一章
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案内された部屋の、暖かそうな寝台に腰を下ろす。間を置かずぬるま湯を張った桶が置かれ、朱狼が傍に傅 くと靴を脱がせ、丁寧に名前の足を布で拭った。狙ったような適温に、思わずほうっとため息が出る。
「ありがとうございます。でも、自分でできます。朱狼様は、どうしてそのような格好をされてるんですか?ここはどこなのですか?」
先程レンタイホやゲンクンに様付で呼ぶよう指示されていたため、名前はそう呼称し、ゆったりと呼んだ。しかし朱狼は瞬間的に悲劇めいた顔色を上げ、名前を見つめ返す。
「ホウキ、わたくしに様をつける必要はありません。わたくしはホウキのために生まれた者。」
朱狼がそっと擦り寄せるように名前の足を抱く。ギョッとしつつも、嫌悪感はない。
「ホウキ、女怪はキリンを慈しみ、お育てすることだけのために生まれた者でございます。朱狼の幸福は、ホウキにお仕えすること。あなた様の母だと思えばよろしいのでございます。させてやってくださいませ。」
室に女性が入ってきて、そう述べた。見た目は若いように見えるが、それにしては落ち着いている。
レンタイホといい、ここの女性は皆一種の統率感と落ち着きがあり、乱れがない。
長い髪を一つに括り、飾り気はないが清楚で美しく、気品のある洗練された表情。どれも好ましく映った。
だが、母とは、妙なことだ。
「子どもの頃ならともかく、母にこのようなことさせませんし、私のために生まれたなんて、そんなことを言われるのはおかしいです。」
「そのようなことをおっしゃられては朱狼が悲しみますよ。ただでさえ乳母としての役目を果たせなかったのですから、せめて甘えてやってくださいませ。」
「私の名前はホウキじゃありません、名字名前です。どうしてこんなところに連れて来られたのか、どうしてホウキなんて呼ばれるのか・・・。」
「困惑されておいでなのですね、それも尤もなことでございましょう。落ち着かれませ、わたくし達ニョセンも、朱狼も、ご理解いただけるよう尽くします。各国におられるタイカにも早速連絡を差し上げてございます。此の度のご帰還に関わられたエンタイホやタイタイホなどは、すぐにでもいらっしゃると返事をいただいてございます。数日もすれば、お慣れあそばすと思い・・・、」
「数日!?」
どれほど混乱しようとも落ち着いて話そうと努めていた名前が、初めて声を荒げた。
何ということだ、この人達、勝手に私の予定を決めて!
「困ります、数日?休暇が終わってしまいます、今日中には、せめて明日には帰りたい。」
本音を言えばすぐにでも退散したかったが、手厚くもてなされている様子に言い出すことは憚られた。
けれど、数日は無理だ。
説明もなく連れて来て、なんて常識のない人達だろう。
よからぬ集団でなければいいが、自分にとってこの場は完全にアウェーなので強気の行動に移れない。
宗教勧誘の類?誘拐?ああ、落ち着いて頭が動き出すと、逆に段々分らなくなってくる。困っているのはこちらなのに、相手はもっと困ったように膝を床に着いた。
「ホウキ、落ち着かれませ、どうか。」
「ここはどこなんですか、あなたは誰なんですか、帰してください、家に、元いた場所に。」
喚き散らすわけではないが、朱狼が手を止めて名前の手をぎゅっと握ってしまう程度には喧しかった。
「ここはホウザン、ホウログウにございます。わたくしはホウキの傍仕えを仰せつかりました、ニョセン。」
「ニョセン様?」
「ニョセンとは女のセンのことにございます。」
「セン?」
「この山に住まう仙人、ヘキカゲンクンに従いホウザンコウにお仕えするのです。それゆえ、女の仙と書いて、女仙 。わたくしはチョウユウと申します、様などとおつけになる必要はございません。この世界において、キリンが敬称をもってお呼びになるのは極僅かの尊いお方のみ。ここホウザンでは、時折お見えになる各国のタイホと、ゲンクン様のみでよろしいのですよ。」
「女仙、チョウユウ・・・。」
仙人、という単語に、あっけにとられてしまう。
何を言っているのだろう、そんな、おとぎ話のようなことをこの人は。
「鳥獣の鳥と、方角の酉で、鳥酉 」
「鳥酉。」
変わった名前だと思う。
そんな思いが顔に出たのか、
「リボクからもぐ時に鳥が枝に止まったそうなんです。だから縁起がいいと。」
と先んじて応えてくれる。
リボクが何かは分からなかったが、鳥に関連する由縁があるらしい。
「さ、こちらにお召変えを。」
「え?」
鳥酉は傍の机に置いてあった布の塊・・・、どうやら衣服であるらしいそれを手に名前を向いた。
「お食事の準備も整っております。」
「あの、服って、どうして。」
着換えろと言われることに、正直驚いた。
その必要があるのだろうか。特別汚れているわけでもなく、強いて言うならこの気温には少し厚着すぎるという程度か。
それとも正装をして何かに参列しなくてはならないのか。
「テンペンを覚えられましたら、その衣服ではご不便でしょう。」
ああ、この人達は、私に分かりもしない単語を並べてからかっているのだろうか。
人並に語彙力はあるつもりだが、何を言われているのかさっぱり分からない。
テンペン?覚える?衣服が不便?何がどうなって、一体何の話なんだ。
「着替えなくちゃいけませんか?」
「ぜひそうなさいませ。」
「ホウキ。」
足を拭い終えた朱狼が名前の腕をぽんと撫でる。
当たり前のようにそうすべきだと言われているようで、名前は溜息とともに頷いた。
「分かりました。」
「よろしければ、お手伝い致しますが。」
「・・・お願いします。」
手渡された衣服を手に、これはどうやら着慣れたものではない、と判断すると、布を広げながら素直に頷いた。
だが、驚いたのは名前ではなく鳥酉のようだった。
「よろしいのですか?」
「え、どうして?」
「その、こちらのお育ちではありませんし、年頃もタイキの頃とは・・・つまり・・・、ご成長されたキであらせられるホウキのお召替えを、その、わたくしが、しても・・・お嫌では。」
「はあ」
鳥酉は困ったように視線を外し、もぞもぞと身じろいだ。恥じらっているようだ。
何を言われているのか、名前にはやはりよく飲み込めない。
手伝ってもらえないならもらえないで、とりあえず着方を教えてもらわなくてはならない。
名前はマフラーを首から外して卓上に乗せ、ダウンジャケットを脱ぎ椅子にかけた。名前の肩は軽くなり、もこもこと厚みのあるそれは重みで椅子から落ちる。
鳥酉が拾って卓上に乗せた。
その瞬間に、鳥酉は唖然として固まった。
「え、え。」
それ以上は声にも出なかった。
重苦しいダウンジャケットとその下の黒のタートルネックの間に隠された、女性特有の柔らかい曲線。
鳥酉はらしくもなく不躾なまでにそれらをじろじろと眺めると、大きく見開いた目をパチパチと数度瞬かせた。
「ホウキ?」
す、と伸ばした手を、名前の頬に添える。肩を撫でる。
さすがにこれには名前が思いきり顔をしかめると、鳥酉ははっとしてその手をひっこめた。
「も、申し訳ありません、ご無礼を。その、ホウキが、まるで、女人のような、いえ。」
「女性のような?」
不愉快と呆れを一緒くたにしたような声で、名前は問い返した。
「いいえ、無礼じゃないです、こう見えても、私、女性ですから。」
鳥酉の目はいよいよ大きく見開かれた。
「何という・・・・・・。」
ようやく、鳥酉が沈黙を破り、長い静寂が割れた。
「何ということでしょう、女性の身体でお育ちになったのですか?ああ、天は何を考えておいでか、それとも偶然がなしえたことなのでしょうか。ただでさえホウライにお生まれになって、突然これではあまりに酷なこと。ホウキ、よろしいですか、キ、とは、雄のキリンのことにございます。この世界で最高位の霊獣、麒麟 。麒 は牡、麟 は牝を示します。」
そこまで言われて、ようやく今まで分からなかった麒麟という単語の意味を把握する。
動物園にいるジラフのキリンではなく、中国の物語に出てくるような幻の獣のことであったのだ。
だがそう言われても、自分との結びつきは分からない。
麒麟とはたしか、君子の出現と共にある霊獣で、めでたい生き物だ。自分の話題を出すのに、なぜ麒麟を持ちださなくてはならないのか。
「ホウキはホウの国の王をお選びする麒麟。牡ゆえに、麒、ホウ麒。」
「王を選ぶ麒麟?」
そんな物語は聞いたことがない。うっかりすると話の腰骨を折りそうになりながらも問い返す。鳥酉は真剣な眼差しで頷き返す。
「よくお聞きくださいませ、ホウ麒にまつわる、大事な話にございます。この世界はホウ麒のお育ちになった世界とは異なる世界。天がお造りになった十二の国があり、十二の王がいる、十二の麒麟がいて各国の王を選ぶ、これを選定という。」
聞き返したいことが山ほどあったのに、それが不可能だった。何を聞けばいいのか、言葉に詰まった。
異世界?何を言っているのだ、この人は。
「麒麟は人ではありません。神が人間に賜った霊獣。王にのみお仕えし、王以外に屈することなく、本来ならこのホウザンにお生まれになる仁の獣。あなたのことです、ホウ麒、あなたの・・・・・・、あなたの。」
そこまで言って、鳥酉は一度、黙りこくった。
呼吸にも似た空気で、名前を見つめている。
ホウキ、ホウの麒麟、雄だからキ、麒、ホウ麒。
「私、獣じゃありません。人間です、そして女です。」
この身体を見よ、とばかり、腕を広げる。
確かに彼女の全身を形作るのは女性の柔らかさであった。鳥酉は頷きそうになりながら、強制的に話を続けてゆく。
「麒麟は人と獣、両方の姿を持つのです、額に一角を持つ霊獣の姿、その姿の変化を、テンペンと申します、テンペンは、天が与えた変化の力。二つの姿を持つのは、その力が尋常ならざるがゆえのこと。」
「帰ります。」
帰ればいい。そうすれば、この姿が何だ性別がどうだと文句を言われることもない。
鳥酉はゆっくりと首を横に振った。
申し訳ないような、悲しいような、不思議と優しく、しかし拒絶したくなるような。
「あなたのいるべき世界はここなのです、ホウ麒。時折、こちらで生まれるはずであるランカが、あちらに流されてしまうことがあります。」
ランカが何かは分からなかったが、あちら、が日本を示していることは容易に理解できた。
つまりランカとはおそらく、命や赤子と同じ意味だろう。
「蝕が起こり、本来交わらぬべきのあちらとこちらが繋がってしまうことで。そして、流されたランカは、あちらの母親の腹に宿り、身籠る、そうして生まれるのが、タイカ。あちらの姿を持った、こちらの命。」
そんなことがどうして言えるのか、名前には分からなかった。
人違いかもしれないじゃないか。ここが異世界だというそれも未だに納得のいった話ではなかったが、これだけの異常な事態に名前を当てはめようとする鳥酉の思考回路はもっと納得できなかった。
しかも真剣に、神妙な顔つきで、切々と語りかけるのだ、あなたは人ではなく麒麟だ、この世界で生まれ、この世界で生きるべき尊いお方だ、と。そんなもの、信じろという方がおかしい。
いっそ不愉快も通り越して滑稽でたまらない。何に巻き込まれたというのだ、私は。
「わたくしもこのような事態は聞いたことがありません。本来なら、こちらの性とあちらの性は一致するはずなのですが。麟と見紛うばかりに愛くるしいというのも、道理、今のお姿は麟そのもの
ホウライで長く過ごされた御身ゆえ、麒としての本性に、あちらでの本性が混ざってしまわれたのやも。」
鳥酉も困惑を隠しきれないようで、助けを求めるように朱狼に視線を送ったが、方や朱狼といえば、驚いたのは最初だけだったようで、あとは何を気にするものかという落ち着きようで名前の傍に寄り添っていた。
「朱狼。」
「わたくしにとってホウ麒はホウ麒。その姿が何であろうがかまわない。」
「ホウ麒にはお役目がある。この世界の、ホウの王を選ぶこと、その王にお仕えすること。」
嫌だとか、いいとか、そんな問題を全て取り払った宣言だった。
急に、見知らぬ舞台と台本を手渡されたような気分だった。しかもそれは、何一つ分からない暗号で書かれている。
名前が一向に話についてこられないのを見て、鳥酉は空気を払うように衣に手をかけた。
いよいよというように意気込んで広げる。黙ったまま、名前は身動ぎ一つしなかった。
「とにかく、このことはヘキカゲンクンにお伝えしなくては。ご判断を仰ぎましょう。きっと何かしらよきようにしていただけるでしょうから。」
むしろ、そうであるといい、そうであってくれと、まるで祈るように鳥酉は言い聞かせた。
「まあ、なんと・・・これは異例なこと続き。」
着替えた名前と鳥酉が全ての説明を終えた時、碧霞玄君 は僅かに驚いた顔をして、口元を隠した。
しみじみと名前の方を見て、痛ましそうに眉を寄せる。
「ただでさえこのように不慣れな場所においでいただいたばかりだというのに、天は芳に何とお厳しいこと。蝕で果実を失い、長く長く待たされて、それが黒麒麟であることに喜べば、峯麒 は女人としてお育ちとは・・・。」
扇で額をおさえ、目を伏せる。まつ毛はけぶるほど、長い毛先が上を向いている様が美しい。
「ほんに、頭の痛いこと・・・。」
「私は女です、それじゃいけないんですか。」
「麒であることは、否定できぬこと。生まれたその時に、麒であるか、麟であるか、女怪がそれを見定める。そなたはたしかに麒としてお生まれになった。」
性別に固執する生き方はしていないが、かといって女として生まれ、生きてきた自分の人生を否定されているかのようで、それはそれで不快だ。
名前は腕で身体を抱きしめて、自分で自分を許すように俯いた。
不快、と、同時に、申し訳ない。この人達は私が男であることを望んでいる。いつぞや、家族の言ったのと同じだ。
お前が男であったなら、どれほど嬉しかろうか--。
男でない私は、私ではないのだろうか、許されないのだろうか。
そんな名前の苦痛が伝わったのか、玄君はそっと優しく名前の腕に触れた。
「これもきっと、天のご意向、何か意味がおありのことでしょう。自分をお責めになることではありませぬ。転変 を覚えれば、自然とこちらの姿も身に付きましょう。」
「転変、こちらの姿・・・・・・。」
「さすれば、麒麟としての本性も、自然と芽生えましょう。今は戸惑うばかりやもしれませぬが、そうすることが最善、近道かと。ともあれ、麒であると思いこんでいたものだから、衣服も小物も設えも、どれも揃えなおさねば。」
「帰っちゃ、だめなんですか。帰りたいです、どうして帰っちゃいけないのですか。だって、あなたたちの思ったような私ではないのでしょう。」
これにはその場にいた誰もが困ったようだった。どうやら、彼女らは名前を帰す気がないようだ。彼女らも困ったかもしれないが、名前も困り果てていた。
一日や二日ならいい。帰った時の言い訳も何とかなろう。だがそれ以上は困る。休暇中で連絡が取れなくなった、ということでは済まされない。
友人や家族が捜索願を出すまでどのくらいだろうか。いや、捜索願を出さずとも、連絡が途絶え音信不通になり家にも帰らないとなれば、いかにふらっと旅に出る気質の名前とはいえ心配させるのは確実だ。
連絡を入れなくてはならないのは家族や友人だけではない。すぐにでも帰りたい。しかしこの様子では、すぐどころか当分名前を家に帰すつもりはなさそうだった。それは鳥酉の言った「ここがあなたの世界です。」という言葉にもありありと表れている。
誘拐されたという線はどうやら消えたが、何度説明されても自分が異世界の獣、それも神に属する霊獣だなんてこと、どうやって信じればいいのだろう。
この世界に必要とされているから、本来いるべき場所だから、使命があるから。
そう言われても、何一つ納得できなかった。
あちらの世界に未練がある、という言葉すら浮かばなかった。
未練どころか、名前の中で名前の属する世界は、あちら以外にないのだから。
「勝手に決めないでください。」
「峯麒、どうか、落ち着かれませ。」
幾人かの女仙がおろおろと駆け寄ってくる。
もう何度も聞いた言葉を再び聞いて、喉の奥が怒りに震えた。
「私のこと、本当は獣で、男で、この世界に生まれるべきだったとか決めないでください。私は人間で、女で、日本で育ちました、それ以上の真実がどこにあるんです。」
「突然のことで戸惑いになられるのは詮ないこと。されどこれは、お生まれになられた時よりのさだめ。峯麒もきっと、王を定められましたなら痛感されるでしょう。」
「私は峯麒じゃない!あちらに、生活があるんです、ここにいつまでもいたら、それが壊れてしまうんです。どちらをとるかなんて、何であなた達に勝手に決められなくちゃいけないんですか。あなた達は非常識だし、無責任です、勝手すぎます。」
「峯麒の言い分は、尤もなこと。」
ただ一人、壁霞玄君は落ち着いたまま、名前に言い聞かせるように、そして決して否やを言わせぬ声色で、口を開いた。
「さりとて、如何にして帰られる?」
「帰さないって言うんですか!勝手に連れて来ておいて!」
「痛ましいこととは思えど、我らとて使命がある。峯麒を帰すわけにはいかぬ。」
子どもの頃なら立ち上がって癇癪を起こし、地団太を踏んでいただろう。そうできるほど幼くはない名前は、唖然とし、頭の中を真っ白に消し潰しながら、そうできたらどれほどすっきりしただろうか、と思い描いた。
玄君に向かって喚き散らして、朱狼が止めるのも聞かず、その心地いい体毛を搔き毟ってやるのだ。
すとん、と絶望が胸に満ちる。名前は深い溜息と共に答えを吐き出した。
「私には・・・・・・、どうすることもできない。」
ここがどこだか分からない、どうやって世界の挟間を越えるのかも分からない、帰る術を試行錯誤するほど、こちらの知識に厚くない。
「ここにいるしか、ないんですね。」
「ほんに、峯麒は御聡明であられる。」
玄君の答えが、皮肉に聞こえた。
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「ありがとうございます。でも、自分でできます。朱狼様は、どうしてそのような格好をされてるんですか?ここはどこなのですか?」
先程レンタイホやゲンクンに様付で呼ぶよう指示されていたため、名前はそう呼称し、ゆったりと呼んだ。しかし朱狼は瞬間的に悲劇めいた顔色を上げ、名前を見つめ返す。
「ホウキ、わたくしに様をつける必要はありません。わたくしはホウキのために生まれた者。」
朱狼がそっと擦り寄せるように名前の足を抱く。ギョッとしつつも、嫌悪感はない。
「ホウキ、女怪はキリンを慈しみ、お育てすることだけのために生まれた者でございます。朱狼の幸福は、ホウキにお仕えすること。あなた様の母だと思えばよろしいのでございます。させてやってくださいませ。」
室に女性が入ってきて、そう述べた。見た目は若いように見えるが、それにしては落ち着いている。
レンタイホといい、ここの女性は皆一種の統率感と落ち着きがあり、乱れがない。
長い髪を一つに括り、飾り気はないが清楚で美しく、気品のある洗練された表情。どれも好ましく映った。
だが、母とは、妙なことだ。
「子どもの頃ならともかく、母にこのようなことさせませんし、私のために生まれたなんて、そんなことを言われるのはおかしいです。」
「そのようなことをおっしゃられては朱狼が悲しみますよ。ただでさえ乳母としての役目を果たせなかったのですから、せめて甘えてやってくださいませ。」
「私の名前はホウキじゃありません、名字名前です。どうしてこんなところに連れて来られたのか、どうしてホウキなんて呼ばれるのか・・・。」
「困惑されておいでなのですね、それも尤もなことでございましょう。落ち着かれませ、わたくし達ニョセンも、朱狼も、ご理解いただけるよう尽くします。各国におられるタイカにも早速連絡を差し上げてございます。此の度のご帰還に関わられたエンタイホやタイタイホなどは、すぐにでもいらっしゃると返事をいただいてございます。数日もすれば、お慣れあそばすと思い・・・、」
「数日!?」
どれほど混乱しようとも落ち着いて話そうと努めていた名前が、初めて声を荒げた。
何ということだ、この人達、勝手に私の予定を決めて!
「困ります、数日?休暇が終わってしまいます、今日中には、せめて明日には帰りたい。」
本音を言えばすぐにでも退散したかったが、手厚くもてなされている様子に言い出すことは憚られた。
けれど、数日は無理だ。
説明もなく連れて来て、なんて常識のない人達だろう。
よからぬ集団でなければいいが、自分にとってこの場は完全にアウェーなので強気の行動に移れない。
宗教勧誘の類?誘拐?ああ、落ち着いて頭が動き出すと、逆に段々分らなくなってくる。困っているのはこちらなのに、相手はもっと困ったように膝を床に着いた。
「ホウキ、落ち着かれませ、どうか。」
「ここはどこなんですか、あなたは誰なんですか、帰してください、家に、元いた場所に。」
喚き散らすわけではないが、朱狼が手を止めて名前の手をぎゅっと握ってしまう程度には喧しかった。
「ここはホウザン、ホウログウにございます。わたくしはホウキの傍仕えを仰せつかりました、ニョセン。」
「ニョセン様?」
「ニョセンとは女のセンのことにございます。」
「セン?」
「この山に住まう仙人、ヘキカゲンクンに従いホウザンコウにお仕えするのです。それゆえ、女の仙と書いて、
「女仙、チョウユウ・・・。」
仙人、という単語に、あっけにとられてしまう。
何を言っているのだろう、そんな、おとぎ話のようなことをこの人は。
「鳥獣の鳥と、方角の酉で、
「鳥酉。」
変わった名前だと思う。
そんな思いが顔に出たのか、
「リボクからもぐ時に鳥が枝に止まったそうなんです。だから縁起がいいと。」
と先んじて応えてくれる。
リボクが何かは分からなかったが、鳥に関連する由縁があるらしい。
「さ、こちらにお召変えを。」
「え?」
鳥酉は傍の机に置いてあった布の塊・・・、どうやら衣服であるらしいそれを手に名前を向いた。
「お食事の準備も整っております。」
「あの、服って、どうして。」
着換えろと言われることに、正直驚いた。
その必要があるのだろうか。特別汚れているわけでもなく、強いて言うならこの気温には少し厚着すぎるという程度か。
それとも正装をして何かに参列しなくてはならないのか。
「テンペンを覚えられましたら、その衣服ではご不便でしょう。」
ああ、この人達は、私に分かりもしない単語を並べてからかっているのだろうか。
人並に語彙力はあるつもりだが、何を言われているのかさっぱり分からない。
テンペン?覚える?衣服が不便?何がどうなって、一体何の話なんだ。
「着替えなくちゃいけませんか?」
「ぜひそうなさいませ。」
「ホウキ。」
足を拭い終えた朱狼が名前の腕をぽんと撫でる。
当たり前のようにそうすべきだと言われているようで、名前は溜息とともに頷いた。
「分かりました。」
「よろしければ、お手伝い致しますが。」
「・・・お願いします。」
手渡された衣服を手に、これはどうやら着慣れたものではない、と判断すると、布を広げながら素直に頷いた。
だが、驚いたのは名前ではなく鳥酉のようだった。
「よろしいのですか?」
「え、どうして?」
「その、こちらのお育ちではありませんし、年頃もタイキの頃とは・・・つまり・・・、ご成長されたキであらせられるホウキのお召替えを、その、わたくしが、しても・・・お嫌では。」
「はあ」
鳥酉は困ったように視線を外し、もぞもぞと身じろいだ。恥じらっているようだ。
何を言われているのか、名前にはやはりよく飲み込めない。
手伝ってもらえないならもらえないで、とりあえず着方を教えてもらわなくてはならない。
名前はマフラーを首から外して卓上に乗せ、ダウンジャケットを脱ぎ椅子にかけた。名前の肩は軽くなり、もこもこと厚みのあるそれは重みで椅子から落ちる。
鳥酉が拾って卓上に乗せた。
その瞬間に、鳥酉は唖然として固まった。
「え、え。」
それ以上は声にも出なかった。
重苦しいダウンジャケットとその下の黒のタートルネックの間に隠された、女性特有の柔らかい曲線。
鳥酉はらしくもなく不躾なまでにそれらをじろじろと眺めると、大きく見開いた目をパチパチと数度瞬かせた。
「ホウキ?」
す、と伸ばした手を、名前の頬に添える。肩を撫でる。
さすがにこれには名前が思いきり顔をしかめると、鳥酉ははっとしてその手をひっこめた。
「も、申し訳ありません、ご無礼を。その、ホウキが、まるで、女人のような、いえ。」
「女性のような?」
不愉快と呆れを一緒くたにしたような声で、名前は問い返した。
「いいえ、無礼じゃないです、こう見えても、私、女性ですから。」
鳥酉の目はいよいよ大きく見開かれた。
「何という・・・・・・。」
ようやく、鳥酉が沈黙を破り、長い静寂が割れた。
「何ということでしょう、女性の身体でお育ちになったのですか?ああ、天は何を考えておいでか、それとも偶然がなしえたことなのでしょうか。ただでさえホウライにお生まれになって、突然これではあまりに酷なこと。ホウキ、よろしいですか、キ、とは、雄のキリンのことにございます。この世界で最高位の霊獣、
そこまで言われて、ようやく今まで分からなかった麒麟という単語の意味を把握する。
動物園にいるジラフのキリンではなく、中国の物語に出てくるような幻の獣のことであったのだ。
だがそう言われても、自分との結びつきは分からない。
麒麟とはたしか、君子の出現と共にある霊獣で、めでたい生き物だ。自分の話題を出すのに、なぜ麒麟を持ちださなくてはならないのか。
「ホウキはホウの国の王をお選びする麒麟。牡ゆえに、麒、ホウ麒。」
「王を選ぶ麒麟?」
そんな物語は聞いたことがない。うっかりすると話の腰骨を折りそうになりながらも問い返す。鳥酉は真剣な眼差しで頷き返す。
「よくお聞きくださいませ、ホウ麒にまつわる、大事な話にございます。この世界はホウ麒のお育ちになった世界とは異なる世界。天がお造りになった十二の国があり、十二の王がいる、十二の麒麟がいて各国の王を選ぶ、これを選定という。」
聞き返したいことが山ほどあったのに、それが不可能だった。何を聞けばいいのか、言葉に詰まった。
異世界?何を言っているのだ、この人は。
「麒麟は人ではありません。神が人間に賜った霊獣。王にのみお仕えし、王以外に屈することなく、本来ならこのホウザンにお生まれになる仁の獣。あなたのことです、ホウ麒、あなたの・・・・・・、あなたの。」
そこまで言って、鳥酉は一度、黙りこくった。
呼吸にも似た空気で、名前を見つめている。
ホウキ、ホウの麒麟、雄だからキ、麒、ホウ麒。
「私、獣じゃありません。人間です、そして女です。」
この身体を見よ、とばかり、腕を広げる。
確かに彼女の全身を形作るのは女性の柔らかさであった。鳥酉は頷きそうになりながら、強制的に話を続けてゆく。
「麒麟は人と獣、両方の姿を持つのです、額に一角を持つ霊獣の姿、その姿の変化を、テンペンと申します、テンペンは、天が与えた変化の力。二つの姿を持つのは、その力が尋常ならざるがゆえのこと。」
「帰ります。」
帰ればいい。そうすれば、この姿が何だ性別がどうだと文句を言われることもない。
鳥酉はゆっくりと首を横に振った。
申し訳ないような、悲しいような、不思議と優しく、しかし拒絶したくなるような。
「あなたのいるべき世界はここなのです、ホウ麒。時折、こちらで生まれるはずであるランカが、あちらに流されてしまうことがあります。」
ランカが何かは分からなかったが、あちら、が日本を示していることは容易に理解できた。
つまりランカとはおそらく、命や赤子と同じ意味だろう。
「蝕が起こり、本来交わらぬべきのあちらとこちらが繋がってしまうことで。そして、流されたランカは、あちらの母親の腹に宿り、身籠る、そうして生まれるのが、タイカ。あちらの姿を持った、こちらの命。」
そんなことがどうして言えるのか、名前には分からなかった。
人違いかもしれないじゃないか。ここが異世界だというそれも未だに納得のいった話ではなかったが、これだけの異常な事態に名前を当てはめようとする鳥酉の思考回路はもっと納得できなかった。
しかも真剣に、神妙な顔つきで、切々と語りかけるのだ、あなたは人ではなく麒麟だ、この世界で生まれ、この世界で生きるべき尊いお方だ、と。そんなもの、信じろという方がおかしい。
いっそ不愉快も通り越して滑稽でたまらない。何に巻き込まれたというのだ、私は。
「わたくしもこのような事態は聞いたことがありません。本来なら、こちらの性とあちらの性は一致するはずなのですが。麟と見紛うばかりに愛くるしいというのも、道理、今のお姿は麟そのもの
ホウライで長く過ごされた御身ゆえ、麒としての本性に、あちらでの本性が混ざってしまわれたのやも。」
鳥酉も困惑を隠しきれないようで、助けを求めるように朱狼に視線を送ったが、方や朱狼といえば、驚いたのは最初だけだったようで、あとは何を気にするものかという落ち着きようで名前の傍に寄り添っていた。
「朱狼。」
「わたくしにとってホウ麒はホウ麒。その姿が何であろうがかまわない。」
「ホウ麒にはお役目がある。この世界の、ホウの王を選ぶこと、その王にお仕えすること。」
嫌だとか、いいとか、そんな問題を全て取り払った宣言だった。
急に、見知らぬ舞台と台本を手渡されたような気分だった。しかもそれは、何一つ分からない暗号で書かれている。
名前が一向に話についてこられないのを見て、鳥酉は空気を払うように衣に手をかけた。
いよいよというように意気込んで広げる。黙ったまま、名前は身動ぎ一つしなかった。
「とにかく、このことはヘキカゲンクンにお伝えしなくては。ご判断を仰ぎましょう。きっと何かしらよきようにしていただけるでしょうから。」
むしろ、そうであるといい、そうであってくれと、まるで祈るように鳥酉は言い聞かせた。
「まあ、なんと・・・これは異例なこと続き。」
着替えた名前と鳥酉が全ての説明を終えた時、
しみじみと名前の方を見て、痛ましそうに眉を寄せる。
「ただでさえこのように不慣れな場所においでいただいたばかりだというのに、天は芳に何とお厳しいこと。蝕で果実を失い、長く長く待たされて、それが黒麒麟であることに喜べば、
扇で額をおさえ、目を伏せる。まつ毛はけぶるほど、長い毛先が上を向いている様が美しい。
「ほんに、頭の痛いこと・・・。」
「私は女です、それじゃいけないんですか。」
「麒であることは、否定できぬこと。生まれたその時に、麒であるか、麟であるか、女怪がそれを見定める。そなたはたしかに麒としてお生まれになった。」
性別に固執する生き方はしていないが、かといって女として生まれ、生きてきた自分の人生を否定されているかのようで、それはそれで不快だ。
名前は腕で身体を抱きしめて、自分で自分を許すように俯いた。
不快、と、同時に、申し訳ない。この人達は私が男であることを望んでいる。いつぞや、家族の言ったのと同じだ。
お前が男であったなら、どれほど嬉しかろうか--。
男でない私は、私ではないのだろうか、許されないのだろうか。
そんな名前の苦痛が伝わったのか、玄君はそっと優しく名前の腕に触れた。
「これもきっと、天のご意向、何か意味がおありのことでしょう。自分をお責めになることではありませぬ。
「転変、こちらの姿・・・・・・。」
「さすれば、麒麟としての本性も、自然と芽生えましょう。今は戸惑うばかりやもしれませぬが、そうすることが最善、近道かと。ともあれ、麒であると思いこんでいたものだから、衣服も小物も設えも、どれも揃えなおさねば。」
「帰っちゃ、だめなんですか。帰りたいです、どうして帰っちゃいけないのですか。だって、あなたたちの思ったような私ではないのでしょう。」
これにはその場にいた誰もが困ったようだった。どうやら、彼女らは名前を帰す気がないようだ。彼女らも困ったかもしれないが、名前も困り果てていた。
一日や二日ならいい。帰った時の言い訳も何とかなろう。だがそれ以上は困る。休暇中で連絡が取れなくなった、ということでは済まされない。
友人や家族が捜索願を出すまでどのくらいだろうか。いや、捜索願を出さずとも、連絡が途絶え音信不通になり家にも帰らないとなれば、いかにふらっと旅に出る気質の名前とはいえ心配させるのは確実だ。
連絡を入れなくてはならないのは家族や友人だけではない。すぐにでも帰りたい。しかしこの様子では、すぐどころか当分名前を家に帰すつもりはなさそうだった。それは鳥酉の言った「ここがあなたの世界です。」という言葉にもありありと表れている。
誘拐されたという線はどうやら消えたが、何度説明されても自分が異世界の獣、それも神に属する霊獣だなんてこと、どうやって信じればいいのだろう。
この世界に必要とされているから、本来いるべき場所だから、使命があるから。
そう言われても、何一つ納得できなかった。
あちらの世界に未練がある、という言葉すら浮かばなかった。
未練どころか、名前の中で名前の属する世界は、あちら以外にないのだから。
「勝手に決めないでください。」
「峯麒、どうか、落ち着かれませ。」
幾人かの女仙がおろおろと駆け寄ってくる。
もう何度も聞いた言葉を再び聞いて、喉の奥が怒りに震えた。
「私のこと、本当は獣で、男で、この世界に生まれるべきだったとか決めないでください。私は人間で、女で、日本で育ちました、それ以上の真実がどこにあるんです。」
「突然のことで戸惑いになられるのは詮ないこと。されどこれは、お生まれになられた時よりのさだめ。峯麒もきっと、王を定められましたなら痛感されるでしょう。」
「私は峯麒じゃない!あちらに、生活があるんです、ここにいつまでもいたら、それが壊れてしまうんです。どちらをとるかなんて、何であなた達に勝手に決められなくちゃいけないんですか。あなた達は非常識だし、無責任です、勝手すぎます。」
「峯麒の言い分は、尤もなこと。」
ただ一人、壁霞玄君は落ち着いたまま、名前に言い聞かせるように、そして決して否やを言わせぬ声色で、口を開いた。
「さりとて、如何にして帰られる?」
「帰さないって言うんですか!勝手に連れて来ておいて!」
「痛ましいこととは思えど、我らとて使命がある。峯麒を帰すわけにはいかぬ。」
子どもの頃なら立ち上がって癇癪を起こし、地団太を踏んでいただろう。そうできるほど幼くはない名前は、唖然とし、頭の中を真っ白に消し潰しながら、そうできたらどれほどすっきりしただろうか、と思い描いた。
玄君に向かって喚き散らして、朱狼が止めるのも聞かず、その心地いい体毛を搔き毟ってやるのだ。
すとん、と絶望が胸に満ちる。名前は深い溜息と共に答えを吐き出した。
「私には・・・・・・、どうすることもできない。」
ここがどこだか分からない、どうやって世界の挟間を越えるのかも分からない、帰る術を試行錯誤するほど、こちらの知識に厚くない。
「ここにいるしか、ないんですね。」
「ほんに、峯麒は御聡明であられる。」
玄君の答えが、皮肉に聞こえた。
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