抱え込んでいたうさぎのぬいぐるみに、さっきまでの夢がすいこまれていった。悪夢と呼んで、さしつかえのないたぐいのものだったと思う。
男とくさったジャムが関係する夢だったはずだ。
なまあたたかいミルクみたいに、うっすらととろみのある汗が枕に染みた。凪いだ夜の空気につつみこまれて、ひんやりとした枕に、もう一度あたまをうずめる気にはなれなかった。
額にまとわりついた前髪をゆびさきで梳くと、にじんだ汗は、わたしのからだと接点をうしなっているということがよくわかった。
なにか不吉なものをすっかりからだから出しきってしまったようで、妙にさっぱりとした気持ちで覚醒してしまったよふけには、日記に夢のことでも書きとめておこうかとおもった。けれどそうしなかったのは、私の日記をぬすみ見ている男がいるからだった。「くさったジャムの瓶はあけない方がいいですよ」と夢の中の男も言っていた。
わたしはシーツのうえにちりぢりになったじぶんの意識のかけらをすくいあつめるように、その表面をなでて整える。キングサイズのベッドのはしのほうまでしっかりとなでていくと、そこにほんのりとしたぬくもりが感じられた。わたしがねむっていたところじゃないのに、まるでそれが当然のことように、ほのかなぬくもりがのこされていた。首をかしげる必要はなかった。そこでねむっていたのはまちがいなく、私の夢にもでてきたあの男だ。
「フェージャ」
そこらじゅうにはりつめた糸のようなものを感じてしまうくらいに静謐なベッドルームに、わたしの声はいやにひびいた。
「どうしましたか」
すぐ背後から返答があった。ふりかえると、フェージャはまどのすぐちかくに置かれたラタン椅子に腰かけていた。
「きょうも、うなされていましたよ。どんな夢をみたのですか」
わたしにそうやさしく語りかける、その声のぬしこそが、わたしの夢にでてきたあの男そのものであり、この部屋の本来の主だ。その男の声はよく通るのに、なぜか、この部屋にはりつめた糸のようなものを断ち切ることはなかった。
「くさったジャムの瓶はあけないほうがいいって、フェージャが言うゆめ」
彼はわたしのみた夢について、いつも知りたがる。わたしは夢を日記にかきとめておくくせがあったから、彼はわたしの日記をぬすみ見るようになったのだと確信している。わたしの夢に彼がでてきたことを書き記した当日は、彼の機嫌がすこぶるいいのだ。
わたしは日記にかいたことを読まれてしまうよりは、彼にじぶんからぜんぶ話してしまったほうがいくぶんか気がらくになる。今日のような不可解で、考察が必要な夢のばあいは、とくに。
「貴方はその『くさったジャムの瓶』が、何かの暗喩ではないかと不安なんでしょう」
わたしはこくり、とうなずく。彼はいつもそんな調子でわたしの言いたいことを先に言ってくれる。それがとても心地よかった。わたしがなにも言わなくても、いつも彼が考えて、答えを出してくれるから、わたしは安心してここで暮らせているのだ。
「すこし、記憶のふたがあいてしまっているのかもしれませんね」
ひゅ、とか細い音をたてて、喉の浅いところに息が絡まる。記憶、そんなものは。

私は彼といつ出会ったのかさえ、覚えていない。気がつくと彼はわたしの一挙手一投足に口出しできるくらい、とくべつな位置にいた。わたしにとってはそれがふつうだった。
彼と出会う以前の記憶がなくても、わたしはいままでの生活が、これからもつづいてくれるのであれば、それ以上のことはのぞまなかった。

わたしの思考をさえぎるように、彼がそっとこちらへ、近寄ってくる。
彼がラタン椅子から立ち上がる音、たったそれだけのささいな音に心臓がちぢみあがるのがわかった。
彼はわたしが記憶をとりもどすことをこころよく思っていない。それくらいはわたしにもわかっている。記憶のふたがあいてしまうことは、くさったジャムの瓶があいてしまうことよりよほどこわい。
わたしは、わたしが記憶をとりもどすことがこわい。記憶をとりもどしてしまったら、彼とはいっしょにいられなくなる気がする。わたしの記憶はくさったジャムの瓶みたいに、きっとおぞましく、いまいましいものなのだと思う。そんなものにはふたをして、はやく捨ててしまって、そんなものがあったことさえ忘れて、彼といっしょに平和に暮らしたい。わたしののぞみはただそれだけなのだ。
「フェージャ、」
のどもとがひくついて、うまく声を出せないでいるわたしを、彼がそっとだきしめる。ひどくよわった子猫にそうするように、ひどくやさしくあたまを撫でられる。
「大丈夫ですよ」
「おもいだしたくない、わたしなんにも、おもいだしたくないの」
「わかっています」
彼は幼子をさとすように、赤子をあやすように私の髪を梳く。
「なのに……」
「今日はお薬を飲んでねむりましょう」
そのことばの意味がわかったときには、もうくちびるをふさがれていた。ちいさなあまにがい錠剤が、ふるえるのどを通過して、わたしのからだのいちぶになっていく。

「……ねむれるかな」
「今日は貴方がねむりについたあとも、となりにいますよ」
「ほんとう？」
「ええ」
「それなら、ねむれるかもしれない」

どろり、とした重みのある眠気がおそいかかってくる。それがこわくて、彼の手首をずっとにぎっていた。
だから、

「貴方はほんとうにかわいらしい人です」
「ほんとうはもう、すべてを思い出しているくせに」
「ぼくが貴方のご両親を殺したことも、貴方の仲良しさんたちから貴方を引き離したことも」

なにも、きこえていないふりをした。
わたしにはもう、ほかになにもないのだから。