ワードパレット

夜は、もうすっかり静かだった。

作業台の上に置きっぱなしの工具と、消し忘れたライトの白い光。
その隅で、宵風 虚はひとつ息をついた。
「……終わった」

小さく呟く。
誰に聞かせるでもない声。

――いや。

「おつかれ、虚」

ソファの方から、当たり前みたいに返事が来る。

「……あ、起きてたの」

「んー?さっきまで寝てたけど」

足を組み替えながら、リリスは気だるげに笑った。
いつもの、余裕ぶった顔。

その手元には、いつの間にか増えたマグカップ。
――あれ、自分のじゃないやつ。

虚は少しだけ視線を逸らす。

「……コーヒー、淹れるね」

「ん、ありがと」

短いやり取り。
でも、その間に流れる空気は、前よりずっとやわらかい。

お湯を注ぐ音。
コポコポと、小さく響く。

――こういう時間。

特別なことなんて、何もないのに。

胸の奥が、じんわりあたたかくなる。

(……これが)

「どうしたの、ぼーっとして」

「え、あ……ううん」

マグカップを差し出しながら、虚は少しだけ笑う。

「なんでもない」

ほんの少しだけ。

ほんの少しだけ――

「小さな幸せだなって、思っただけ」

言ったあとで、少し恥ずかしくなる。
言葉にすると、やけにくすぐったい。

けど。

リリスは、ふっと目を細めた。

「……ふーん」

それだけ。

それだけなのに。

その声は、どこか柔らかくて。

受け取ったカップを口元に運びながら、ぽつりと零す。

「ま、悪くないんじゃない?」

そっけない。
いつも通り。

でも。

その視線が、ほんの少しだけ優しいことを、虚はちゃんと知っている。

静かな部屋の中。

言葉は多くないのに。

何かが、ひっそりと。

確実に、そこにあって。

それはまるで――

目に見えないまま、じわじわと

広がるみたいに。

気づけば、もう。

元には戻れないくらい。

当たり前になっていた。



「ねぇ、虚」

「……なに?」

「明日もさ」

カップを揺らしながら、リリスが言う。

「泊まるから」

「……うん」

もう驚かない。

もう、戸惑わない。

ただ、少しだけ笑って。

「……知ってた」

そう返せるくらいには。

この距離は、ちゃんと形になっていた
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