日は陰り始めていた。
太陽が本日さいごのはたらきをぞんぶんにみせつける、この時間が、わたしは大嫌いだった。
家に帰らなくちゃならない。くちびるを噛む。淡い血の香りがすっと鼻先をかすめる。
学校もきらいだけれど、家はもっときらいだ。
わたしはしずかに、だれにもこの胸のうちをさとられないように、落ち着き払って、ゆっくりと通りを歩く。わたしはあまり通行人に目をやらないどころか、人の顔なんてほとんど見ない。それぞれの人生、そこにある悲喜こもごもを知ることに嫌悪感さえおぼえている。
あのひとの苦しみ、あのひとの悲しみ、あのひとの喜び、あのひとの楽しみ、どれひとつとってもまったくもってうっとうしい。
わたしのことなんか、だれひとり気にかけないくせに、一丁前に幸せそうな顔をしたり、しんどそうな顔をしたりしている、みんなきえちゃえばいいのに。わたしってすごく悪いこと考えてる。
だけど、こんなことを考えていたって、だれもわたしを咎めない。否定もしないし肯定もしない。わたしがなにを思って過ごしているのかなんて、だれも知らない。それどころか誰も気にしない。世界はそういうふうにできている。
お父さんもお母さんも、べつにひどいひとじゃない。わたしのいい子のふりにだまされてくれる。たぶんわたしにそんなに興味がないのだろう。きっと、いま、目の前を通り過ぎていった車がわたしをはねて殺したとしても、一年くらいすれば忘れてしまうだろう。
ときどき、だったら死んじゃおうかなって思うことがある。それでも今日まで生きてこれた理由は、たったの一年とはいえ、両親が被害者面をするのが許せなかったからだ。わたしはにくい。世界がにくい。両親がにくい。ともだちもにくい。好きなものなんてひとつもない。わたしにはなにもない。得意なことも、趣味も、とりたてて語るべき長所もない。わたしひとりがいなくなったって世界はなにも変わらないってことに、わたしはもう気づいている。
ただ惰性で登校して、ただ惰性で家にかえる。その繰り返し。
もうあきらめている。くちびるを噛む。したくちびるの表面から、なまなましい鉄の風味がする。わたしは悪い子のわたしを隠そうとするたび、これを味わわなければならない。もうつかれた。

この家の飾り気のないシンプルな引き戸は父の趣味だ。マイホームってそんなに大事だろうか。何十年っていうローンを組んでまで購入すべきものなのだろうか。わたしにはいっさいわからない。わからないなりに、丁重にドアノブをにぎる。

「ただいま」

返事はない。いつもなら幸福な家庭の自己紹介みたいにおあつらえ向きな「おかえり」がきこえるのに。
それになんだろう、あまりにもしずかだ。
誰の気配もしない。わたしはひとの気配というものを察知する能力はないが、それでもわかる。いつもと、ちがう。この時間、いつもなら家にいるはずの母がいない。リビングのあかりもついていない。

「おかえりなさい」

リビングのドアノブに手をかけたとき、聞こえたのは艶をもった男の声だった。

「…」

返事をしていいものだろうか。真っ暗なリビング、陰り始めた夕陽がどうにかガラス越しに声の主の影を映し出している。こえもかげも、その男がわたしの知っている誰かではないことを証明している。

「怖がらなくてもいいんですよ」

そう言われても、怖いものは怖い。なにかが起きている。わたしには予感があった。なにかいつもとちがう、なにかが起きている。
そして、わたしはそれに恐怖しているだけではないことにも気づいていた。
高揚している。
わたしのにくむべき『いつもどおり』を破壊するなにかが起きている。
それはなんだろう、ドアノブにかけた手のひらにじんわりと汗がにじむ。ひといきにそれをつかみ、ひねる。

「おかえりなさい」
もういちど、さきほどとはちがう声色でそう言われた。やさしい声色だった。
目の前に転がっている母の死体がなければ、わたしは目の前の男に好感さえもっただろう。あるいは、初恋の相手になっていてもおかしくないかもしれない。それくらいうつくしい、痩身の男だった。

「なに…これ…」
母はちいさな果物ナイフを胸のふかくまでしまい込み、身じろぎひとつしない。ぬめぬめとした血が床にほんのすこしひろがっている。

「ぼくが殺しました」

痩身の男はくちもとにかすかな笑みをうかべながら、よどみない口調で告げる。
それはほんとうのことだってわかる。
彼が、私の、母親を殺したってこと。
彼は、それをあたりまえのようにおこなったってこと。
そのぜんぶが伝わってきて、わたしは、唇をなめた。さきほどまではんでいたくちびるを、いたわるようになめた。

「わたしのことも、ころすの？」
「いいえ」
間髪いれずにかえってきたこたえ。彼の目的がみえない。母を殺した理由もわからない。だけど、もう恐怖なんてすこしもない。母を悼むきもちなんてみじんもない。わたし、いまこの瞬間、すごく悪い子になっている。自覚はある。
それでも、わたしは、わたしの『いつもどおり』をぶち壊しに来てくれた彼に、感謝すらおぼえる。わたしにはじぶんひとり殺すことはできなかった。けれど、彼はたやすくわたしの母を殺した。なんの目的があったのかなんて、どうでもいい。

「…名前を…教えて」
わたしは知りたかった。わたしのにくむべきにくむべき『いつもどおり』を殺しに来てくれた、神さまの名前を知りたいと思うことは、とても自然な感情だろう。

「フョードル。フョードル・ドストエフスキーです」
「ふぉー…どる？」
どうやらその神さまは日本人ではないらしい。彼は、名前を復唱できないわたしにゆったりとした笑みをうかべながら、
「フェージャと呼んでください」
と言った。
「ふぇーじゃ？」
「ええ、貴方にはぜひ、そう呼んでいただきたい」
母を殺した見知らぬ男とする立ち話にしてはどうもまぬけで、世間ずれしている、わたしとフェージャのそれが、わたしにとってはとても心地よいものだった。
目の前で息絶えている母親がひどくじゃまだった。

「ふぇーじゃ、わたし、これからどうすればいいのかな、救急車とか呼んだら、ふぇーじゃがつかまっちゃうかもしれない」
常識のある、いい子の私が顔を出す。
「貴方はもう何もしなくていいんですよ。ただ、ぼくの言うことだけをきいていてください。まずはここから立ち去りましょう」

それにしても、と彼はつけくわえた。
「貴方は肉親が殺されているというのに、ずいぶんと落ち着いているようですね。貴方の母親を殺したのは、ぼくなのですよ」
「わたし、きらいだったから」
「お母様がですか」
「ううん、ぜんぶ。全部きらいだったの。いつもどおりが、にくたらしかった。恵まれてないわけじゃないのに、なにもかも、ゆるせなかった。わたし、悪い子だから」

くちびるを噛む。ああ、またこの癖だ。わたしは悪い子であるとことばで認めながら、必死でほんとうの悪いところを隠そうとしている。だからくちびるを噛んでうつむく。じぶんのおろかさに、泣き出してしまわないように。

「たしかに、貴方は悪い子かもしれませんね。それなら、貴方の罪は、ぼくが裁いてあげます」

徹頭徹尾、わけのわからないことばにおもわずこうべをあげたその瞬間、くちびるを奪われた。
「んっ…」
音もなく、予感もなく、したくちびるが強く噛まれ、わたしはおもわずくぐもった声を出してしまった。
ほのかに口の中に鉄の味が広がる。

「ふぇーじゃ？」
フェージャは熱をはかるときみたいに、私の額に細く骨ばった指先をあてて、
「痛かったでしょう。これでもう、貴方の罪は赦されました」
と微笑んだ。
「貴方が悪い子になるたびに、ぼくがかならず貴方を罰します。だから二度と、自分で自分を罰してはいけません。わかりましたか？」
くちびるの痛みと衝撃と、ことばに秘められた違和感によって、わたしはやっと理性らしきものをとりもどした。
彼はわたしにくちびるを噛むくせがあることを知っていたのだろうか。いつから、彼はわたしを知っていたのだろうか。なんで、母を殺したのだろうか。わたしを罰するためだろうか。なんで、わたしなんだろうか。

「わかった。やくそくする」

あたまにうかんだそれらの疑問について、考えることを、わたしは放棄した。考える必要がないからだ。わたしはもう、なにもしなくていい。フェージャのいうことだけきいていればいい。そうすればもう、悪い子になんてならなくてすむ。悪い子になったって、フェージャが裁いてくれる。わたしはなにも、考えなくていい。

「いい子ですね」

そっと頭に置かれたその華奢な指先が、わたしがいい子でいられる理由のひとつとして存在するなら、これほど頼もしいものはない、と思った。