一章
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その日の茶会には静丘も翡翠もいなかった。昇山者たちの間でもめごとがあり、諌めにいったということだった。
月渓は表情を曇らせる名前を慰めるように、「たいしたことではない」と話をすすめる。静丘のようにはうまく淹れられないと出されたた茶は月渓が自ら用意したものだと言うから気もそちらに向いた。
やがて刻限がくる。
日頃であれば静丘か翡翠が付き添うが今日は二人が不在。誰か呼ぶので待つようにという月渓の言葉に不要だと答えて、席を立つ。
小声で朱狼を呼べば、耳の奥で是の声が聞こえる。
大丈夫ですと明るく答えてやれば、月渓はどこかで見たような溜息を吐いた。
「台輔」
女仙たちのする困惑と心配の溜息と同じ、厭うてしているのではなく、愛着からくる困却と憂い。
「どうかいま少しばかり御身を大事にされよ」
「でも」
「護衛をつけることを迷惑かと思われているのなら心配には及びません。それが役目の者もいるのです。何よりこう申し上げるのは気がひけますが、昇山者というものは何も台輔にとって安全な者ばかりではございませぬ」
え、と小さく口が開いて固まる。
知らぬか、といった顔で月渓は続ける。
言っていいものかという躊躇も見えたが、真摯に目をくべる。
「ものを知らぬ者の中には、麒麟が己を認めれば王になれると思い込んでいる者もいるのです」
「間違いではないのでは」
「台輔の思われていることではなく。麒麟を手籠めにし 無理に額ずかせる、早い話が力づくでも麒麟を己がものにしてしまうことこそ王の証と」
「力づく」
ひゅ、と息を呑み心臓が跳ねた。
一気に恐怖が駆け抜ける。
狩られる獣であると言われたような気がして嫌悪感が身を包む。自然と腕で己を抱いていた。
「ですので少々お待ちを」
天幕を去る月渓に頷いて、再度座る。
力づくで物事を動かそうなどというそれが王として相応しいと本当に思うのだろうか。
「きっと分からないのだろうね。私もそうかもしれない」
結局のところ月渓のもとへ足しげく通う理由もいまひとつ理解しきれないし、蓬莱へ帰りたいのか、こちらで麒麟として生きたいのかも益々判断付き難くなっている。
誰かに求められる、神の獣と崇められるという事実は案外甘く苦い。役目を押し付けられるようで嫌だと思いはするものの、特別扱いに酔ってしまいそうな自分も知っている。
誰ぞの敷いたレールの上を走るのは嫌だと言いながら、答えを与える導き手がなければ一歩も動けない若者の癇性に似ている。
誰かに必要とされている自分、愛されている実感、それらは蓬莱ではなかなか感じ得られなかったこと。
だから自分は麒麟にはなれない。
心の底でそう思う。神の獣だなんてとんでもない、己の浅ましさを知っている。帰りたいという思いだけではない、帰らなくてはならない、己が仁の獣などを名乗ってはいけない。実質麒麟として何の努力もしていないのに、その覚悟もないのに民の愛情に酔い痴れるなど言語道断だ。己のような醜い人間が王を選べばその国は滅ぶだろう。
芳という国を、少なくともこうして昇山してきた者たちを憎からず想うからこそ、彼らには幸せになってほしいと思う。月渓の天幕と宮との行き来で顔見知りになった者もいないわけではない。女仙姿の名前を見て、麒麟の様子を聞いてくる者もいれば賜り物への感謝を伝えてくれと頭を下げる者もいる。その希望を向けられる優越感と、歯痒さと、焦燥と、心にかかる重しに耐える自信はない。
月渓でいいではないか、王は、彼でいい、十分だ、むしろそれ以上何を望める。これまで王としてやってきた彼を誰が否定できる。責任という言葉の意味を知らぬほど子供ではない。
「だめだ、私では」
その時、室内の止まった空気が僅かに揺らいで外の音が入り込んだ。ふっと振り返れば、腰に剣を佩いた見知らぬ男がそこに立っていた。
いや見知らぬではない。
蓬山で名前にこんな目を向ける人間は見たことがない。
平静にしているのにどこか厳しい表情、素人目にも隙のない所作、常に鞘から離れることのない無骨な掌。
あの日、あの時、最初の昇山者たちを迎えた門で目にとまった、月渓の護衛のひとりに違いなかった。ただ一人浮かれることなく月渓のそばにぴたりと張り付いて警戒し続けていた男。
もっとも、あの時はもっと軽薄に笑っていたようにも思う。
「あなたは」
「初にお目にかかる。連日いらしているようだが」
低く落ち着いた声色は何かを咎めている様子もないのだが、何故か急速に緊張してしまう。相手は気づいていなかったのに、こちらはその存在に気づいてしまっていたからか。覗き見ていた後ろめたさ、小さな羞恥心。
彼の言うように初対面としてごく普通に振る舞えばいいのに、うまく言葉が出てこない。
恐らく彼が名前を宮まで送り届けてくれるのだろう。よろしくと一言言えばいいのだ。
「月渓様の護衛をされているのをお見かけしました」
ようやく出たのはそんな言葉だった。
へえ、と彼の口端が上がる。齢は三十に届こうかという頃だろうか。老いとは無縁、若さともどこか違う。
言葉数を重ねる気はないようだ。印象として静丘とはまるで逆。
鍛えられた裏付けの滲む精悍で整った顔立ちはしているが、その反面苦労も想像される深い皺が目元にあった。
月渓はどこに行ったのだろうか。
この男を遣わしたのはいいとして、戻ってこないのでは困ってしまう。それとも何か用事でもできたのだろうか。
「いかがなされた」
「あ、いえ、その、月渓様はどちらに」
「気になるか」
質問に質問を返されて困惑する。
先ほどからこの男の態度はどこか意地が悪い。機嫌が悪いのかもともとの性格なのか。
「何用で月渓侯にお会いになる?かの人も忙しい。女仙一人にかまけていられる余裕もなかろうよ」
「それは」
言い返せない。
やはり月渓のような要の人物の時間を奪い続けることは許されないのだろうか。異様なのだろうか。それとも自分はこの男に何か悪いことをしただろうか。
しかし男の眼は単純に名前の非常識を責めているというよりもっと別の質の敵意を含んでいるように見えた。
たかが女ひとりに、どこか必死なものを感じる。
「お邪魔をしているつもりはなかったのですが、月渓侯の御好意に甘えておりました」
「門まで送るように言われたが」
ようやく男の口から目的が出て、ほっと安堵する。
居たたまれないような感覚が、僅かでも取り払われる。
「お願いします」
疑うようなまなざしで名前を眺めた後、男は先に立って歩いた。
その背を追って、居心地の悪さを振り払う。
帰りの道中はいつもと違うものになった。
静丘や翡翠であれば気を遣ってか話が絶えない。その日の茶会で話題になったことや、芳の様子、王宮のこと、この世界のことを、
大なり小なり明るく話してくれる。こちらの痛いところを突くことはないから、やはりどこかで察しているのだろう。月渓が何かほのめかしたのかもしれない。
男は無言だった。剣鞘に手を置いたままさくさくと一定の速さで歩く。それは追えないほどの俊足というわけではないが、女の足からすると多少無理をすることになる。走るほどではなくとも歩くという形とも遠い。自然とこちらも口を閉ざし、離されまいとただ黙って追う。これが護衛と言えるのかは正直疑問だ。
門に着いた頃には息が上がっており、迎えに出てきた女仙たちも目をむいた。
名前を引き渡すと特別言葉をかけることもなく挨拶もなく去ってゆく男を呆気にとられて見送る。
ようやく思いついたのか「なんと無礼な」とだけ呟いて、その頃には姿も形も見えなかった。
男の名は
本人ではなく月渓の口から聞いた。官吏や武官ではなく雇った護衛だという。
「あれが何かいたしましたか」
「いえ、何も」
何もだ、名乗ることも、礼を欠くことも、尽くすこともなく、月渓からの預かりものという扱いで仕事を全うし、送り届けた。
知らないからかもしれないが、麒麟である自分にあれほど無関心でぶっきら棒な人間は初めて見た。
元来人間とはそのようなものなのか、他人に興味無いのが普通ということなのか、それとも彼の性格がそうであるのか。
あるいはどちらも、なのかもしれないなと思う。
麒麟であることを知らなくとも、静丘や翡翠は親切に接してきたものだが。
「変わった方だと思って。蓬山にいらっしゃる間は何をされてるんですか」
静丘は今後の芳について官吏たちと何事か相談しているらしいし、翡翠は時折黄海に降りては辺りを検分しそれを月渓やほかの武官に報告している。
どちらももうあと幾らもない下山に向けた準備を整えることに忙しい。
「特に何か命じているわけではありません。何かあればすぐに駆けつけることができるようにとは言ってありますが」
「今回の昇山は、従者にしても昇山のつもりのひとが多いと聞きました」
「ああ」
実際、そうであった。
通例なら一つの団体のうち昇山者は一人か二人。数百人から数千の人間が昇ってきたとて、実際に麒麟に目通りを願うのはその何十分の一かにとどまるところを、今度の昇山ではおそらく大半の人間が廟を訪れて口上を述べた。
おかげで下山も近いとあるのに順番待ちの列は絶えていない。本来ならこんなところで茶など酌み交わしている場合ではないのだが、それだけの数を相手にするよりはいっそと思ってのことだろう、女仙たちもいまでは文句ひとつ言わず送り出してくれる。
王気があれば、向こうから来ずとも麒麟の方から行くだろうということか。
しかし昇山者たちがやきもきしているのは事実だ。
今日の目通りはここまでと解散を命じるたび、麒麟は何をしているんだと囁く声がないわけではない。
あちこちで小さな喧騒が起きているのも知っているし、諍いがさほど大きくならないのはここが蓬山で、彼らが王気を問いにきているからにほかならず、彼らが鬱憤を晴らす先もなくそれぞれに胸に抱えたものがあることは明白だった。
王が決まれば安らぐのだろうか。
「王が必要ですか、それほどまでに」
「必要です」
月渓はきっぱりと即答した。
「すべての王が、善き王になるとは限らないと聞きました。芳の前の王は月渓侯が誅したとも聞きました」
「それは」
ひどいことを聞いている自覚はあった。
前の王は苛烈な法で民を苦しめた、そのため月渓が起って余州の州師とともに王を弑逆したのだと。
王が必要かと問う、必要だと答える、それでも王を殺したのだ、次の王が前の王よりももっと愚物である可能性だってないわけではない。
善き王を願っているのだろうとは分かる、次の可能性にそれを託しているのだと。
王を選ばなくては麒麟は死ぬという。寿命は通常三十前後、選べずに死んだ者もおらぬではないと。
死ねばそれからまた卵果、つまりこちらの生き物は木に果実として生る、麒麟の場合は蓬山捨身木に、それが生って、育って、
王を選べるようになるまで約五年。
いままで何とかやってきた、仮王朝は優秀だと言いつつも、その限界が訪れようとしているのを知っている。
おそらく今回の昇山で月渓を守って昇ってきた官吏たちの大半の思いはそれだろう。
民は存外、いままのままでも構わねえんだけど、と笑う。
ただ毎年収穫が減ること、里や町に妖魔が出るのは困るし、月渓には先王殺しの罪がある、前の麒麟が月渓を選ばなかった事実がある。
万が一月渓が王でないのなら、可能性があるものならと山を昇った。
武官がついてくれるという話も彼らの重い腰を上げさせた。
それだけの思いがこの昇山にはある、待ち望んだ年月と、あとのない崖淵が迫っている。
なぜ月渓ではならないのか、なぜ王を選ばなくてはならないのか、選んだ後に何があるのか、
そも、王とは何か。
「恐れながら、台輔。私は私が王ではないと知った時、絶望とともに安堵した」
安堵?
王を誅し、仮王として国を治める者が、王ではないと言われて安堵するなど、想像もつかなかった。
月渓は自嘲気味に笑って、首を垂れる。
懺悔しているのとは少し違う、後悔とも違う。迷いのようなもの、迷った過去への回顧に似た感傷がそこにある。
「王ではないことへの安堵というよりは、そうだな、私は王になる覚悟がいまひとつ決まっていなかったように思う。国を背負う覚悟と、麒麟に選ばれる覚悟が別物なのだと、ここへきて初めて知った」
「あなたは仮王です、国を背負っています。それが本来の王と異なるのですか」
「違う」
どこが違うのか、名前には分からなかった。
実際月渓を王に望む者がいるというのは、いまの仮朝が、ひいては仮王である月渓が認められている証だし、民や臣下が真の王であったかつての王よりも月渓を王として迎えていることにほかならない。
月渓以上の王を選べと言われているようで、名前には戸惑いばかりが生まれる。
愚王であった王、能吏である仮王。天はなぜはじめから月渓を王に据えなかったのだろう。
「私は王に選ばれたかった、麒麟に王だと言われたかった。選ばれたところで苦悩することも、安堵することも、選ばれなかったことで苦悩することも、安堵することも、どこかで分かっていてここまで来た。来ざるを得なかった」
「あなたはそもそも昇山したくなかったと」
言葉が詰まった。
「言いたくないのなら」
言わなくていい、という麒麟を前に、何を言っても言い訳になりそうな自分を月渓は自覚していた。
悔みは消えない。先王を踏みにじりたかったわけではない。己こそが正義だと言いたかったわけでもない。
麒麟に背を押される形で己を肯定せずに済んでよかったという思いがある。許されたようなつもりに、ならずに済んだ。反面やはり己は罪人かという痛みがある。
どちらもそれほど意味はなく己次第だと知っているからこそ 苦しい。
あなたは王ではないと言われた時、けれどもあなたを選びたかったのだと言われた時、泣きそうになったのを誰が知っているだろうか。月渓にとって最たる救いであったのだと。
「台輔がお選びになるまで、お預かりいたします。何年でもと確約はできませんが、我が力及ぶ限り、芳を、王の御留守をお守りいたしております」
拱手を掲げ沈むように深く、頭を垂れる。たとえ眼前の麒麟がその意を汲めずとも。
「月渓侯」
「台輔、王は必要です、国に王は必要なのです。どうかお選びください、芳に新たな王を」
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