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猫とプール(仁王)

 中学3年、最後の夏休み。校舎から吹奏楽部の練習であろう音が聞こえる。グラウンドのほうからはピーっとホイッスルの音が響く。反対に、わたしの目のまえにある25メートルプールは、とても静かだ。そこにあるのは、透きとおる大きな水のかたまりと、その水面を照らす太陽、ざらざらとした目の細かいタイル。どうして、夏休みの部活も補講もないわたしがこんなところにいるのかは、自分でもあまり理解していなかった。ただ、横にいる男に誘われたから、それだけ。
 仁王と友達になったのは2年のときで、席替えで隣になっていろいろ話すようになったのがきっかけだった。わたしは勝手に彼のことを猫のようだと思っていて、たしかに最初の頃はそうだと感じていた。最低限しか話さず、そっけない態度をとり、面倒ごとはのらりくらりとかわす。けれど日が経つにつれて、懐いてくれたのかよく話してくれるようになった。挨拶はもちろん、天気の話から学校の噂話、学食のメニューのどれが1番美味しいか、嫌いな先生の悪口を言い合ったりもした。部活の話を聞くといつも楽しそうに話してくれて、あぁ彼はテニスが仲間が好きなんだな、クラスでもその表情見せたら友達増えそうなのに、でも女の子にモテて大変なのかなと、あまりにも他人行儀に捉えていた。彼が遠征に行っている間の、ノートを貸すのがいつの間にかわたしの役目になっていて、それはクラスが違う今でも続いている。毎回ありがとうと言いながら、律儀にわたしが好きな紅茶オレやお菓子を奢ってくれる。話せば話すほど、関われば関わるほど、いい人なんだなと思う。
 彼は決して饒舌な人間ではない。人見知りと見た目で損をしているタイプだ。たしかに髪色は奇抜だし素っ気なく見えるけど、根は真面目で努力家で、とても優しい。そんな彼の本当の姿を知っているのは、女子ではおそらくわたしくらいだろう。他の女子と話し込んでいるのなんか見たことがない(話しかけられて無視している様子は多々見かける)。猫が自分だけに懐いてくれるってこんな感覚なのかな、なんて思った。
 今朝、珍しく仁王から連絡が来ていて、見ると13時に校門前とだけ書いてあった。いやいや当日連絡なんて急すぎるよ、もし予定あったらどうするんだと、むっとした顔で画面を見つめる。しかしこんな風に呼び出されたのは初めてで、誰かと間違えてるんじゃないかと思って確認すると、わたしへの連絡で間違いないらしい。その下にはバスタオルを持ってこいとも書いてあって、訳がわからないままそれを鞄に詰め込む。バスタオルなんてなにに使うんだろうな。のんびりしているともうすぐ出なければ間に合わない時間になっていて、慌てて家を飛び出した。もうすぐてっぺんに届く太陽が、わたしをじりじりと照らしていた。
 そして冒頭に戻る。ちなみにプールには通常鍵がかかっているが、合鍵を作って開けたらしい。理由はサボるのにいい場所だから。こんなことが出来るのは仁王だからかな、バレてもするっと逃げられそうだ。彼は奥の方へとずんずん歩いて行くので付いていくと、1番奥のところで止まった。ここは水深2メートル、落ちたらわたしはもちろん彼も足がつかない。そんなことを考えている間も、横の彼は黙りこくったままだ。

「仁王?」
「……」
「仁王?聞こえてんの?」

 腕を掴まれたと思ったら、わたしは水のなかにいた。ぼちゃんと派手な音が聞こえた気がした。目をぎゅっと瞑りながら、わたしが吐き出した空気が、ぼこぼこと水面へと上がっていくのがわかる。苦しさから水面へ顔を出して少し咳き込んだ。あまりにも急で水を飲んでしまった。ゆっくりと上がってきた仁王になにするんだと言いかけたときに、再び腕を掴まれて水の世界へ逆戻り。なんで、こんなことに。水中でうっすらと目を開けると、こちらを見据える仁王と目があった。彼の髪はふわふわと自由に漂っている。プールの水はやっぱり目に染みてすぐに閉じようかと思ったけど、できなかった。こちらを見つめる淡いブラウンの瞳に釘付けになった。
 わたしは、今この瞬間に理解した。わたしは仁王のことが、好きなんだ。次第に目で追いかけるようになっていたのに、それに気がつかないふりをしていた。話してくれるのが、話しかけてくれるのが、嬉しくて。彼の本当の姿を知ってる女子はわたしだけだって、ノートを貸すのもわたしくらいだって、独占欲と優越感に浸っていた。わたしに見せる笑顔を、他の女の子には見せないでほしいって。心のどこかで、わたしだけのものになってと願っていた。
 でも、この関係が崩れるのが怖かった。ゆっくり時間をかけて築き上げてきたんだ、崩れてなくなるくらいなら、このままでもいいと思った。なのに。好きだと気づいてしまった今、どうしたらいいのかわからない。
 ぐるぐると考えているとまた苦しくなって、水面へ顔を出す。プールのへりに掴まって呼吸を整えながら仁王のほうを見る。髪の毛がぺたんこで別人みたい、可愛い。なにするんだなんて言えないし、なんだか顔も見れないし、冷たい水のなかにいるのになんだか熱く感じる。

「びっくりしたか」
「そりゃ、びっくりしないほうがおかしいよ」
「だな」

 ちらりと彼を見やると、毛先からぽたぽたと垂れる水滴を気にもせず、目を細めて笑っている。それ、わたしが好きな表情。体育館裏の可愛がってる猫の話をするときに、よくしてるよね。薄く開いた口から白い歯がちょこっと見えて、年相応に見えて好きだ。今は髪の毛もぺったんこだからもっと幼く見える。可愛い、好き。——あぁ駄目だ、止まらなくなってしまった。あんな一瞬で、たかが10秒足らずで自覚してしまった。ちょろい女だと思われるだろうか。
 考え込んでいるわたしは気がつかなかった。仁王がすぐ近くに、互いの息がかかるくらい近くにいるなんて。なぁ、と呼びかけられてはっと顔を上げると、わたしの顔は彼の手に包まれる。視線が交差して、彼の瞳に吸い込まれそうだ。

「好いとうよ」

 猫に懐かれると、こんなにいいことがあるのかな。なんだか嬉しくて視界が滲んできてしまった。頑張って笑おうとしてみたけど難しいみたい。震える声でわたしも、と伝えると彼の顔が近づいてきた。こんなに可愛い猫からキスをしてもらえるなんて、わたしはなんて幸せ者なんだろう。猫と水の中でキスなんて、不思議な感覚だ。
 初めてのキスは塩素のツンとした味で、柔らかくて、温かかった。甘酸っぱいレモン味より全然いいなと思った。だって絶対に忘れないし、これからもこの匂いを嗅いだら思い出すから。猫とプールでキスしました、なんて最高だ。

「ふふ」
「なに笑っとるんじゃ」
「ううん、なんでもない」
「教えんしゃい」
「やだ」

 そのあと少し泳いでから上がったのだけれど、全身びしょ濡れのわたしたちにはバスタオルしかないわけで。こんなことするなら着替え持ってくればよかった、そんなんじゃ面白くなか、でもこれじゃ帰れないよ、じゃあ帰らんで。彼はわたしの手をそっと握って、一緒にいたいと言った。可愛い猫の頼みだもの、断れるわけがない。もうメロメロなのだ、きっと目に入れても痛くない。お互いに髪の毛をわしわしと拭いて、日向を探しに歩き出す。日向はそこらじゅうにあるけれど、彼はいいところを知ってそうだから任せよう。背中の太陽はわたしたちの洋服をゆっくりと乾かしている。わたしが繋いだ手をぎゅっと握ると、彼は嬉しそうに笑った。わたしの好きな表情だった。
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