未変換の場合、寿(ことぶき)命(みこと)になります。
3.「カワラバンヤくん」
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高校生活が始まって早くも半月が過ぎた。最初こそ大変な時間を過ごしたけれど、今は落ち着いた日常を送っている。家も学校も変わったから慣れるまでもっとかかると思っていたのだけれど、杞憂だったようだ。
それもこれも、相澤先生のおかげである。
「おい、もう出るぞ」
朝、すでに支度を終えた相澤先生が玄関で待っている。私はその言葉に焦って食卓から飛び出るとリビングに用意してあったスクールバッグとブレザーを引っ掴んで玄関マットの上に滑り込んだ。
「先生、これ今日のお弁当です!」
ローファーに足を突っ込みながら差し出せば相澤先生は両手で受け取ってくれる。
「いつも悪いな」
相澤先生は私が作ったお弁当を毎日残さず食べてくれていた。帰って、空っぽの弁当箱を洗うことに幸福感を覚える。中学生の頃、お母さんが「全部食べたんだね」と嬉しそうに言っていた気持ちがわかった気がした。
「そういえば相澤先生って苦手な食べ物はないんですか?」
寮から学校までの道のりを相澤先生と並んで歩く。最初こそ口数が少なくてお互いに気まずい登校時間だったけれど、今では自然と話題が湧いて一日の楽しい時間のひとつになっていた。
「特にないな」
「じゃあ好きな食べ物は?」
「これといってない」
「そ、そうですか…」
実は、そろそろお弁当に入れる具材のネタがなくなってきて毎日クックペッドというレシピサイトを見て凌いでいるのだ。
「じゃあ何が食べたいですか?」
質問を変えると、相澤先生は小さく唸り始める。
裏門が見えてきた。寮は学校の裏側に位置していて、距離は歩いて5分もかからないほどだ。遅刻することはまずない。並木道も木の手入れがされてあるし、夜は等間隔に立っている外灯が優しいあかりで道を照らしてくれる。この道は学校と寮を繋ぐためのもので、他に使用用途はないから言わば私たち専用の道だった。
昇降口につき、ローファーと上履きを交換する。ちなみに相澤先生は教員専用の昇降口で靴を交換する。いつも私が校舎に入るまで見送ってくれるのだ。
「お昼はいつものテラスでいいですか?」
テラスとは食堂の外に設けられた食事スペースのことだ。食堂だけでは生徒全員が入りきらないため、外に屋根をつくり椅子とテーブルを置くことでより多くの人が食事できるようになっている。もちろん食事するために使うのも良いけれど、天気のいい日なんかは友達と談笑する場所にも使われていた。
「それなんだが、今日は準備室でいいか?小テストの採点を昼休憩中に終わらせときたいんだ」
「わかりました。授業が終わり次第向かいますね」
「ああ、頼む」
私が4限を受けているとき、相澤先生は授業がないからずっと準備室にいるのだろう。それにしても、お昼まで使わないと採点が終わらないとは。先生って大変な仕事だなぁ。
「壽」
ではまた、と教室に向かおうとしたところで呼び止められる。
振り返れば小脇にお弁当を抱えている相澤先生がこちらを見ていた。こう見ると相澤先生にお弁当って似合わないかも。かわいい猫柄のランチトートに入れているからだと思うけれど。
「さっき言ってた食べたいものなんだが」
そう言って、視線を手に持っているお弁当に落とした相澤先生。
もしかして、ずっと考えていてくれたのだろうか。もうその話は終わってしまったとばかり思っていた。相澤先生って律儀なところあるんだよね。
「何か思いつきましたか?」
旬の食材といえばアスパラだろうか。魚だとアジが美味しい季節だ。適当に旬を迎える食材を思い浮かべていると、相澤先生は「うん」と頷いて再び私に視線を戻した。昇降口には段差があるから、いつもより目線が近い気がする。
「壽が作る料理なら何でもいい」
「………………はあ」
驚きのあまり気の抜けた声が出てしまった。
「っていうのが一番困るんだろうがな」
「い、いえ、そんなことありませんよ」
「何か思い浮かんだらまた言う」
「よ、よろしくお願いします…」
じゃあな、とあいている方の手をあげて相澤先生は職員用の昇降口へ行ってしまった。
私はというと、しばらくその場に突っ立って先生が去っていった方向をずっと見ていた。登校してきた生徒が通りすがりに大丈夫かと声をかけてくれて、ようやく我に返って教室へ急ぐ。
そりゃ「なんでもいい」なんて言われても悩みが解決するわけじゃないから困るだけだけど、私が作る料理ならなんて言われちゃったら嬉しいが勝つに決まってるじゃん!
1限の授業がある教室にたどり着くと、ドアを開ける前に深呼吸をして踊りっぱなしの心を落ち着かせた。
気持ちを切り替えて教室に入り、席について教科書を鞄から取り出している時、前の席に男の子が座った。
「おはよう、壽さん」
「瓦版屋 くん」
背もたれに肘をおき、こちらにニコニコと笑いかけてくれるのは瓦版屋四郎 くんという。席が後ろ前ということもあり、何かと声をかけてくれる優しい人だ。
挨拶を返すと瓦版屋くんはニコリと笑ってくれる。人懐っこい笑顔を浮かべる彼は友人が多く、人見知りをしないタイプなのか例え初対面であっても、ものの数分で仲良くなってしまうという友達作りのプロだった。かくいう私も僅か3分で懐いてしまった。カップラーメンが一つできあがる間でのことだ。
「壽さん、なんか顔赤くない?大丈夫?」
「えっ!」
どうやら心は落ち着かせられても顔の赤みは取り除けなかったようだ。
「だ、大丈夫大丈夫!ちょっと走っちゃったからそのせいかな?」
ここに来るまで階段を駆け上ったのは嘘ではない。けれど、それが原因とは強く言えなかった。しかし、先ほどの相澤先生の話をできるでもなく。
瓦版屋くんは無理に誤魔化す私に変わらず笑いかけてくれた。
「そっか。風邪ひいてるのかなって思ったんだけど、それなら良かったよ」
「あ、ありがとう。心配してくれて」
「やだな、心配するのは当然だよ。友達なんだから」
「…!」
友達なんだから――なんて心打たれる言葉なんだ…!感動せずにはいられない。何せそんなこと初めて言われたのだから。
瓦版屋くんの言葉を噛みしめていると、彼は不思議そうに首をかしげた。
「友達って、素晴らしいですよね」
昼休み、空いている机を借りて自作の弁当を食べながらそう思っていると、つい口をついて出てしまった。
「……急にどうした」
隣の机で採点をしていた相澤先生が奇妙なものを見るような目で私を一瞥する。
「ひ、独り言です。気にしないでください」
まるで友達に飢えているように見えてしまっただろうか。実際そうなんだけれど。
顔が赤くなってきたのを俯いてごはんを食べることで誤魔化した。
「……」
相澤先生は暫く採点する手を止めて私を見ているようだった。
何を思っているんだ相澤先生。もしかして憐れんでいるのだろうか。今まで友達ができずに寂しい学生生活を送ってきて、この春ようやく一人友達ができた私を。ちなみに当初の目標である「自分から話しかけて友達を作る」は達成できていない。
コトリ、とペンを置く気配がした。
「壽」
「はいっ?」
視線だけあげると先生のヒゲが生えた口元が見える。その口は捻じれていた。
「無理に俺と昼飯を一緒にとらなくていいんだぞ。契約では常に行動を共にしろってあるが、お前も昼休憩くらい友達と喋りたいだろ」
「そんなことないです!!」
躊躇なく言うと相澤先生はビクリと肩を跳ねさせた。少し猫背が直っているように見える。
私はというと、つい食って掛かるような言い方をしてしまったことに冷や汗をかく事態に陥っていた。
「あ、いえ、友達と食べたくないというわけではないんですよ。私、友達好きですし、ほら……そう、たくさんの友達とお喋りするの楽しいですし!」
我ながら何を言っているんだとは思う。友達好きってなんだ。たくさんの友達なんていない。いるのは瓦版屋くんただ一人だ。
嘘をついているわけではないのだけれど、限りなく嘘に近いことを言っている気がしなくもない。だって、相澤先生の顔色がだんだん曇ってきている。
「と、とにかく!私は友達より相澤先生と一緒にお昼ごはんを食べたいんです!」
言ってしまって後悔した。
友達が一人しかいないということを知られたくないという安いプライドから出た言葉だった。もちろん、大胆なことを言ったという自覚はある。
「………」
「………」
沈黙が私の顔の熱を上げていく。
何か言ってほしいけれど、何も言ってほしくない。
「……そうか」
箸を握りしめたまま固まる私を無表情で眺めていた相澤先生はそれだけ言うと椅子を回転させて再び小テストの採点に戻った。
どっと疲労が押し寄せてきて密かに額の汗をぬぐう。幸いにも相澤先生は何とも思っていないようだ。その証拠に顔色ひとつ変えず赤ペンを動かしている。
にしてもパニックになると思考停止するのが私の悪いところだ。考えることを"個性"に持っている者としてあるまじきことである。鍛えていかなくては…。そういえば、私が"個性"を使う授業はないのだったか。雄英に来て"個性"が使えないのは未だに納得がいっていないけれど、仕方がない。個人で鍛えるしかないだろう。
自力で鍛える方法を考えながら卵焼きを口に放り込んだ時、ふと先生がまだお昼に手をつけていないことに気が付いた。時計を見れば残すところ20分で昼休憩が終わってしまう。
「相澤先生、少し休憩しませんか?このままだとお昼終わっちゃいますよ」
私が準備室に来たとき、相澤先生は絶賛小テストの採点中だった。何クラスも担当しているからなかなか終わらないのだと言う。私が思うに、担当クラスの数というより抜き打ちテストの数が原因ではないかと思うのだけれど。
相澤先生は私に賛同して赤ペンを置くと軽く腕を回して凝りをほぐす。ゴキゴキと濃い音が響いて相当凝っているらしいことがわかった。放課後、湿布でも買って帰ろうかな。
「…!」
先生が冷蔵庫に入れているお弁当を取りにいっている時、テスト用紙が目に入った。
用紙には回答と赤いマルバツ、そして間違えた部分に解説が丁寧に書き込まれてある。
「これも、これもだ」
用紙をめくっていけば間違った部分に全て赤文字の解説が書いてあった。
確かにマルバツだけならすぐに終わることだろう。けれど、解説を書き込んでいたのなら相応の時間がかかる。しかも、同じ問題であっても用紙によって解説の書き方が違う。相澤先生はその生徒に合った解答を導き出そうとしていた。
「こら」
「わっ」
頭に軽い衝撃があり、驚いて顔をあげるとペットボトルを持った相澤先生が立っていた。もしかしなくてもそのお茶が入ったペットボトルで小突かれたのだろう。
「プライバシーに関わるから人の解答用紙は見るもんじゃない」
そう言って机の上の解答用紙をまとめ端に寄せると弁当箱を置く。レンジで温めたらしい。湯気がたっていた。
確かに人の解答用紙をジロジロ見るのはよくなかった。でも、普通に見えるところで採点している相澤先生もどうかと思う。ただでさえ「点数」というものには興味が湧くのに。
「でもすごいですね。一人ひとりにこんなに丁寧な採点をする先生、はじめて見ました」
「仕事だからな」
相澤先生は、丁寧に合掌して黙々とおかずを口に運び始めた。先に食べ終わった私は暫くその姿を眺めることにする。
相澤先生は基本的に食事中は話をしない。お行儀がいいというより、食事中に会話をすることは非合理的だからといった感じだ。しかし、そうだとしても、私はごはんが美味しいから黙って食べていると勝手に思い込んでいる。だから私も邪魔をせずに相澤先生がお弁当に手をつけ、食べ終わるまでは黙っていることにしていた。私の気持ち的な都合だけれど、そう思っていると毎日の早起きも苦痛じゃない。むしろ昨日より美味しいお弁当を作ろうとやる気が出た。
「ごちそうさま」
食べ終わった後も丁寧に手を合わせて言う相澤先生。
「お粗末様でした」
今日も空っぽのお弁当箱が私を嬉しくさせた。
それもこれも、相澤先生のおかげである。
「おい、もう出るぞ」
朝、すでに支度を終えた相澤先生が玄関で待っている。私はその言葉に焦って食卓から飛び出るとリビングに用意してあったスクールバッグとブレザーを引っ掴んで玄関マットの上に滑り込んだ。
「先生、これ今日のお弁当です!」
ローファーに足を突っ込みながら差し出せば相澤先生は両手で受け取ってくれる。
「いつも悪いな」
相澤先生は私が作ったお弁当を毎日残さず食べてくれていた。帰って、空っぽの弁当箱を洗うことに幸福感を覚える。中学生の頃、お母さんが「全部食べたんだね」と嬉しそうに言っていた気持ちがわかった気がした。
「そういえば相澤先生って苦手な食べ物はないんですか?」
寮から学校までの道のりを相澤先生と並んで歩く。最初こそ口数が少なくてお互いに気まずい登校時間だったけれど、今では自然と話題が湧いて一日の楽しい時間のひとつになっていた。
「特にないな」
「じゃあ好きな食べ物は?」
「これといってない」
「そ、そうですか…」
実は、そろそろお弁当に入れる具材のネタがなくなってきて毎日クックペッドというレシピサイトを見て凌いでいるのだ。
「じゃあ何が食べたいですか?」
質問を変えると、相澤先生は小さく唸り始める。
裏門が見えてきた。寮は学校の裏側に位置していて、距離は歩いて5分もかからないほどだ。遅刻することはまずない。並木道も木の手入れがされてあるし、夜は等間隔に立っている外灯が優しいあかりで道を照らしてくれる。この道は学校と寮を繋ぐためのもので、他に使用用途はないから言わば私たち専用の道だった。
昇降口につき、ローファーと上履きを交換する。ちなみに相澤先生は教員専用の昇降口で靴を交換する。いつも私が校舎に入るまで見送ってくれるのだ。
「お昼はいつものテラスでいいですか?」
テラスとは食堂の外に設けられた食事スペースのことだ。食堂だけでは生徒全員が入りきらないため、外に屋根をつくり椅子とテーブルを置くことでより多くの人が食事できるようになっている。もちろん食事するために使うのも良いけれど、天気のいい日なんかは友達と談笑する場所にも使われていた。
「それなんだが、今日は準備室でいいか?小テストの採点を昼休憩中に終わらせときたいんだ」
「わかりました。授業が終わり次第向かいますね」
「ああ、頼む」
私が4限を受けているとき、相澤先生は授業がないからずっと準備室にいるのだろう。それにしても、お昼まで使わないと採点が終わらないとは。先生って大変な仕事だなぁ。
「壽」
ではまた、と教室に向かおうとしたところで呼び止められる。
振り返れば小脇にお弁当を抱えている相澤先生がこちらを見ていた。こう見ると相澤先生にお弁当って似合わないかも。かわいい猫柄のランチトートに入れているからだと思うけれど。
「さっき言ってた食べたいものなんだが」
そう言って、視線を手に持っているお弁当に落とした相澤先生。
もしかして、ずっと考えていてくれたのだろうか。もうその話は終わってしまったとばかり思っていた。相澤先生って律儀なところあるんだよね。
「何か思いつきましたか?」
旬の食材といえばアスパラだろうか。魚だとアジが美味しい季節だ。適当に旬を迎える食材を思い浮かべていると、相澤先生は「うん」と頷いて再び私に視線を戻した。昇降口には段差があるから、いつもより目線が近い気がする。
「壽が作る料理なら何でもいい」
「………………はあ」
驚きのあまり気の抜けた声が出てしまった。
「っていうのが一番困るんだろうがな」
「い、いえ、そんなことありませんよ」
「何か思い浮かんだらまた言う」
「よ、よろしくお願いします…」
じゃあな、とあいている方の手をあげて相澤先生は職員用の昇降口へ行ってしまった。
私はというと、しばらくその場に突っ立って先生が去っていった方向をずっと見ていた。登校してきた生徒が通りすがりに大丈夫かと声をかけてくれて、ようやく我に返って教室へ急ぐ。
そりゃ「なんでもいい」なんて言われても悩みが解決するわけじゃないから困るだけだけど、私が作る料理ならなんて言われちゃったら嬉しいが勝つに決まってるじゃん!
1限の授業がある教室にたどり着くと、ドアを開ける前に深呼吸をして踊りっぱなしの心を落ち着かせた。
気持ちを切り替えて教室に入り、席について教科書を鞄から取り出している時、前の席に男の子が座った。
「おはよう、壽さん」
「
背もたれに肘をおき、こちらにニコニコと笑いかけてくれるのは瓦版屋
挨拶を返すと瓦版屋くんはニコリと笑ってくれる。人懐っこい笑顔を浮かべる彼は友人が多く、人見知りをしないタイプなのか例え初対面であっても、ものの数分で仲良くなってしまうという友達作りのプロだった。かくいう私も僅か3分で懐いてしまった。カップラーメンが一つできあがる間でのことだ。
「壽さん、なんか顔赤くない?大丈夫?」
「えっ!」
どうやら心は落ち着かせられても顔の赤みは取り除けなかったようだ。
「だ、大丈夫大丈夫!ちょっと走っちゃったからそのせいかな?」
ここに来るまで階段を駆け上ったのは嘘ではない。けれど、それが原因とは強く言えなかった。しかし、先ほどの相澤先生の話をできるでもなく。
瓦版屋くんは無理に誤魔化す私に変わらず笑いかけてくれた。
「そっか。風邪ひいてるのかなって思ったんだけど、それなら良かったよ」
「あ、ありがとう。心配してくれて」
「やだな、心配するのは当然だよ。友達なんだから」
「…!」
友達なんだから――なんて心打たれる言葉なんだ…!感動せずにはいられない。何せそんなこと初めて言われたのだから。
瓦版屋くんの言葉を噛みしめていると、彼は不思議そうに首をかしげた。
「友達って、素晴らしいですよね」
昼休み、空いている机を借りて自作の弁当を食べながらそう思っていると、つい口をついて出てしまった。
「……急にどうした」
隣の机で採点をしていた相澤先生が奇妙なものを見るような目で私を一瞥する。
「ひ、独り言です。気にしないでください」
まるで友達に飢えているように見えてしまっただろうか。実際そうなんだけれど。
顔が赤くなってきたのを俯いてごはんを食べることで誤魔化した。
「……」
相澤先生は暫く採点する手を止めて私を見ているようだった。
何を思っているんだ相澤先生。もしかして憐れんでいるのだろうか。今まで友達ができずに寂しい学生生活を送ってきて、この春ようやく一人友達ができた私を。ちなみに当初の目標である「自分から話しかけて友達を作る」は達成できていない。
コトリ、とペンを置く気配がした。
「壽」
「はいっ?」
視線だけあげると先生のヒゲが生えた口元が見える。その口は捻じれていた。
「無理に俺と昼飯を一緒にとらなくていいんだぞ。契約では常に行動を共にしろってあるが、お前も昼休憩くらい友達と喋りたいだろ」
「そんなことないです!!」
躊躇なく言うと相澤先生はビクリと肩を跳ねさせた。少し猫背が直っているように見える。
私はというと、つい食って掛かるような言い方をしてしまったことに冷や汗をかく事態に陥っていた。
「あ、いえ、友達と食べたくないというわけではないんですよ。私、友達好きですし、ほら……そう、たくさんの友達とお喋りするの楽しいですし!」
我ながら何を言っているんだとは思う。友達好きってなんだ。たくさんの友達なんていない。いるのは瓦版屋くんただ一人だ。
嘘をついているわけではないのだけれど、限りなく嘘に近いことを言っている気がしなくもない。だって、相澤先生の顔色がだんだん曇ってきている。
「と、とにかく!私は友達より相澤先生と一緒にお昼ごはんを食べたいんです!」
言ってしまって後悔した。
友達が一人しかいないということを知られたくないという安いプライドから出た言葉だった。もちろん、大胆なことを言ったという自覚はある。
「………」
「………」
沈黙が私の顔の熱を上げていく。
何か言ってほしいけれど、何も言ってほしくない。
「……そうか」
箸を握りしめたまま固まる私を無表情で眺めていた相澤先生はそれだけ言うと椅子を回転させて再び小テストの採点に戻った。
どっと疲労が押し寄せてきて密かに額の汗をぬぐう。幸いにも相澤先生は何とも思っていないようだ。その証拠に顔色ひとつ変えず赤ペンを動かしている。
にしてもパニックになると思考停止するのが私の悪いところだ。考えることを"個性"に持っている者としてあるまじきことである。鍛えていかなくては…。そういえば、私が"個性"を使う授業はないのだったか。雄英に来て"個性"が使えないのは未だに納得がいっていないけれど、仕方がない。個人で鍛えるしかないだろう。
自力で鍛える方法を考えながら卵焼きを口に放り込んだ時、ふと先生がまだお昼に手をつけていないことに気が付いた。時計を見れば残すところ20分で昼休憩が終わってしまう。
「相澤先生、少し休憩しませんか?このままだとお昼終わっちゃいますよ」
私が準備室に来たとき、相澤先生は絶賛小テストの採点中だった。何クラスも担当しているからなかなか終わらないのだと言う。私が思うに、担当クラスの数というより抜き打ちテストの数が原因ではないかと思うのだけれど。
相澤先生は私に賛同して赤ペンを置くと軽く腕を回して凝りをほぐす。ゴキゴキと濃い音が響いて相当凝っているらしいことがわかった。放課後、湿布でも買って帰ろうかな。
「…!」
先生が冷蔵庫に入れているお弁当を取りにいっている時、テスト用紙が目に入った。
用紙には回答と赤いマルバツ、そして間違えた部分に解説が丁寧に書き込まれてある。
「これも、これもだ」
用紙をめくっていけば間違った部分に全て赤文字の解説が書いてあった。
確かにマルバツだけならすぐに終わることだろう。けれど、解説を書き込んでいたのなら相応の時間がかかる。しかも、同じ問題であっても用紙によって解説の書き方が違う。相澤先生はその生徒に合った解答を導き出そうとしていた。
「こら」
「わっ」
頭に軽い衝撃があり、驚いて顔をあげるとペットボトルを持った相澤先生が立っていた。もしかしなくてもそのお茶が入ったペットボトルで小突かれたのだろう。
「プライバシーに関わるから人の解答用紙は見るもんじゃない」
そう言って机の上の解答用紙をまとめ端に寄せると弁当箱を置く。レンジで温めたらしい。湯気がたっていた。
確かに人の解答用紙をジロジロ見るのはよくなかった。でも、普通に見えるところで採点している相澤先生もどうかと思う。ただでさえ「点数」というものには興味が湧くのに。
「でもすごいですね。一人ひとりにこんなに丁寧な採点をする先生、はじめて見ました」
「仕事だからな」
相澤先生は、丁寧に合掌して黙々とおかずを口に運び始めた。先に食べ終わった私は暫くその姿を眺めることにする。
相澤先生は基本的に食事中は話をしない。お行儀がいいというより、食事中に会話をすることは非合理的だからといった感じだ。しかし、そうだとしても、私はごはんが美味しいから黙って食べていると勝手に思い込んでいる。だから私も邪魔をせずに相澤先生がお弁当に手をつけ、食べ終わるまでは黙っていることにしていた。私の気持ち的な都合だけれど、そう思っていると毎日の早起きも苦痛じゃない。むしろ昨日より美味しいお弁当を作ろうとやる気が出た。
「ごちそうさま」
食べ終わった後も丁寧に手を合わせて言う相澤先生。
「お粗末様でした」
今日も空っぽのお弁当箱が私を嬉しくさせた。