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たからもの(不二周助)

 ただいま、と玄関から愛しい人の声がする。わたしはキッチンからおかえり、と少し声を張り上げて答えた。いまは目の前のネギを切るのに忙しい。周助は手洗いうがいをして、部屋着に着替えて、さらにもう一度手を洗ってからここへ来る。そしてわたしの右ななめ後ろからこう問いかけるのだ。今日の夜ごはんなに?、と。見たらわかるはずなのに彼は必ずそう聞いてきて、わたしがそれに答えると美味しそうだね、と楽しそうな声で返事をする。

「今日の夜ごはんなに?」

 ほらね、わたしの予想どおり。わたしはミョウガを切りながら、そうめんだよ、と言った。

「美味しそうだね」

 これが本心かどうかはわからないけれど、優しい彼のことだからきっと本当にそう思っているんだろう。かたかたいっている鍋の蓋を開けてそうめんを3束放りこむ。後ろの彼はいつもなら箸や飲み物を準備しているけれど、今日は違うらしい。ビニール袋特有の軽い音が聞こえる。わたしは鍋のなかでふわふわと泳ぐそうめんを、長めの菜箸でゆったりとかき混ぜている。

「なに買ってきたの?」
「ん?今日ね、帰り道でお祭りがやってたんだ。だからそこで買ってきちゃった」

 振り返ると、汗をかいている壜ラムネが2本と、女児向けアニメのキャラクターが一面にプリントされているわたがしの袋が食卓の真ん中に置かれている。彼は甘いものが好きではないのにいきなりどうしたんだろう。壜は処理がめんどうくさいし、彼のことだから中のビー玉を取り出したいとか言いそうだ。しかも、わたがしはどうしてイラストも袋も、ピンクたくさんのわたあめなの。透明とか、国民的人気キャラクターのものとか、そういうのはたくさんあったはずなのに。

「君はピンクが好きだし、キャラクターも可愛いから喜ぶかなと思ってね」

 周助はそう言いながら壜ラムネを冷蔵庫にしまった。なんでもいいってわけじゃないよ、でも、あなたのそういうところが好き。ありがとう、と言いながらわたしは鍋に向きなおり、ピピピと音をたてるタイマーを止めて、シンクに置いたざるめがけてそうめんをあげる。途端にむわっとした白い蒸気がわたしの顔を包む。そうめんの唯一嫌いなところはここだ。本人は至って涼しげですという顔をしておいて、実のところは正反対なのだ。わたしがきちんと冷やしてあげるから、ちゅるんと食べられるようになる。容赦なく冷水を浴びせてしばらくすると、あの涼しげですという顔をしたそうめんが見えた。本性をあらわしたそれの水気を切ってから氷を数粒落とすと、余計涼しげに見えてなんだか悔しくなった。

 いただきます、とふたりで手をあわせて食べはじめる。わたしたちは順番に、にぶい色をした茶色のつゆに薬味を入れていく。わたしはネギだけ、彼はミョウガもネギもたっぷり。あれだけ悪口をいってしまったけどやはりそうめんはおいしい。たっぷりとした白色に身を包み、表面は控えめにきらめいて、ちゅるんとしたのどごしで、ふつりとすぐに切れてしまう細さが魅力的だ。彼はひとくち食べると、美味しいねと微笑んで言った。わたしがそうだねとかえすと、部屋にはクーラーのモーター音が響いた。わたしたちは食事中しゃべらない。最初からこうだから、きっと育った環境なんだろう。ちらりと彼を見やると目があって、どうしたのとにこやかに言った。わたしはなんでもないよ、と答えて食事に戻る。今度作るときはつゆをアレンジして冷や汁風にしてみようと思った。きっと彼も気にいる。



「ベランダに出ようか」

 片付けもせずにソファーでだらんとしているわたしにそう声をかけるのは彼しかいない。なんで、と思いながらもわたしはベランダへのっそりと出る。彼の手には、汗をかいている壜ラムネ2本と、あのピンクのわたがしの袋。

「ほら、外で食べたほうがお祭りって感じがするよ」

 ねっとりとした風を浴びながら彼は言った。たしかに、そうだけども。彼はわたしにわたがしの袋を手渡すと、壜ラムネを器用に開けた。開けた壜ラムネをわたしに手渡して、彼はもう1本の壜ラムネも開けた。からん、と小柄なビー玉が壜にあたる音がやけに綺麗だった。わたがしの袋はまた彼のもとへと戻っていって、わたしたちは密かに乾杯をした。同じ壜どうしだとあまり綺麗な音はならなかった。冷たい壜は気持ちがいい。飲むとちいさな泡が、壜のなかでも、わたしのからだのなかでもしゅわしゅわとひっきりなしにはじけては消えていく。さっぱりとした甘さがおいしい。耳をすますと盆踊りの音が聞こえる気がする。

「盆踊りの音が聞こえる気する」

 首を傾げながらそう言う周助がなんだかとってもおかしくて、わたしは声をあげて笑った。

「わたしもそう思ってたの」
「そういうこと。突然おかしくなっちゃったかと思ったよ」

 彼も笑いながら、わたがしの袋を開けてわたしに差し出した。いま甘いものを飲んでるのに。さらに甘いもの食べたら味がしなさそう。

「大丈夫、わたがしのほうが甘いよ」

 どうして、周助はわたしの気持ちがわかるんだろう。

「顔に出てるからね、わかるよ」

 そんなにわかりやすい人間じゃなかったはずなのに、きっと彼といると顔が緩んじゃうのね、きっとそうだ。そうなんだ、そっけなく返事をしてわたがしへと手を伸ばす。甘さはもちろん、はじめのひとくちは手も口もさらさらしているけど、そのうちべとべとになっちゃうところも好きだ。口に入ったと同時に溶けてなくなったわたがしは、たしかに壜ラムネよりも甘かった。濃い甘さを流すためにまた壜ラムネを飲むと、ただのしゅわしゅわした水みたいで味気なかった。

「周助は食べないの?」

 3口めを取りながら問う。

「これは君に買ってきたから」

 それに、僕はこれで充分だよ。そう言ってわたしにキスをした。驚いたけど、そうだ、この人はこういうことをさらっとやる人じゃないか。そのあと何回もキスをしてきて、これじゃあわたがしを食べたほうが早そうと思ったけど、言おうとは思わなかった。気がつけばわたしの指先にいるわたがしはべとべとし始めているし、洗い物も残っているし、お風呂にも入らなきゃいけない。

「周助、そろそろ部屋に戻ろう」
「そうだね」

 わたしたちは快適な涼しい部屋へと戻っていく。いつものように明日の準備をして、眠りについて、そしてまた朝がくる。これからずっと、今日みたいな日々を楽しみに生きていく。わたしたちはビー玉を取り出して、きれいに洗って、寝室のサイドテーブルの上から2番めの引き出しにしまった。転がらないようにていねいにハンカチもひいた。薄暗い部屋の中で、その姿は高級な真珠のように輝いていた。食べかけのわたがしは、食卓の上で静かにわたしたちが戻ってくるのを待っていた。
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