、雲海が地上と天を隔てること、王を選ばなければ麒麟の寿命は三十前後で、成長自体は十代後半から二十代前半で止まり、成獣となれば以降不老となることをも教えられた。なら、六太は相当早い時期に大人になったのだ。
蓬莱、昆崙、黄海、蝕の関わりを知り、麒麟には鳴蝕も可能だと知った。
朱狼は心配したようだったが、それを知ったからといってすぐにでも帰還を願うほど急いてはいなかった。
むしろ、安堵した。帰る方法ならある。なら急ぐ必要はない。今必要なのはこの世界の知識。
ようやく国の成り立ちと現在の情勢を知る頃にはこの世界の幼児程度には常識を理解していた。
言葉は通じても文字には差異がある。言語も本来なら異なるから、鳥酉にそれを習った。
ものの単位も、蓬莱とは異なる。長さも、重さも、それぞれ少しずつ違って、覚えはしたものの慣れるのには時間がかかりそうだった。
そういうものは、生活の中で染みついていく一種の感覚だ。
金銭価値を知りたいと申し出れば、女仙達は渋い顔をした。麒麟が知る必要はないというのだ。
そのことを六太に伝えれば、彼は何の咎めもなく教えてくれた。
こちらの金銭単位は両や銭。紙幣はなく、四角いのや丸い貨幣がある。銀や金の価値は蓬莱と同じく高い。
普通の庶民の感覚で言えば、銭の価値を把握していれば何とかなるというのが延の麒麟の言というのが何とも面白い。
芳についても学んだ。北西の極にある島国、芳極国。冬は大層厳しい。今は仮の朝がうまく国を取りまとめていて、それでも王の即位を首を長くして待っている。
国は貧しく、先行きは不安に満ちていた。
昇山が次の
その日になると黄海を取り囲む東西南北の山脈、何者も越えることが出来ないと言われる金剛山の入口が開かれる。
今度の安闔日は春分で、それもそう遠い日ではないことを知り、僅かながら焦りは感じた。
王を選ぶ日が迫っている。王を選べば、この世界を選ぶということに他ならない。そうするだけの決意はまだ固まっていなかった。
女仙達は、最初の昇山ですべてが決まるわけではない、王がいるとは限らないと言うが、王がいればいいと望んでいるのは明らかだった。
春分の安闔日に開くのは
長く長く待ち望んだ麒麟、ようやく叶う昇山の瞬間が祖国を向いているとなれば、誰とて心も逸ろう。
それまでに麒麟の僕となる妖魔を折伏し、使令としなくてはならないし、儀礼の手順を覚えなくてはならない。
ただ健やかにお育ち遊ばされればよろしいのです、と言われて鵜呑みにはできない。
麒麟は妖魔を調伏し、しもべとして使役する力を持っているという。しもべとなった妖魔が、使令。
名前は挑戦するような気持ちでいた。
もし己が本当に麒麟なら、妖魔如きを折伏するなど不可能ではないはずだ。
もしここで命を落とすことがあるなら、それは自分が麒麟ではないか、その本性を本当に見失ったかなのだろう。試してみるには、いい実証となる。
転変は、まだ先でいい。自分が自分でなくなるかもしれない。最後の最後、この世界に居座ると心に決めてからでいい。
そうしてまで仕えたいと思う王が現れたなら、それも仕方ないかもしれない。そうでもないのに己を曲げる必要はない。だからそれは考えないことにする。
昇山者は自分を麒だと思っていることだろうから、男物の衣服を着た。
もともと蓬莱ではどちらの服でも着ていたし、こちらの衣服には女物だろうが男物だろうが慣れていないので抵抗はない。
衣服程度で自分の性別まで決められるものではないし、そういうふりをするだけなら構わないと思った。
芳は貧しい。この冬で、どれだけの民が死んだかしれないと、女仙が嘆いているのを聞いた。そんな国に、麒ではなく実は麟であったなどという報せを流して右往左往させたくはない。
迷信が迷信だと笑い飛ばせないこの世界では、そんなことも不吉とされるかもしれなかった。
とにかく、麒麟としての準備を怠ることなく整え、昇山者を待つのだ。
その中に仕えるに相応しい王がいないのであれば、市井へ、或いはもっと遠くへ。もし自分の選んだ王が愚鈍であるなら、見限って蓬莱に帰る。
王が道を誤れば、失道といって、麒麟が病に伏せるという。そうなるのなら、そうなって死ぬ前に蓬莱に帰ろう。
予想のしなかった人生ではあるけれど、自分は精一杯やったのだと胸を張って家族に会いに行こう。
やりたかった、やり残したたくさんのことを手に入れに行こう。
そこまで思うと、胸がすっとした。
先行きは不安ではあっても、具体的に何をしようと先の見通しが立つと、何とかなるような気がしてくる。王が見つかっても見つからなくても、そう悪いようにはならないと思える。人間、目標が大事だ。
蓬盧宮での生活にも慣れた。
急激に知識を吸収し始めた蓬山公に、女仙達は驚き、喜んだ。
名前は女仙達に対しても態度を改めた。
請うべき教えは請い、分からないことははっきりと分からないと答え、必要以上に丁寧に接することも、距離を縮めることもやめた。
蓬莱での習慣をさらし、世話がいる時には遠慮することなく依頼した。偉ぶるつもりも、へりくだる必要もない。
自分らしさの置き場を、手さぐりに見出そうとしていた。
彼に出会ったのは、蓬山で得る知識の貯蓄に限界を感じ、そろそろ折伏に挑戦したいと躍起になっていた、ある晴れた日のことだった。
安闔日まであと数週間。
気候が落ち着いてきて、日が長くなり、そろそろよいのではないかと女仙も頷いてくれたのだ。
衣服の着こなしにも慣れて身動きも軽いし、折伏を覚えれば使令も得て、もしかすると転変をも覚えるかもしれない。何にせよ安心できるだろうということだった。
だが、日を決めるのは待て、調整を重ね、最適の日になさいませ、行くのであればお一人ではなく朱狼以外にも誰かを伴って、日が天を越える前にお帰りくださいませと繰り返すものだから、少々うんざり気味で蓬盧宮の自分の室に閉じこもっていた。
正直に言って、鬱陶しい。
名前にしてみれば、蓬山にいる間も、仮りに主を得たとしても、今のままでは自立できず安全という名のもとに束縛を余儀なくされよう。
一刻も早く行動に出たかった。
折伏の手順や理論は朱狼に学び、呼吸法も伝授される。それらは知識としてはともかく実際の意味で身につくのはまだ先のことだろうとは考えずとも分かっていた。
とにもかくにも、こちらで育ったわけではないし、急速に知識を得てはいても実践が足りない。
いよいよ「明日には黄海に降りる」と焦燥のまま日がな一日繰り返し始めた頃に、彼が蓬盧宮を訪れた。
名前が蓬山で見かけた男といえば麒麟の二人であったから、客人が来ているからと通された室で待っていた長い黒髪の優しげな青年にはじめ首を傾げた。
金髪ではない。子供でもなければ、大人でもない。
「はじめまして。ぼくは高里要といいます。」
若く線の細い青年が、そう言って会釈をするのに名前も同じく返した。
高里要?聞いたことがない名称に、どういった反応をすればいいのかが分からない。
ただその物腰の柔らかさと丁寧さは安心感を与えるのに十分であったから、
「私は名字名前です。芳の麒麟で、蓬莱からまいりました。」
とだけ答えた。
「うかがっております。ぼくも胎果、蓬莱の生まれです。こちらでは音に読んでコウリと呼ばれることが多い。」
「コウリ、蓬莱の生まれ。」
視線が彼の黒髪にいって、かちりと情報が結びつく。
「黒髪で、胎果・・・、もしかして泰台輔でいらっしゃいますか?」
思わず声を高くすると、高里は嬉しそうにくつりと微笑んだ。
「はい。」
「私、わたし、ずっとあなたにお会いしたかった。」
「ぼくもです。」
それは心から望んだ者の来訪だった。
蓬莱から来た麒麟、それも遠い昔のことではない。鬣は黒く、十二国でもこの上なく稀有な麒麟とされ、かつて角を失くし麒麟の力を失うという苦境に遭いながらも戴の危機を自ら救ったという。
「ご公務がお忙しいと聞いておりました。」
「芳もそうでしょうけど、戴は冬が厳しくて、離れるわけにはいかなかったものですから。」
「お国元は、今は落ち着かれたのですか?」
「はい、最近は戴も気候が安定してきましたので政務の心配ごともなくなり、ようやくお会いすることが出来ました。本当はもっと早くにと思っていたのですが、ごめんなさい。」
「謝らないでください、当たり前のことです。」
名前がそう答えると、高里は眩しそうに目を細めた。
「峯麒はお優しい方ですね。芳はよい麒麟に恵まれました。」
「優しいというのは、泰台輔のことでしょう。雰囲気も、微笑まれても、とてもお優しそうなので安心しました。想像していたのと全然違ってびっくりしたけど。」
「想像?」
自分がどう想像されたのか、面白がっているようだった。
名前は少しだけ奥歯で笑って口角を上げる。
「だって、蓬莱出身の黒麒麟で、角を失ってなお国の危機を救ったなんて聞いたら、怖いのとは少し違うけど、厳しい、近寄りがたい人なんじゃないかって心配してたんです。」
「ぼくにはあまり覇気がないから。」
随分な英雄を想像されたらしいな、と高里は苦笑した。名前は慌ててその手を掴む。
「そういう意味で言ったんじゃないんです、泰台輔は本当にお優しくて、傍にいるだけで暖かい気持ちになるんです。六太・・・延台輔の時のような、夏のような温もりではなくて、ちょうど今の時期のような、春先の。」
つらつらと並べた言葉が実はずいぶん気恥しいものだと気づいたのは言ってしばらくしてからだった。
気恥しいけれど、高里が笑わずにいてくれたから、そのまままっすぐ高里の眼の奥を見つめた。
「麒麟は皆そうなのかな、羨ましいくらい。」
「何をおっしゃるんですか、峯麒。あなたも麒麟じゃないですか、それにぼくにはあなただって輝いて見えます。」
手を握り返されたのを感じて、名前は俯いた。
「私、麒麟を羨ましいとは思うけど、麒麟になりたいと思ってるのとは少し違うのです。聞かれたかもしれないですけど、私、麒麟の本性を失くしたのかもしれないって言われてるんです。転変できないし、本当なら麒として生まれたはずなのに胎殻の姿のまま変わらない。自分が麒麟なのか人なのか、麒麟の本性が何なのか私には分からない。いつ転変するのか、いつ麒麟になるのかと待ち焦がれられて、それが時々つらい。」
それはなし崩しに、転がるようにして溢れ出た。
「延台輔や景台輔にお会いして、この世界にも私を理解しようとしてくれる人がいるって思えたから、少しでもこの世界に慣れてみようと思った。たくさん勉強して、必要なことを覚えて、この世界のこと、まだよく知らないけど、好きかと聞かれたら違うけど、嫌いでもない、帰ることだけ考えてた時とは違う。それでも。」
「峯麒。」
「それでも、私は、私でいたいのに。」
高里は僅かに目を見開き、懐古と同情に駆られた。
女仙達もこのような異例中の異例に対応し切れていないのだろう。
蓬莱で生まれ育った麒麟の、それも高里や六太の時とも違う状況に、麒であるはずの在り方を麟と変えてしまった姿に、麒麟の本性を失くしてしまったのではないかと危惧する気持ちも、そしてまたそれを一刻も早く取り戻すよう期待する気持ちも分かる。
しかし高里には名前の気持ちも痛いほどよく分かった。
胎果にとって蓬莱という場所は、そう簡単に捨てられる場所ではない。
こちらの生活に慣れるにつれて、塗り替えられてゆく何かが恐ろしい。
「ぼくもはじめは転変できませんでした。」
「泰台輔も?」
ため込んでいたものを吐き出して、
ようやく落ち着いたのか名前は静かに高里を見返した。
何かに焦がれているような切羽詰まった瞳が、ただ少し痛くて切ない。
「はい。」
高里は深く息を吸い、目を伏せて一つ一つ辿るように思い出していった。
「主上に誓約申し上げる時に・・・主上が山をお下りになる時に、追いかけて、その時初めて自分の獣の姿を知りました。ぼくは、初めて主上にお会いした時、王だと分からなかった。いえ、王気はたしかに感じていたけれど、それが王気だと思えなかった。あまりに強すぎて、怖くなってしまって。」
「怖い?王気であったのに、分からないものなのですか。」
「王気は、それぞれ違うんです。王によって違うのか、麒麟によって違うのかは分からない。けれどそれは一様に、麒麟にとって抗いがたいものなんだと思います。ぼくはそうでした、冷たい炎のように、ぼくとはまるで正反対で、血のような真紅の瞳をされているお方なんです。それが恐ろしくもあったけど、主上を失うことの方がもっとずっと恐ろしかった。主上にお仕えすること以外、その瞬間は忘れていました。王気でないと思っていたから、とんでもない罪を犯しているという罪悪感に苛まれたけど。」
あとからそれが杞憂であったと知った。
麒麟は王以外に誓約はおろか叩頭礼すらできない。頭を伏せ、額を地に着け、跪くのは、ただ一人王の足元のみ。
名前が苦しそうな顔をしたので、高里は小さく笑った。
「そう悩まれずとも大丈夫、あなたは麒麟です。ぼくもはじめは悩みました。折伏も、それこそ主上を守るためにやっと。髪も金じゃないし、自分は麒麟じゃないんじゃないかって。でも、女怪も麒麟も間違えません。あなたは麒麟だ、ぼくは、それでいいと思う。」
「それでいい?麒じゃないのに?」
生まれるべき姿を失ったかもしれないのに。
それが、一番怖かった。
麒になれないことも、麒になることも、どちらも怖かった。
だが高里は僅かに額を押さえながら、やはり微笑む。
「たいしたことじゃない。ぼくなんて、一度は角も折れて穢れに倦んで、麒麟としてあるまじき振る舞いもたくさんしました。それでも主上はぼくを台輔と呼んでくれる。戴の民意の具現、王の半身と。」
高里の手が、そっと名前の額に伸びる。少し嫌だった。
高里もそれを知っているようで、ごく慎重に名前の前髪を掻き分けた。眉間の少し上を、触れるか触れない程度に撫でる。
「ごめんなさい、お嫌ですよね。ここに角がある。」
「ここに?」
「麒麟の霊獣たる証、瑞角。触れられるのが嫌なのは、ここに麒麟の力の全てが集約されているから。大事にされてください。」
額から離れてゆく手を見送る。
この人が穢れたと、病に伏せたことがあると、誰が言ったのだろう。こんなにも強く優しいのは何故なのだろう。何を越えればこうも美しくなれるのだろう。そう感嘆してしまうくらいには、高里は綺麗だ。世にも稀なくらい澄んでいる。
「はい。」
「いずれ、景台輔にお願いして転変を教わりましょう。」
ぼくも、黒麒麟の姿には、少しだけ自信があるんです、皆が褒めてくれましたから。
高里はふっと微笑む。
幼い麒麟は嬉しかったのだ。見事な黒麒麟だと声をかけてくれた主の声が。
そんなことを思い出しながら、口元を押さえるようにして隠した。
「明日の朝、早くにご起床ください。」
「えっ。」
「折伏は、
指南は期待しないでくださいね、まともに折伏した経験はぼくにもありませんから、とまとめ上げて、高里は隠していた口元をさらした。
キュッと上がった両口角が凛々しい。
覇気ならあるじゃないか、何て頼もしい笑い方をするんだろう。
どんな豪傑が上げる鬨の声よりも心が安泰するのを感じた。
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