一章
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空は暗く、海は黒く、宙は白くーー
吐息は白く、マフラーを巻いてもすかすかと寒々しい。
深夜、己以外に誰もいない駅のプラットフォーム。
ただの外出にしては大きな荷物を傍らに、かたかたと小刻みに震える膝小僧が今か今かと待ちほうけている。
予定ではあと十分しないうちに目的の電車が来るはずだ。
革の手袋をしたまま擦り合わせても意味はないが、それでも身動ぎを交えてそうせずにはいられないほどの寒気だった。
ここ数年で最たる寒波だという。
名前には特別つらく感じた。
はっきりとした大人の自覚があるわけでも、些細な感傷で誰かに泣きつけるほど子どもでもない。
何もかも平気だとことさらに強がるのも、弱気に浸る気にもなれなかった。
そうして孤独を覚えると、不意に旅に出る。どこかに、何かを求めて。
何泊もするような長旅ではなく、日常から離れ、そして戻ってくる程度の単なる長距離移動。
結局のところ何を求めているのかは未だ分からず、見つからない。あえて言えば現実逃避だ、と思う。
今回の小旅行も、きっかけはいつも通り、そうした違和感に似た孤独からだった。
友はいる。知人もいれば慕ってくれる者も、組織の関りもある。だがその内に在れない。空気に馴染めない。色が混ざらない。溶け込めない。
その結果があまりにも重い。
おおよそ人間関係というものは、それまで育ってきた環境や常識、文化、性格や嗜好の差が相性の良し悪しにもなる。
よほど幼い者同士や事情があるのでもない限り、合わなければ合わないというだけの問題で、差し障りのない関係、それなりの距離感に落ち着くものだ。
直情的な嫌悪を、具体的な害悪にまで至らせる者は少ない。
その多くはないはずの状況に名前は頻繁に遭遇する。
お前は悪くないよ、と慰める者もいないではないが、必ずしも助け舟をくれるわけではないし、そのような庇護者がいればいるほど冷遇も苛烈さを増す。
何か悪いことをしたのだろうかと心苦しく思っても、いつの間にかその表裏の温度差があたりまえのようになっていった。
愚かしい発想だと知りつつも、ここまでくると自分は己そのものが災いなのではないかとすら思えてくる。
人と関わればまるで宿命のようにどこかで必ず異質さが浮かび上がり、それは感染症のように人々を伝播して、ついには集団の憎悪と化す。
彼らの事情を聞けば特別にこれという確かな理由があるわけではなく、「どこか気に食わないから」という根拠で、にもかかわらず自身に責任はないというのが主張であった。
そういう心地にさせるあいつが悪いのだ、たとえ悪いことだとしても己は悪くない、そのように感じたのは自分だけではないのだからと。
そうして得体のしれない悪意にさらされ、強烈に疎まれ、蔑まれることを名前は肌身に覚えていた。
私はひとりだという確信を得ると、ふらりと異邦を求める。
どこへ行くという当てはない。
少し北へ行って、連休のうちに帰って来れたらそれでいい。こんな寒い時期に北を目指すなんて酔狂もいいところだけれど。
やがて、視野の端が光った。
その光は薄暗いホームを穏やかに包んでゆく。電車がきたのか、と思うのにつられて立ち上がる。
おかしい、と思ったのは、次の瞬間だ。
『ホウキ』
静寂の中に、女の声が響いた。水の奥からの響きに似ていた。
光は確実に近づいているのに、音がしない。
ガタガタというリズムも、車輪の軋みもなく光だけが線路の上をこちらに向かって押し寄せてくる。
光の波とはこういうものか。厚みのある光がホームの端をとらえた。
『ホウキ』
怖い、とは思わなかったが、異常であることは理解していた。
おかしな表現にはなるが、電車の到着から車両をすっぽり抜きとったらこうなるだろうか。光源が見当たらない。
『ホウキ、ホウキ、ホウキ、ホウキ』
繰り返す女の声は光の波に乗っているようだった。
儚げに優しいそれが迫ってくる。異常であることを除けば、寒さを忘れるほど心地よく安堵感を誘うまどろみの様な光と声をしていた。
自分がもう少しだけ臆病であったなら、押し寄せる波に身を任せきったかもしれない。
名前はくるりと踵を返し、足もとの荷を蹴飛ばしながら駈け出した。
「ホウキ、待って、お願い。」
視線だけ、振り返る。
光の中からヌゥッと腕が突き出ていた。
はじめてうろたえた。悲鳴をあげそうになった。足もとが狂う。
腕は赤黒く、女性の声だと認識していた名前の想像をはるかに超えて太かった。
「いやあっ!」
赤黒い腕が名前の肩を掴んだ。恐怖のあまり息が止まった。速度を上げたいのに、足はもつれて転びそうになる。血の色に似たその腕が名前を抱きとめて、そのまま腕と腰を支える。
強い力で抱きかかえられ、母音の強い悲鳴をあげて暴れるが、腕はびくともせず、しかしゆっくりと力を抜いた。
名前が逃げ出さない程度に、必要なだけの力加減。
「ああ、ホウキ。」
耳元でしたのは、震える声だった。
先程まで寒さに凍えていた名前の震えとは全く別種の、正反対の震動。
感極まった嗚咽が、たまらず喉を震わせる。
逃すまいと後ろから抱き締める腕は、慈しむように名前の身体全体を包む。
それは名前の身体にまとわりついた寒気の全てを取り払い、安穏とした衣を与えようとしているようだった。
名前は暴れる四肢を止める。
「ああ、ああ。」
その嘆息は、背後の襲撃者から出たものか、己の胸が吐き出したものか、名前には分からなかった。
ただ言えるのは、その瞬間名前はようやく孤独から脱したということだけだった。
女は名前を腕に抱きしめたままそっと抱え上げた。それではじめて名前は女の姿をまともに直視した。
あっ、と驚いた。
赤黒いと思ったその色は肌ではなく、太いと思ったそれは体毛で、それも人間のものとは思えない質をしていた。
それははじめに抱きしめられた時から感じていた違和感ではあったが、滑らかで艶やかでそれでいて空気を多く含んだそれは頬を擦りよせると心地よかった。
服は着ていない。全身をふさふさとした獣毛が覆っていた。
顔や骨格は人間の女そのものだが、肩から下、腰のあたりまで鮮血を染みこませたような色の獣毛で、腰から下は漆黒、さらによく見れば尻にはイヌ科を思わせる尾、人の耳も持つのに頭のてっぺんには犬耳が揺れ、首から頬にかけて爬虫類のような硬い鱗が覆っていた。
驚いて、観察して、そこまで混ざっていれば唖然とするしかなかった。
女が優しく微笑んでいてくれなければ、こうも落ち着いてはいられなかっただろう。こんな毛並みのせいか、ウルフカットがよく似合っている。
気がつけば、光はプラットフォーム全体を包み込んでいて、眩しすぎて逆に何も見えないほどだ。
女は名前を片腕に抱えたまま何かにまっすぐに手を伸ばした。
それは光源だと分かったが、目がくらんで咄嗟に瞼を閉じた。
なんとかして自我を保とうと隙間を埋めるように自分を抱きしめる。
名前はそのまま光に飲み込まれていった。
あとにはすかすかした風の通るプラットフォームだけが残された。
ようやく眩さから解放された時、己を囲んでいるのは人の気配、それも一つや二つではないことに気づいて、名前はうっすらと目を開けた。
それは自分を中心にぐるりと描かれた人の円だった。
全て女性、そして喜色を浮かべ、微笑んでいる。
服は着物に似ている。中国の歴史物語に出るような、前で合わせたすその長い服。
「まあ!美しい
「コッキ!タイに続いて。」
その中からするりと差し出された手に怯えて、赤黒い獣の姿をした女に飛びついた。
「これ!なんと不躾なこと!ホウキが怯えているではないか。」
「申し訳ございません。」
意味が分からなくて、どうしようもなくて。手を差し伸べ、そのことで叱られた女性。年は自分と同じか、少し下に見える少女がこちらを向き、深々と頭を下げた。
そうまで丁寧に接されるのは久しくないから、戸惑った。
「ホウキ、大変なご無礼を。どうかお許しください。」
「ごめんなさい、私、違うんです、慣れていなくて。」
人に触れられるのは昔から苦手としている。特に額に触れられるのは苦痛だ。
慣れていないとはいえ、彼女に敵意がないことを感じ取ると名前は自ら手を差し伸べた。
「慣れてないだけなんです、ごめんなさい。ここはどこですか?」
暖かいから室内かと思えば、そうではなかった。
見渡すように首を動かせば、岩山と緑と青空が視界を埋め尽くす。嘆息するほど美しく荒々しい自然。
もう眩しくはないけれど、眩暈がしそうだ。いったい何が起こったのか理解できない。
「荷物を置いてきてしまった。」
旅に出るつもりではあったけれど、こんなの予定外すぎる。
そもそも光に包まれて、次の瞬間大自然の中女性達に囲まれているなんて、突拍子がなさ過ぎて事態がまるで見えてこない。
敵意が感じられないのは本当にありがたいことだけれど、だからといって、本当に信用できるとは限らない。
「帰らないと。」
名前が急くように言うのと、少女が顔を上げて微笑むのとは、ほぼ同時だった。
「お帰りなさいませ、ホウキ。」
「え?」
空気が読めていないようににこにことした満面の笑みを、思わず凝視しながら問い返す。
周りの女性達が小さく唸った。
「何が何だか分らぬ、という顔をしておいでのようじゃの、のうレンタイホ。」
「ええ、タイキの時も、戸惑っておいででしたから。」
重厚感のある女声が響いた。続いて明瞭で軽やかな。
群れるばかりだった女達は、さっと割れて道を作る。
声に劣らず重厚感と威圧感、といっても気圧すような攻撃的な部類ではない威厳を備えた女と、聡明そうな優しい目をした長い金髪の若い女が、女たちの間を悠々と佇んでいた。
「それに、ご帰還されるまでに要された時間の長さを思えば、致し方のないこと。如何にキリンとはいえ、世界の理を飲み込むのにはそれに比例して長き時間を要されるでしょう。タイタイホの時は、ご幼少の頃に一度ご帰還されていましたから。」
「ほんに、そればかりは心配で。ホウキ、なんとまあ、愛らしいキにお育ちになられたこと。リンと見紛うばかりに、それに凛々しい。」
「キ?リン?」
名前の反応に女は微笑ましくも苦笑する。受け取るように耳元に囁いたのは、獣の女だった。
「ホウキ、この方はヘキカゲンクンギョクヨウ様です。ゲンクン様、とお呼びください。お隣におられるのはレンリン様です。レンコクのサイホであらせられるので、レンタイホと。此の度のホウキの帰還にご助力いただいたのですよ。」
「ゲンクン様、レンタイホ?」
母が幼子に言って聞かせるような声色だった。それに素直に従って、知ったばかりの名と目の前の二人を重ねる。
金髪の女・・・レンタイホが微笑みながら近寄って、名前の手をとった。
スラリと体の線が美しい、背が高い女だった。見ず知らずの人であるのにすんなりと受け入れられて、まったく嫌ではなかった。仕草がどこまでも優しいせいだろうか。
「ご無事のお帰りを、心からお喜び申し上げます、ホウキ。お名前をおうかがいしてもよろしいですか?」
「名前です、名字、名前。」
状況を把握しきれず、つい片言になる。
それでも単語をつなげると、レンタイホは気を悪くした様子もなく微笑んでくれる。
「わたくしはレンリン、レンコクにて、シュジョウにお仕えしております。レンはとても南にある国なのですよ。」
「でしたら、きっと、暖かいのですね。」
先程まで寒気に凍えていた名前は、思わずそう感想を述べた。レンタイホは嬉しそうに頷く。
「ええ、とても。ホウは寒さの厳しい国と聞きます。ホウキが戻ったとなればきっと民の心も支えられましょう。国が落ち着かれましたら、ぜひレンにもおいでください。」
「はい。」
レン、南にある、暖かい国・・・。招かれるような言葉に、素直に頷いた。
いつかきっとレンにも行ってみよう。そうだ、次の旅は、やはり南にしようか。
「驚かれたでしょう、ホウキ、突然のことで。もっとお話していたいのですが、長々と立ち話をしているわけにもいきませんね。お召変えをして、少々休まれるとよいでしょう。あなたは今日よりこのホウザンを統べる主、ホウザンコウ。来たるセンテイに備えなければ。そのためにも一刻も早く慣れていただかねばならぬことがたくさんございますよ。」
「ホウザン、センテイ?」
青年ほどの見た目のわりに、レンタイホは随分と大人の物言いをしていた。
つい数時間前まで孤独に打ち震え、一人小旅行を決意した自分が恥ずかしいくらいに。
つい、言葉尻が上がって問い返しになってしまうのが申し訳なかった。けれど、言われた言葉の一行たりとも理解できていない。
「分からないことはニョセンやあなたのニョカイが教えてくれるでしょう。エンタイホやタイタイホもあなたの帰還に手を貸してくださったのですよ。わたくしではホウライの地理に疎くどうにもならなかったものですから。」
またも新出言語が並んでしまった。名前が顔をしかめると、獣の女がその肩を撫でた。
「ホウキ、ニョカイとはわたくしのこと、女の
そう言った女の顔が、少しだけ儚く陰ったのを見た。それは昔母がした表情と似ていた。
どうやら「ホウキ」と呼ばれているのは自分のことらしいとは認識したが、なぜ「ホウキ」なのかが分からない。
ホウキという音で、いろいろな意味の言葉を知ってはいるが、自分の呼称とは結びつかない。普通にホウキと言えば箒を思い出すけれど、呼称に使う言葉ではない。
放浪する人、という意味だろうか、それとも何かを放棄する人間だと言いたいのだろうか。
宝器?それとも蜂起?どれも違うと思うけど、私は語彙力に乏しいのだろうか。
「シュロウ。」
「シュロウ?」
女怪が微笑んだ。嘲笑うことは決してなかった。思いもよらぬことのようだった。ただ静かに首を横に振った。
「わたくしの名。朱色に狼、姓は
「ハク、シュ、ロウ、朱狼。」
呼ぶと、獣はさも嬉しそうに笑った。目じりが下がり、歓喜に体毛を膨らませて名前に抱きついた。
「おやおや、朱狼はたいそうな親馬鹿になりそうだこと。」
「ゲンクン様、女怪とは皆、そのようなものですよ、そうなるために生まれ出てくる生き物ですから。わたくし達キリンのためだけに。」
「ホウキ、朱狼はそなたの母にも等しい存在。長く離れていた時を埋めるよう、多くを学び、多くの愛情をその身に受けるがよろしい。さあ、レンタイホのおっしゃる通りだ、ホウザンコウには休息が必要であろう。皆、道を開けよ、傍仕えの者は滞りのないよう先に行って準備万端整えるがよい。」
ゲンクンと朱狼が名前の両側から肩を抱くようにして歩き出すと、それに合わせて女達は機敏に動き出す。
ある者は頭を垂れて道を開け、ある者は先導し、ある者は祝いの言葉を述べ、目まぐるしく展開する状況に、名前は困惑したまま歩き始めた。
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