一章
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そっと室を抜け出したのは、それから数日後の夕刻の頃。
とにかくまずは休息を、とひたすら気を使う周囲の者に、傍に人がいては気が休まらないから一人にさせてほしいと願い出て、完全な人払いをした。
朱狼だけは常に傍にいたが、「峯麒が何者でも構わない」という言を信じた。だからついて来ても構わないと思った。
ここが異世界だとまだ心の底から信じたわけじゃなかった。
光に包まれたのは覚えているし、異世界であることを完全に否定しているわけでもないが、自分の力が全く通用しないのか、否か。それは試してみないと分からないと思った。
帰り方が分からないと玄君に述べたのは嘘じゃないが、どうすることもできないと簡単に受け入れるほど従順な性格ではない。
誰かがどうにかしてくれるのを黙って待つほど受動的でもなかった。
女仙達は名前の落胆ぶりを見ていたから、こんなにすぐにでも行動に出るとは思わないだろう。
もともと名前自身はじめはそんなつもりなかったのだから。けれど帰りたいと思うのに、帰ろうとしないうちから帰ることを諦めたくはなかった。
元の衣服は目立つだろうから、置いてゆく。代わりに朱狼に頼んで女仙の服を一式盗ませた。髪も朱狼に頼んで結い直した。羽衣で顔を隠し、女仙のように慎ましやかに振る舞う。
来たのなら、帰れるかもしれない。
自分の力ですぐに無理でも、帰る方法が分かれば、何か講じられるかもしれない。
緊張感の中に、わくわくするような好奇心がわきあがってくる。
出し抜いてやろうというのだ、この宮殿にいる全ての人間を。
「朱狼、近くに人はいる?」
「いえ、皆、峯麒を心配して少し離れた室に。」
朱狼の答えは名前の胸を罪悪感でちくりと刺したが、それを振り払うと、
「そう。」
とだけ返した。
「朱狼、お願い、私に従って、傍にいて、願いを聞いて。」
「是非もなく、わたくしは峯麒のためにお傍におります。」
真実そう答えているように聞こえた。
朱狼は片時も名前の傍を離れるつもりはないようだった。
柔らかな母性に名前は感謝を返しながら室を飛び出した。
なるべく急いで駆けながら、人のいるところでは落ち着いた様子で歩いた。
心の中ではこの上なく動揺していたが、女仙のふりをし、それが当然のように振る舞った。
廊下を一足飛びに駆け抜けて、外に出る。
建物を出た途端、山と、聳える岩の林が眼下に広がった。
名前が招かれたのは相当な高い場所に建てられた宮殿のようだ。
岩肌の向こうに、荒れた森林が見える。その向こうに日が沈んでゆく。
気温はさしてそう思わなかったが、光景は寒々しいほど壮大で、気圧されそうになる。
女仙達が寝静まってから行動に移そうかとも思ったが、そうするには自信がなかったのだ。
せめて、少しでも離れてから夜になれば、野営でも何でもやってやると思った。そして早朝には早い時間から再び移動してしまえば、もう見つかるまい。
捕まってなどやるか、と言い聞かせるように心の中で呟いて、道を下り始めた。
建物を離れてしまえば、意外なほど身を隠しやすかった。というのも、隠れる岩が多く、また女仙の年頃は名前とそう変わらなかったので、後ろ姿や遠目には分からないからだ。
宮を離れれば離れるほど女仙の姿はなくなったが、それでも時折出くわしそうになるので、過敏なほどに神経を尖らせ、様子をうかがいながら急いだ。転びそうになれば朱狼がすぐに手を差し出してくれた。姿を消していてもそうしていつでも支えになってくれるところを見ると常にそばに控えているのだろう。その確信だけが勇気を与えた。
やがて岩肌を下りきった頃には日はすっかり暮れて、東から紺碧が幕をかけはじめていた。
ああ、一番星はどこだろう。
つい、そのようなことを考える。
何を目指せば帰れるのだろう。
下り坂の先に大きな門が見えた頃、朱狼が名前の手を引いた。
「峯麒。」
振り返ると、朱狼が伏せ目がちに名前を見つめている。
「日が暮れます、戻りましょう。」
「朱狼。」
朱狼までそんなことを言うのか、と非難めいた眼で見つめ返してやると、朱狼は哀願するように名前の手を取る。
「皆、峯麒を心配しております。」
「朱狼、私は帰りたい。」
「帰りましょう。」
「
朱狼は心底困ったようだった。唖然として、それでようやく、この娘が自分を連れ出した理由を知った。
気晴らしに散歩をしていたわけでも、皆を困らせたい悪戯心で放浪したわけでもないのだ。
「あの門の先は、行ってはなりません、危険です。」
「どこからなら、日本へ帰れるの?私はどうやってここへ来たの?」
朱狼にとって眼の前にいる娘はどこまでも自分の愛する麒麟以外の何者でもなかった。
そして彼女の過ちは、自分の使命はこの麒麟を慈しみ、育て、我が子の如く守り愛し抜くことだと信じ切っていたことだろう。
つまり、その時朱狼にとっての名前は、どれほどの長い年月を別離して過ごしていても、教育すべきと天から使命を与えられた幼い者と何も変わらなかったのだ。
だから、戸惑う。眼の前の娘は、自分が思うほど幼くもなく教育を必要としてもいない。
その反面、この世界に対する理解と言ったら赤子以下なのだ。
麒麟としての自覚も自我もなく、人として異世界に戻りたいと駄々をこねている。
「峯麒。」
朱狼はそれを許してしまいそうになる自分を必死になって抑えた。
峯麒が望むなら、そして峯麒の傍にいられるのなら、長き離別を終え、何より尊い峯麒の母なる従者として愛を与えられるのなら、どんな場所でもいい、峯麒が幸福であるなら。
そう、思ってしまいそうになる母性と、その時ばかりは必死に戦った。
「なりません。峯麒、どうか。」
「私の願いを聞いて、お願いだから、帰して。あの門の向こうに行きたい。」
本能的に、自分の我儘がこの獣の女だけにはどこまでも通用するのだということを悟ったようだった。
受け入れられる、という安堵感から、名前は今までの生涯にないほどーー日本にいる生母にも押し通したことはないほどに、強く願い、強く主張した。
「やるだけやってみて、日本に帰れなかったら、その時は諦めるから。」
「峯麒。」
「何もしないまま諦めることができないの。」
その時は本当に諦めてくださいますね、と念を押すと、母性に負けた使命にそう言い訳して、朱狼は名前を抱きかかえた。
女の細腕と思いきや、朱狼の腕は驚くほど強い。
漆黒の翼で宙を薙いで飛び上がると、朱狼は高い門を一息に飛び越えた。
名前があっ、と息をしている間のできごとだった。
それは、名前の知る森林とは明らかに違った。
土も、木々も、波打つ風も、名前の警戒心を容易く呼び覚ます、野生の自然だった。
子どもの頃夏休みに踏み入ったような、人里と結びついたあたたかく営みを感じる気配のない、荒涼とした大地がそこにあった。
ただ闇であるというだけではない、恐怖。
「朱狼。」
「ここに。」
まだ幾日と経たないのにも関わらず、朱狼が傍にいることに慣れた。それを当然として、縋るように手を繋いだ。
「どちらに行けばいいんだろう。暗くて何も見えない。」
「峯麒、コウカイにはヨウマが出ます、シレイを持たない麒麟は格好の獲物。お気をつけください。」
ようま、とはUMA(未確認生物)のことだろうか、そんなものがここには出るのだろうか。富士の樹海が禁忌の場所とされるように、この場所も人を寄せ付けない何か理由があって、UMAが出て、死霊ではない麒麟は狙われてしまうのだろうか。たしかに、麒麟もUMAの一種と思えなくもない。
「UMAを捕まえる人がいるの?」
「いいえ、人がコウカイで捕縛するのは、騎獣にするためのヨウジュウです。ヨウマを捕らえることができるのは麒麟だけ。」
意味が分からなくなって、名前は適当な返事を返しながら森を進んだ。
森に残されたヘンゼルとグレーテルはこんな気持ちだったのだろうか。不安でたまらない上に、名前には目印になる小石もパン屑もない。ただ、朱狼が傍にいることだけは、彼らよりも強く安心できた。
「森の外へは、どうやって行けば?この森は、どのくらい大きいの?」
「歩いてすぐに着く距離ではありません。ショウザンシャも、何ヶ月もかけて準備をして、徒党を組んで昇ってくるのです。」
「ショウザンシャ?」
「山を昇って来る者のことです。麒麟に会い、王であるか否かを見極めるために。」
「その人達は、自分が王だと思ってるのに、王かもしれないのに自分で昇ってくるの?もし王なら国で待っていて麒麟の方から会いに行くべきではないの?」
不思議だと思った。麒麟は王にのみ仕える、そう説明されたばかりだというのに、その王はわざわざ麒麟に会いに昇ってくる。自分が王であるかどうかを伺いに。
それが本当だとしたら、麒麟という生き物はなんて窮屈で怠けものなんだろう。自分の主が昇ってくるというのに、迎えにも行かないなんて。
名前の質問に、朱狼は答えなかった。
峯麒がいるところなら、自分はどこへでも迎えに行こう、それが蓬莱だとしても。そう思って、迎えに行って、こうして蓬山にまで連れ帰ってきた。それなのに、今は芳麒がこの蓬山から逃れようとするのに、渋々ながらも助力している。まるで本末転倒だ。
「もし、朱狼が私を抱いて飛んだら、どれくらいかかる?」
「コウカイには空を住処とするヨウマもおります。我らが単独でそのようなことをすれば、標的となりましょう。」
「それじゃあ、どうしようが危険だし、時間もかかるということ?」
「さようです。」
行動が短絡過ぎたか。もう少し準備を重ねるべきだった。せめて、何か役に立つ道具や食料や衣服を揃え、知識と英気を蓄え、時を見計らって出てくるべきだった。
しかしそうまで待っていれば、日本での生活に支障が出ただろう。これ以上日数をかけるわけにはいかない。
名前は立ち止まり、口元に手を当て、考え込む。
この際、かかる日数に関しては諦めた方がいいかもしれない。長く時間がかかっても、帰れないよりはマシだ。
向こうに帰り着いた時のことを思えば、その支障を想像すれば、
たしかに困った事態ではあるが、それは後から考えよう。今はとにかくここをどう抜け出すか、だ。
「レンタイホが、わたしをこちらに連れてくるのに協力したと言っていたでしょう。」
「はい、レン国の国宝を使ってこちらとあちらを繋ぎましたので。」
「南にあると言っていたから、森を抜けたらとにかく南に行こう。一日や二日では着かないかもしれないけど、まったくやってみる意味がないわけじゃない。」
これにも、朱狼は答えなかった。
一日や二日で着くことはないどころか、一つの国を越えるのに一月はかかるし、その上にレン国は極国、海を隔てた島国である。こちらをよく知りもしない胎果の麒麟が旅をして、容易に辿り着ける国ではない。
しかし、さらに言うなら、麒麟である以上名前ならば蝕をーー鳴蝕といって自力であちらとこちらを繋ぐことは可能だ。
無論転変もできないような彼女には今のところ無理だろうが、麒麟の能力だけで考えれば、そうできても不思議ではない。
麒麟の本性が、薄れている。その証拠に、麒ではなくなってしまった。
碧霞玄君の言葉が脳裏によみがえり、朱狼をひどく不安にさせる。
蓬山は峯麒にあまりに冷たいように思えた。朱狼にとっては、峯麒は峯麒なのに。朱狼にとっては、見紛うはずもない、求め続けた光そのものであるのに。
それならばいっそ蓬莱に戻った方が峯麒にとっては幸せなのではあるまいか?そんなことさえ思えてくる、思えてきてしまう。だから、無理にでも名前を抱えて飛んで、蓬山に帰ることが出来ない。きっと今頃、皆それこそ死ぬ気でその姿を探しているだろうに。ようやく見つけることができた麒麟が幾日もしないうちに女怪と共に姿を消すなど、あってはならないことなのに。
何度か妖魔の襲撃にあった。襲撃といっても、襲われるほどのことではなく、傍を通りがかったのに気づいた朱狼が名前を抱えて木の根もとや岩陰に隠れて息をひそめた。そのあたり、さすがに狼の類を混ぜた女怪の俊敏さか、警戒心か。
時には大木の上に登り、そこで休息をとった。
闇夜の行軍に慣れていない名前は、たびたび息を上げた。
「食べ物はどうしよう。果物の木でもあれば何とか凌ぐけど、朱狼はそういうものを食べられるの?罠を張って動物をとる?やったことないからうまくいくか分からないけど、朱狼を飢えさせたくはないし、兎ぐらいならとれるのかな?でもね、朱狼。」
仁の獣は現実味のある言葉を並べ、顔をしかめた。
「私、鮮血が苦手なの、匂いも。いちど、それで倒れちゃったことがあって、だから、もし罠を張ってとれたとして、それ以上どうにもできないかもしれない。」
「麒麟は血の穢れを厭う生き物。峯麒のそれは、当然のこと。わたくしのことでしたら、心配には及びません」
朱狼はすんなりと納得してくれる。けれど、と名前は思う。
日本ならともかく、こんな知らない土地、それも森の中で倒れたらどうしよう。
怪我をしないとは限らないのに。
抱えて飛ぶには危険だと言っていたが、朱狼ならやりかねないのではないか。
名前は悲しいほどウンザリしてきた。
「考えなきゃ、そして、行動しなくちゃ。短慮だったことを後悔しても、今さらここじゃ何もできない。戻っても何も解決するわけじゃないし、とにかくこの森を出なきゃいけない。水と、飢えを凌げるくらいの食べ物があれば、しばらくなら我慢できる。森なのだから、それぐらい手に入れられるよ。」
いや、入れてやる、何としてでも。状況を整理しようと声に出して羅列し始めた名前に、朱狼は顔を曇らせる。
その声は朗々としていていかにも聡明ではあるし、落ち着いて並べる内容もなかなか的を射ているのだが、如何せんここは黄海。
人の常識が通用する場所ではなく、生きてゆく程度の食べ物なら手に入れてやる、と意気込んで何とかなる状況ではない。
食糧が云々という問題ではないのだ。
その程度であれば、仙籍に列記されるものにとっては怖い話ではない。
昇山者達は重々に準備を重ね、命がけで山を昇る。
五山が蓬山、蓬盧宮を目指して。麒麟、王という価値は重い。
「峯麒。」
胸を痛めながら、朱狼は謝罪するように首を垂れる。
「コウカイでは、そのようにはいきません。水と食べ物を手に入れるのは無理かと。」
「無理?なぜ?森なのに?それは、夜は無理だと思うけれど、明日になれば。」
言いかけて、噤んだ。
それくらいのこと、朱狼は分かっているだろう。それであえて言うのだから、何かゆえあってのことか、それとも名前を蓬盧宮に帰すための嘘偽りか。
水源くらいないのか?果実は?罠にかかる程度の小動物は?
当てにしていたものすべてが、実はこの世界とはかけ離れたものなのではと思うと、ゾッとした。
じゃあ、どうしろっていうの。
そんなことは、きっと朱狼の方こそ聞きたいだろう。
峯麒はどうしたいのですか、どうやって帰るおつもりですか、と聞きたいのは山々なのを堪えているのかもしれない。
森があるのだから飢えは何とかなろう、あとは己の足でどこへでも行こうと思っていた名前は、その出鼻が挫かれたことにようやく気がついた。
飢えどころか、水もないのではいったい何日持つというのか。
既に慣れない夜の山歩きで足が痛みだしている。
おまけにこのコウカイは、そう安泰な気候も風土もしていないようだった。
寒くはないのが唯一の幸いか。
泣きたくなった。泣いて、喚いて、駄々をこねて帰りたいと叫ぶ。
一人になることを好み、孤独を嫌い、旅行好きを自覚していた名前にとっては驚くべきことであったけれど、そうできるものなら戻りたかった。
朱狼と短い会話を繰り返しながら、既に何時間も足を動かしている。
いい加減どこかで休みたかった。ただの休息などではなく座り込みたかった。
座りこめば、しばらくはそこから動かないだろう自分を自覚していた。
朱狼は危険な森なのだと言った、簡単に行き来できる場所ではないということも。
それでも我を押し通したのだから、これは自分の責任だ。
朱狼を責めることも、この森の性質を責めることも出来ない。
もっと早い段階で聞かなかった、判断しなかった自分が悪いのだから。
「朱狼。」
「ここに。」
私は我儘だ、どこまでも、だって、朱狼が傍にいてくれることを疑いもせず、当然の如く名を呼ぶ。浅ましく、酷い、何様のつもりなのだろう。声が震えている。寒くはない。
「ごめんなさい、朱狼。」
「峯麒。」
「怖い。」
立ち止まって、傍の大木に背をもたれて座り込んだ。
朱狼がそれに従って傍らに寄る。木々を透かして見れば、天空を月が泳いでいる。
「森も、闇も、蓬盧宮も、全部が怖い。人じゃない、女じゃない、本来の姿は私じゃない、そんなこと言われても、そんなの知らない、それなのに帰れない。」
ここ数日言われた言葉だ、繰り返し。
とにかく休まれませ、転変を覚えられたら全てはすっかり好転いたしましょう。
求められても差し出せない、それでも求め続けられている息苦しさ。
転変して、彼女らの望む麒麟という獣の姿を得たとして、それが自分なのかは分からない。
どんなに手厚く慈しんでくれても、それを受け取る己は彼女らが望んだ存在ではない。
彼女らは、己の奥に存在するーーかもしれない、獣の帰還を待ち侘びている。
「帰りたい、ここは私のいるべきところじゃない。」
己の存在価値を張り付けられた切迫感、それに合わせることのできない窮屈さ。
どんなに孤独を感じても思うことのなかった、逃げたいという感情が身内を蝕んでゆく。
「朱狼。」
ゆっくりと、目線をまっすぐに女怪に向けた。
「ごめんなさい、私、どうしたらいい?朱狼は、どうすべきだと思う。」
「従ってくださるのですか。」
「朱狼が、私のためと思って言ってくれる言葉なら。その言葉に従って、この森で死んでも構わない。」
ここまで来たのは自分の責任で、そこまで朱狼に押し付けるつもりはない。ただ幼稚な己の判断を認め、女怪に縋るべきなのだということはこの闇夜に理解したのだ。
「朱狼、どうしたらいい。」
どうしたら帰れるの、とは聞かなかった。
泣けたらいいと思う、そんな時は子供時代を羨ましく思う。
どこでどんなに振る舞っても弾き出されたことを思えば、受け入れてくれる蓬山の居心地は悪くないのかもしれない。
しかし、彼女らが受け入れているのは名前そのものではないのだ。
だからといって、一度戻り、食料を手に入れて、再出発したところで何が待っている?
今と同じ失敗を二度と繰り返さないなどとは、名前には言えやしない。そんな自信はすっかり喪失していた。
「朱狼は、私を帰すつもりはないのでしょう、蓬莱に。」
何かを試されているようだ、と朱狼は思う。
まっすぐな、それでいて怯えた眼差しに、共に蓬莱を目指そうと手をとりたくなる。けれどそれは、名前の麒麟としての性に悖る。もしも蓬莱への帰還を望んでいようと、麒麟が麒麟としての本性を知らぬままで済むはずがない。
王を見つけることができなかった麒麟は、やがて死するのだと聞いた。名前はもう幼くはないから、残された時間はそう長いものではないかもしれない。蓬莱に戻ったところで、名前には猶予も、彼女があると信じている先の人生もないだろう。胎果のことはよく分からないし、胎殻を持った彼女はどうなのか真偽は定かではないが、可能性はそちらを指針している。
朱狼は悩んだ、一瞬だけ、深く、深く、悩んだ。
「帰りましょう、蓬盧宮へ。」
麒麟のあるべき場所へ、そしていつか、芳国へ。
もし望まないのなら、麒麟の本性を手に入れて、それでもなお蓬莱を望むなら。
いつかそんな日が来るのなら、是が非でも叶えてやろう。
けれど、今はその時ではない。
名前は何も言わず頷いた。その顔に落胆が浮かぶことはなかったが、代わりに無機質な硬さで口元を結んでいた。
夜が明けるのを待って、朱狼は名前を抱き上げると駈け出した。
全身をめいっぱい動かし、静かに、しかし俊敏に大地を蹴った。
妖魔に見つからぬよう息を殺し、一刻も早く蓬盧宮を目指した。
名前が怯えて朱狼の胸に抱きつくので、数刻に一度立ち止まって声をかけた。
大丈夫、あなたは必ず、わたくしが守ります。
それは
その実を
峯麒、その名を幾度繰り返したか。
その身体をこの腕に抱くのを、どれほど望んだか。
やがて昨晩名前に請われて飛び越えた門が見えて来た時、朱狼は名前の身体を強く抱きしめながら囁いた。
あなたが何者であってもいい、麒麟なくてもいい、人ですらなくてもいい、それでも私はあなたのおそばにいる。あなたはわたくしのすべてだから。
名前ははっと目を開き、朱狼を見た。
力強い腕なのに、頬も目元も緩め、深い抱擁のように微笑んでいる。
「朱狼、私を、名前と、呼んで。二人の時だけでいい、それで、構わないから、どうか私を、名前と呼んで。」
どうかどうか、私の生涯に付けられた、唯一無二のその名を。
朱狼が頷くのを見て、ようやく安堵した。
悲鳴のような歓喜をあげて女仙達が集まってくる声が聞こえた。
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