天使は言った
ふっと目が覚めたのは、午前7時過ぎのことだった。
スマートフォンで時刻を確認した僕は、もう一度寝てしまおうと再びベッドに転がってみる。が、眠気はいっこうにやってこない。何となく寝返りを打つと、閉めたカーテンの隙間から白い光が床にこぼれているのが見えた。薄暗い室内で、それはひどく目につく。暫くそれを見つめた後、僕はしかたなく身を起こした。もう、二度寝はできそうになかったからだ。
そしてまず、ずんずん窓のほうへ歩いていき、両手で思いっきりカーテンを開く。——自己主張の激しい木漏れ日め、俺の目を覚ましやがって。部屋の照明になってしまえ!——
シャーッという軽快な音とともに、部屋がいっきに色を持つ。室内にこもった闇が、白い光に透けた気がした。ただ、静かなだけの朝の景色に、理不尽なことを考えてカーテンを開け放った僕の内心を、笑われているようだった。ちなみに、僕は寝起きが悪い。
僕が朝の7時過ぎに、内心で酷くはちゃめちゃなことを叫びながらカーテンを開けたのは、今日がなんの予定もない休日だからである。もちろん、寝起きの機嫌の悪さも助力しているのだが……。とにかく、目が冴えてしまったのが惜しかった。早起きしたところで予定がないことに変わりはなく、かといってなにか予定をいれるのは面倒で、結局コーヒー片手に家でぼうっとしていた。ぼうっとしていると、僕の時間はゆっくり進む。つまり、僕の場合、ほおけるのは時間つぶしに向いていない。実際はっとして時計を見ても、進んだ時間は30分程度。 この調子では今日一日が思いやられるというものだ。しかし、やっぱり何かしようという気にはならない。
ふいに外から、子供の楽しそうな声が聞こえた。それにつられて窓に目線を移したが、コンクリートの街並みが遠くに見えるだけだった。それでふと、ここはマンションの6階だったと思い出す。おかげでマンションの真下は見えない。だんだん小さくなっていく子供の声を聞きながら、子供の頃なら、僕にもまだ行動力と探求心があったなぁなんて、じじくさいことを考えた。ちなみに僕はまだ、若者と称されるぎりぎりの年齢だ。
小さな頃に考えていたことなんて、今となってはほとんど分からない。今の僕が首をかしげるような行動を、いくつもとっていた事実だけがある。それでも小学生の頃は、大勢の中の一人であることを嫌がっていたのは、なんとなく覚えている。そのころ僕は、やっと僕の周りの狭い世界を認識して、僕にとっての『平凡』のイメージを成り立たせた。凡庸なまま、普通に育って、普通に生きて、普通に消えていく、ありふれた一生。今の僕にとっては、それは理想の人生だ。しかし小学生の僕は、『平凡』が自分に当てはまることを想像し、反発した。それがひどくつまらないものに感じたからだ。そして奮起した。『普通』に生きて忘れられていくなんてつまんねぇ。俺は特別になってやる!……と。要するに、小学生にして中二病だったのだ。小学生の頭脳で中二病を患った人間の行動は今思うと奇怪だ。とはいえ、価値観のまるで違う今の僕がいくら考えたって、他人事のように、輪郭のない当時の思想が思い浮かぶだけだ。まあ理解したいわけではないから別にそれでいい。そんなことしたら、中二病が再発しそうだ。こんなんだから、僕は子供受けが悪いのだと思う。
物思いにふけっていたら、先ほどからさらに12分が経過したようだ。たった12分かよ、と時計に愚痴る。口に出したわけではないが、心なしか秒針が遅く回り出した気がした。僕は暫く冷めた目で秒針を見つめる。さらに遅くなる。人の心理はすごい。いついかなる時も一定に働く優秀な秒針でさえも、こんなにゆっくり感じるなんて……。職場が理不尽であふれるのも仕方がない。いや、理不尽な職場なんて爆発しろと思うが。もういっそのこと皆でアンドロイドにでもなってしまえばいいのではないか。なんて、僕が人間の心理状態がもたらす感覚の違いを実感して感動していたとき、ぴたり、と針が止まった。うわぁ、ついに止まって見える所までキてしまった!僕はなんだか居てもたってもいられず、頭を冷やすことにした。財布とスマホだけを持って外に出る。鍵がないことに気づいて、いったん引き返した。
さて、止まった秒針に触発されて家を出て、さらにいったん引き返して戸締りをした僕は、ついでに火の元を確かめてからもう一度家を出た。マンションの敷地を出て大通りに差し掛かったところで、僕はやっとどこへ行こうか悩み始めた。金は使いたくない。なにせ止まった秒針に触発されて家を出たのだ。もっと有意義に時間を使いたい。そんなことを考えながら人気のないほうへ黙々と歩いていたら、急に後ろから腕を掴む不届き物がいた。人は本当に驚くと声も出ないらしい。僕はヒュッと息を飲んで固まってしまった。本当にヒュッという音が自分の喉から聞こえて少し面白かった。そんな現実逃避を遮るように、大きな笑い声が響いた。
「あっははははははは!!」
僕は現実にヒュッと息を飲む自分自身にも感動していたが、「あ」と「は」をこんなにキレイに発音して笑う人間も稀にみるなぁと思った。漫画に出てくる人間は、現実にいたらこんな笑い方をしているのかもしれない。
キレイな発音で爆笑した男は、少しだけ長めに切りそろえられた甘栗色の髪をふわりと揺らした。形のいい薄い唇は弧を描き、細められた色素の薄い瞳が、前髪の下から見え隠れする。
「タナカさんはビビりだね。」
透明に澄んだ声が、そっと僕の鼓膜を揺らした。
「えっと、確か隣に住んでる、あ!……あ~、」
「スズキですよ。」
「スズキさん! こ、こんにちは。いきなり腕掴むんで何事かと思いましたよ~。あ、ちなみにですね、俺、タナカじゃなくて中田っていうんですけど」
「すみませんね。ちょっと驚かせたくなっちゃって。」
「あ!そうなんですかぁ。じゃあ俺はこれで」
「タナカさん今暇ですか?」
「いやだから中田」
「暇ならご飯食べに行きません?俺一人で寂しいんだ。おごりますよ?」
「いや~」
「忙しいんですか?」
「いや、忙しいというより、貸しを作りたくないみたいな……。」
「いやいや、これは俺的にお返しだよ?引っ越しの時廊下の段ボール運び手伝ってくれたでしょう?」
そう言われると、そんな気もする。
結局、相手が貸しにしないと言っている以上、すべては自分の問題である。僕は、人にめしをおごられた程度では弱気にならないから、そのあたりは心配ない。どうやら僕は、彼の荷物運びを手伝ったことがあるらしいし。ちょうど金を使わず有意義な時間を過ごしたいと思っていたところだ。ここでお隣さんと仲良くなれば、その時間は有意義といえるだろう。考えるほど、スズキさんの提案はナイスなものに思えて、僕は最終的に、快く受け入れた。
「それさ、時計の電池切れじゃない?もしくは壊れたとか。」
「えっ、でんちって?」
とぼけて答えると、スズキさんは物凄く軽蔑した目で静かに僕を見た。食後に頼んだコーヒーを片手に固まっている。おふざけが通じないやつだ。電池くらい知っている。なんだかムズムズするからそんな目で見ないでほしい。けして悔しいわけではないけれど。黙ってぶすくれていると、スズキさんは緩慢な動作でコーヒーをあおった。そして、落ち着いた静かな声
「エネルギー、例えば化学反応とか、光とかのを電気に変える装置……」
「あああもう!知ってるよ電池でしょ?」
「それは良かった。買いに行く?」
「いや、あれは俺の心理状態が引き起こしたマジック的なやつだから」
「病院行く?」
「いや、俺はいたって健康ですよ。」
「でも、時計が止まって見えるんでしょ?」
「そうか、確かに、このままだと生活に差し障るかもしれないな……。」
スズキさんは、端正な顔をこちらから背けて向けてはぁっと深いため息をついた。
店を出るころには日が傾きかけていた。いやはや、不思議なものである。ほぼ初対面の人とこんなに長く話し込んでしまうとは、今までの経験上、自分らしくない。実際、こんなに長い時間何を話したのかはよく覚えていないのだから、いわゆる、とるに足らない話だったのだろう。
「いやあ、楽しかったね。タナカさん!」
「はぁ。取るに足らない話をいっぱいしたもんですね。」
僕は中田(ナカタ)なのだが、スズキさんが頑として聞き入れない、というか聞こえているのかもよく分からなくなったので、ニックネームだと思って受け入れることにした。しかし、タナカがニックネームだとどちらが本名か分からなくなりそうだ。いや、僕は分かるのだけれど、聞いている人とかがさ。あと、スズキさんって年上なのだろうか。見た感じでは大学生くらいに見える。もしそうなら僕のほうが年上なのだが、絡みが軽いわ敬語は抜けるわ、いわゆるチャラい男なのだろうか。いやいや、人を見た目で判断してはいけない、なんて、小学生で習ったことではないか。大学生の雰囲気をまとった、何かの道のお偉いさんの可能性もある。なんだか不思議な人だし。そう考えてみると、スズキさんは子供にも仙人にも見え……たりはしないな。なんて、僕が眉間にしわを寄せて難しい顔を作っていると、ふいに前を歩いていたスズキさんが立ち止まった。
「……あの、どうしたんです?なにかありました?」
僕が問いかけると、スズキさんはゆっくりと振り返った。振り返りざま、髪がゆれる。色素が薄く、しかし芯の通ったそれがさらりと夕日に透けて、キラキラと星を散らして輝く。彼は満面の、美しい笑みを深めて言った。
「タナカさん。ちょっと寄り道しない?」
演技がかった動作に目が奪われる。すべてが、細かな数式の上に完成されたかのような、無駄のない舞台だった。
怪しいスズキさんに、僕はのこのこついていった。暇だったから以外に、何とも言いようがない。
こっちこっちと、スズキさんはずんずん歩いていく。もう少しゆっくり歩いてくれないだろうかと、不満を覚えるほどに。普段よく通る街の景色が、映画のセットのような感覚で、視界の端を通り過ぎていく。店に明かりが灯り始めると、急かされているような感覚に陥った。いそげいそげ、と。どこへ行くのかも、分からない。なんだかそんなアニメ映画があったなぁなんて考えていると、怪しいスズキさんがぴたりと止まった。
「ついた!これこれ。」
「えっ、なんですか、これ。巨大オブジェ?」
そこには、天まで続くエレベーターがあった。
「えっエレベーター乗ったことないの?」
「いやいやいや。ありますよ、そりゃあ。」
「そっか、よかった。ハジメテなのかとおもったわ。オブジェとか言うから。」
「いやいやいや、」
これ、起動するのか。あっ、エレベーターなら、可動か。
それは、きらびやかな都会の街の中心で、いつもならば絶え間なく車の行きかう大通りの真ん中で、空には小さな星が輝いているような、いないような。そんなところに、エレベーターのボックスがあった。むき身のボックスだ。ワイヤーは空高く、見上げても終わりが見えない。なんだか、戦闘ロボットものの世界観が頭をよぎる。金属でできているからか、まさに機械的な冷たさをもって、闇を切り取ったかのような色を、その躰にまとっていた。なんとも不自然なそれに、行きかう人は目も止めない。
「あの、」
「んー?」
「これって、どこに行くんですか?」
ちがう!そんなことよりも先に聞くことがあるだろうと、頭の中で冷静な僕が叫ぶが、僕はそれを脳内で一喝する。ロマンのほうが大切だ!と。
「これはね、三階にいくんだよ。」
「は~、なるほど。三階ですか。」
さて、いったい何に対する三階なのか気にならないわけではない、というか二階は?ここが二階なのか?などと疑問は多々あるのだが、怪しいスズキさんの言動がだんだんアヤシくなてきたので、ここらでお暇しようと思う。面白いものも見ることができたし、気づけば空は真っ暗だ。お隣さんと仲良くなるためというには、十分な時間を過ごしただろう。醤油を貸しあえるくらいには仲良くなった自信がある。とはいえ、あんまり借りたくないので、醬油はきっちり常備しておこう。
「あっ来た来た。」
僕が家にある調味料について考えていると、軽い声とともに、グイっと腕を引かれた。
「あっ、俺そろそろ帰って……」
寝たいんですが。という言葉は続かなかった。無駄に重厚感のある無情なドアが、僕の目の前で閉じたからだ。そして、ふわりとかかる重力を感じた。
「あぁぁ!」
というお叫びをあげたのは、言わずもがな、僕だ。
ほらほら、顔を上げて。この世界を目に納めないと、きっと後悔するよ。とても綺麗だね、ほら。僕はあなたを尊敬しているんだ。僕にはきっと、作れないから。
柔らかな声に、エレベーターの扉の前でうなだれていた僕はゆっくりと顔を上げる。声というよりも、草原の風の音のような、川のせせらぎのような、木々のざわめきのような。耳を通すと、なんだか眠たくなってくる。しかし彼は、何を言っているんだろう。そう聞こうと、彼を振り返ろうとして、息が止まった。
星があった。僕の足元に、僕の手のそばに、僕の目の前に。きらきらと輝いて、散っていく。散るたびに、シャンッと、透明な鈴の音が聞こえた。真っ暗な箱の中では、どこが箱の端か分からない。どこまでも深い闇で、空で、宇宙だった。星はあちこちで、輝いては散っていく。そのすべてに、同じ色はない。輝きも様々だ。ふと、小さな光が、僕の手をすり抜けていった。蛍のようだと思った。すべての星を、愛おしいと感じた。なぜだか視界がにじむ。
「ほらほら、ついたよ。しんみりしていても意味はない。前に進まなきゃ。」
手を引かれる。僕はエレベーターを降りた。閉まりゆくドアの向こうで星が名残惜しそうにはじけた。
「ここが、三階?」
「そうそう。三階だよ。」
何が何だか分からないまま歩いてきたそこには、ちゃんと地面があった。地面といっても、踏みしめることのできる透明なナニカである。水面のような、光る地平線のような。どこまでも広く、終わりはみえない。ときおりそれがきらりと光る。スパンコールみたいなきらきらした粒子を噴き上げる。火山活動みたいななにかだろうか。
「二階は?」
「さっきいた所。」
「……一階は?」
「えーと確か、ヤマダのかな。」
「え、ヤマダさんの?」
「そ。ヤマダサンの。」
ヤマダさんの、何なのだ。と尋ねてみようとしたとき、スズキさんが立ち止まった。思わず背中にぶつかりそうになる。いつもいつもいきなり立ち止まるのはやめてほしい。スズキさんは背が高いくせに前を歩くから、前方の景色はほぼ広い背中しかないのだ。まあ、前を歩いてもらわないとどこにも行きようがないのだが。横を歩け?こんないつ沈むか分からないところ、スズキさんに橋を叩いてもらわないことには歩きたくない。今もけっこーびびっているのだ。
「タナカさん。居たよ。」
なにが。なぜ主語をいれないのか。これだから最近の若いやつとは話がかみ合わないんだな、と一人で納得しながら、僕はスズキさんの陰からそうっと前をうかがう。美女がいた。
「わお。……じゃなくて、こ、こんにちは」
しまった。つい感嘆の言葉を発してしまった。なにせ、彼女は絶世の美女だったのだ。本当にもう、形容しがたいとはこのことだと思った。透けるように白い肌は、本当に透けていた。真白の腕を通して、向こうの景色がうっすらと見える。それに対して、光を吸い込む闇のような漆黒の髪は、緩やかなウェーブを描いてかかとまで伸びている。薄いヴェールの衣服はきらきらと輝きながら、ゆるく体を包んでいた。
「あら、タナカさん?」
真っ赤な唇がゆっくりと動いて、鈴のような声が耳を通りぬける。アーモンド形のぱっちりとした目は、濡れていた。
「えっ、ぼくのニックネーム、知ってるんですか? 本名は中田なんですけど」
「タナカサーン、一人称俺だったくね?俺に対しては。」
ジト目のスズキさんが何か言っているが、ここはあえて無視する。
「こんにちは、タナカさん。会えてうれしいわ。それと、ごめんなさいね。」
なぜ彼女が僕に対して誤っているのか、皆目見当がつかない。しかし、なぜ誰も僕の本名の下りが耳に入らないのか、という疑問のほうが脳内を多く占めた。
「そうだわ。タナカさん。これをあげる。いざとなったらこれを使うといいわ。」
美女は小瓶を渡してきた。小さな透明の小瓶の中には、光る液体が揺れている。澄んだ水色をしていた。
「えっと、ありがとうございます。」
もらえるものは、もらっておくに限る。
彼女と別れて、また光る水平線の真上を歩いた。こんなに広い水面上なら、どこを歩いても、きっと水平線の真上になるだろう。
「彼女はいったい誰だったんだ?」
僕が問うと、彼はにやりと口角を上げた。
「アイの女神様さ。」
スズキさんも、僕に負けず劣らずのロマンチストである。
そのとき、遠くで悲鳴が聞こえた。何事かと辺りを見回すが、澄んだ景色が広がるだけである。悲鳴は止まない。あんまりうるさいので、耳をふさごうとして、それが自分の中から響いていることに気づいた。僕は口も開いていない。何が何だか分からなくなった。ゆっくりと目の前に回り込んできたスズキさんの足が、しゃがみこんだ僕の目に映った。
「そうめんのさ、束をとめてるぴらぴらしたの、あるじゃん?」
束紙のことだろうか。というか、今は正直そうめんの話なんぞしている場合ではないのでやめてほしいのだが、スズキさんはとことん空気を読まない。
「あれがなくなったらさ、そうめんはばっらばらの、ぼっきぼきになっちゃうんだろうね。だってそうめん一本なんて、すぐ折れちゃうでしょ?」
何だか知らないが、とにかくスズキさんはそうめんがものすごく嫌いらしい。今度、遅めの引っ越し祝いとして、高級そうめんでも送ってやろう。そういえば、スズキさんはいったいいつ引っ越してきたのだろうか。引っ越しの手伝いをしたらしいが、覚えがない。いや、あるような気もするが、それはもっとずっと前のことだ。それは僕が「中田」ではなくて、ああ、思考回路がだんだんと溶けていく。悲鳴と笑い声がまざる混沌が、闇をつくろうとしていた。ガラガラと音を立てて、自身の中の何かが崩れ去っていくのを感じる。カタカタと震える僕に、スズキさんがあの、一ミリの狂いもなく完成された、満面の笑みを向けた。
「さあ、その小瓶の中身を飲んで。」
ぞわっとした。身の毛もよだつというか、背筋も凍るというか。誰かが僕に必死になって叫んでいるのを、僕はどこかで一人で聞いていて、何を叫んでいるのか分からないから、呆然と立ちすくむ。何とも形容のしがたい、最悪の時間。
「ほら、早くしないと創造主ごとこわれてしまうよ。」
挑発的に完成されていたスズキさんの笑みが、柔らかくゆがむ。優しさを表現しようとした結果だろうか。よく分からない。
しかし、なおも動こうとしない僕に痺れを切らしたのか、スズキさんはスイッチが切れたかのように笑みを消し、強引に僕から小瓶を奪うと、ふたを開けていっきにあおった。あざやかな犯行に目を丸くする僕を、冷たい、ただ美しいだけの人形のような顔が見下ろす。美しい人形は、優雅な動作で、音もなく僕の前に跪くと、緩慢な動作で僕に口づけた。
甘い雫が、舌を湿らせていく。渇望していたものが、喉よりもずっと深いところを潤していくのを、僕は確かに感じた。シャンッ、シャンッ、と、無数の星がはじける音がした。かずかずの星がはじけるほどに、悲鳴も笑い声も消えていく。どこかで闇がほどけ始めた。絶対に離さないとしがみついていたものから、なすすべもないまま引きはがされる、そんな感覚がした。いやだいやだと首を振っても、星はどんどん消えていく。ひとつ、またひとつ。涙があふれた。あふれてあふれて止まらなかった。いくら泣いたところで、時間は止まらない。僕の時間は止まったままだ。あの穏やかな朝から変わらない。こんなことなら、時計の電池を買っておけばよかった。そうすれば、一緒にいられたかもしれないのに。
「よく泣いたな。ほら、水面が1、2センチ上がったんじゃない? 女神の涙は効き目抜群だ。」
こう垂れて座る僕の前に立ったスズキさんが、カラカラと笑う。演技がかった動きは優雅だ。
「アレの、どこがアイなんだよ。」
かすれた声が出た。スズキさんがぴたりと笑いを引っ込める。
「穏やかな最後ってやつさ。」
やっぱり、混沌をまとめるだけの愛をそそがなくてはならない世界なんて、コスパが悪すぎたんだね。ドンマイ!
バシンっという音と共に、すごい勢いで背を叩かれた。グフッという声が漏れる。また漫画のような反応をしてしまった。嗚呼、これからどうしよう。
「ところでさぁ、これ、もういらないよネ?」
嫌な予感にスズキさんを見やると、見覚えのある時計を手に持っていた。
「あ!それ俺の精神的停止中の時計!」
「そうそう、セイシンテキ……なんて?……まあいっか」
「よくない、何もよくないよ! 早まるのは止めなさい!」
俺の必死の制止もむなしく、彼は時計を水面、もとい地面に叩きつけた。ガシャンと、安いプラスチックの割れる音が耳に痛い。
「ばいばい。中田さん。いろいろ楽しかったよ。そして久しぶり、カミサマ」
「……タナカでいいよ」
世界の軸たる創造主が世界を手放したことで、世界はばっらばらの、ぼっきぼきになった。そして、やわらかな甘露の霧雨に濡れた。
少年は言った。つまらないと。どうしてこんなに「淡白な普通」しかいない世界を愛せるのか分からないと。
天使は言った。彼らは愛を欲しない、争わないし、無駄を知っている。だから長く世界がもつのだと。
「そんなのより、価値のあるものがある。おまえは一生分からないかもしれないけれどな。いいか、俺はここの下に世界を作る。 全ての光が色をもって、自分で光ることを知って、そこを彩るんだ。「特別な普通」を作り出してやるよ。」
「やめときなってカミサマ。いくらカミサマでも無償の愛を与え続けるのは不可能だ。混沌の世界をまとめあげるのはいつか不可能になるってことで、しかも長くもたない。そしていつかカミサマは、カミサマが乾ききったときに、世界のほころびに飲み込まれるんだ。子に食われる親みたいにね」
「カミサマって、そういうものだろ? 俺は世界の軸になって、世界の一部になる。俺が与えることのできる間は、どんなほころびも「個性」として大事にするよ。」
「ふうん。じゃあ、4階の世界はどうすんの?」
「そっちはしばらく、お前に任せたよ。」
「最悪だな。」
「とくいだろ?正確なお仕事が。」
「はぁ、仕方ないな。俺はしがない天の使いなのに、とんでもない天に使えちゃったもんだよ。でも、さすがにいきなり解雇は嫌だから、いざとなったら手段を選ばないからね。」
「こっちに来るなら、きっといいもん見せてやるよ。」
「さあ、エレベーターに乗ろう。タナカさん。」
水平線が揺れた。水面全体が、夕日を反射して輝く。朱色に染まった空の反対側に、漆黒のエレベーターが下りてくる。透明な風に、彼らの身体は透ける。さあ、長らく不在だった、我らの神様のお帰りだ。世界の水面が波を立てて、嬉々とした色で輝いた。
さあ、カミサマ、帰りましょう。なあに、そんなに寂しいのなら、元気になってから新しい世界を作ればいい。もう一度、ここにお戻りになるのであれば、私は留守番くらいいくらでもしますよ。
愛されたがりの、カミサマのためにね。
天使は言った
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