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ヨコハマの星

星ひとつ見えない夜空を彼女は顎ですくうように指して、「ヨコハマの星はきれいだね」と言った。ドストエフスキーにとって、彼女の言うことはいつも難解であった。
今日も横浜の夜空に星はひとつもみえなかった。星々はとどこおりをもった雲におおわれているわけではない。それでも、横浜の繁華街からはもとより、まちはずれのこの公園からだって、星なんてひとつも見えない。昨日の夜だってそうだっただろう。まちのあかりが夜空のスクリーンをおおい、星のひかりなど簡単に消し去ってしまう。

この街から出たことがない彼女がつくりだした妄想のたぐいに、巻き込まれつつあるのだろうか。それならそれで構わないとドストエフスキーは思った。
彼女の言うことはいつも難解だ。どれひとつとってうまく理解できたためしがない。
いつも、いちどはわかった気になるのだが、それは彼女が分かった気にさせて会話を終わらせようとしてくるだけで、じっさいのところ、なにひとつ掴めないまま今日のこの会話にいたっている。
彼女だってすこしもわかってもらおうという気はないのだろう。言葉を続ける気もなさそうだ。
彼女が見ている星について、知りたいと思った。
そのなまえ、そのかたち、その経歴についてまとめた文書を自らの聖書にして、いつまでも信仰していたいと思った。分からないことを知りたいと思う気持ちはいつもひとりよがりで、どこか狂気じみている。
ヨコハマの星について考える。
もちろんそこに星はない。
やけにこうごうしい暗がりが、袖触れ合うこともうっとうしく感じるような、素っ気ない横浜の夜に飾り気のない夜を落とし込んでいるだけだ。
彼女はそれに手をのばす。それが当たり前のように。そこに不自然さも演技がかった感じも一欠片さえ見当たらないのが不思議だった。
その姿勢は美しいわけでも絵になるわけでもなく、ただそこに手を伸ばすべき何かがあったから、手を伸ばしたのだという印象だった。

「ヨコハマの星は、ベツレヘムの星より、ずっと凄いんだよ」
彼女は一等星すら見あたらない夜空を撫でるように指さす。
愛おしげに空を見やる彼女から見えるものについて、ドストエフスキーにはいっさいがわからなかった。けれど今日の彼女は親切で、いつもより寂しそうだった。
わかってもらおうとしているのだろうか。
わかってもらいたくなるようななにかが、あったのだろうか。

ベツレヘムの星。
聖書に登場するその星はイエス・キリストの誕生を東方の三博士に知らせ、ベツレヘムへ導いた、宗教的な記号をもつ星だ。
薄靄に隠されたみたいな横浜の星と、ベツレヘムの星を、彼女以外に結びつける者はいないように思えた。

「まちのあかりが、ヨコハマの星を見えなくさせているんだって、フェージャが言ってた」
彼女は星を見る瞳で、こちらを見る。
「ヨコハマの空に星はないけれど、たくさんの人が生活しているこの街では、たくさんの出会いが生まれているんだよ」

星を射抜くような視線が、怖かった。

「ヨコハマの星が、きっとフェージャにとっての神さまも、この街に生まれてくるって教えてくれてるよ」

その瞬間の彼女はちっとも、寂しそうな顔をしていないことに気づいた。
彼女はぼくにわかってもらおうとしたんじゃないのだ、ということがはっきりとわかった。
きっと今日のぼくは誰もが寝静まったうちへ帰るみすぼらしい父親のような、冴えない瞳をしていたのだろう。
彼女はぼくに教えてくれたのだ。そんなぼくをみている神さまがいると。

「ええ、きっともう、ぼくはその神さまに出会っているのでしょうね」

そう呟いたぼくは、誰よりも彼女にわかってほしかった。ぼくの神さまについて。
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