アズリエル
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これは、むかし、むかしの話。
私は小さなモンスターだったので、すこし移動するのもそれはそれは大変で。いつもほかのモンスターの服にくっついて移動していたんだ。もちろん、最初のうちは断りを入れていた。モンスターは思いやりでできているから、断られることはほとんどな かったんだ。もちろん、中には断るモンスターもいたけどね。
ただ、毎度毎度お決まりのパターンが億劫になった私は、ある日から何も言わなくなった。図体の大きなモンスターたちの衣服に内緒で潜り込んで、どこにでも行った。
そう。だからきっと、バチが当たったんだ。
ぴょん、と飛び出た先は見知らぬ場所。ケロケロと鳴くフロギーにここはどこかと尋ねたら、ホームの近くだと返ってきた。親切なフロギーは、扉の外は雪の森だから、近付かないほうがいいとまで忠告をくれる。予想外の優しさに胸を打たれて、泣きそうだった。
ただ、問題もある。寒さに弱い身体じゃ、扉の外には出られない。つまり、身動きが取れない。私をここまで連れてきてくれたモンスターの姿を探しても、体格が違いすぎて探しきれなかった。既に用事を済ませて外に出ていってしまったのかもしれない。
もしかしたら。一生をここで過ごすことになる?
嫌な予想が全身を駆け巡って、脚に力が入らない。
思い返せば、いままで私が話しかけたモンスターはみんな、私の身体を気遣ってくれていた。寒い場所を避けて、なるべく温かい場所に連れていってくれた。
話さなきゃわからないことなんて沢山あるのに、それを怠った。いくら、モンスターが思いやりでできているとはいえ、相手がそこにいると思わなければ、その思いやりが発揮されることはない。ちいさな私は、ここにいると主張しなければならなかったのに。
要するに、この事態は自業自得だ。
やらかしに対する苛立ちは募るばかりで、解決策はみつからない。遺跡にいるモンスターも寒さには強くないし、蜘蛛の糸は防寒に向いていない。ここに寒さに強いモンスターが通りがかれば話は別だけど、そんなうまい話が転がってくるはずもない。
「……あれ? 迷子?」
ところがどっこい。それが、転がり込んできたのである。
話しかけてきたのは子どもだった。植物みたいな色のセーターを着た、白い毛に覆われたモンスターで、寒さには強いだろうな、と真っ先に思った。身体はちいさい。……と言っても、私と比較したら誰もが何十、何百倍も大きいんだけど。なんて言ったって、私の身体のサイズは遺跡にある岩にだって余裕で負けるから。
少年はあどけなさを残した面影をしている。誰かに似ているような気がしたけど、すぐには思い出せなかった。なので、思い出せないことは脇に置いて、じっと観察を続ける。好奇心旺盛らしく、彼はしゃがみこんで、私を興味深そうに見つめていた。頭の上で元気に跳ねた毛は、そのまま快活さを表しているかのよう。
正直なところ。救いの手だなんて思わなかった。
子どもはどこにでも行ってしまうから。私の望まない場所にだって行ってしまう。ウォーターフェルに住む子どもは顕著で、頼んでもいないのに川に飛び込むから、何度も命の危機を感じた。嫌な思い出だ。
だから、私の中で子どもに頼るという選択肢は最初からなかった。いまだって、すこし鬱陶しいと思っている。……思っていたはずなのに。
彼があまりにも親身になって話を聞いてくれるから、話すつもりなんてなかったのに、事情を説明してしまった。頼る気なんて、これっぽっちもなかったのに。
「じゃあ、ボクが送り届けるよ。ちょうど帰るところだったし」
ちいさな少年が、とっておきのヒーローに見えた瞬間だった。
「いいの?」
「うん、ホームには遊びに来ただけだから」
ニコニコと語りかける彼は、
「……たすけてくれてありがとう。私の名前はナル。君は?」
「ナルって言うんだ、いい名前だね。ボクはアズリエルだよ。短い間かもしれないけど、よろしくね」
差し伸べられた両手は、私が乗りやすいように配慮されて、彼の手の甲はぴったりと遺跡の大地にくっついている。子どもだから汚れなんて気にしないのかもしれないけど、初対面の私に対して、そこまで親切にしてくるなんてむず痒い。頭の中では、子どもとして十把一絡げに見ていたので、罪悪感もすこしある。
アズリエルは、私が振り落とされないようにゆっくりと歩き出した。モフモフの毛は心地好くて、気を抜いたら眠ってしまいそう。ううん、だめだめ。ここまで恩義を受けておいて、ぐうすか眠るなんて恥知らずな行為はできない。だいぶ眠いけど。
「あ。お腹すいてる?」
睡魔に抗っていると、絶妙なタイミングでアズリエルが問いかけてきた。さらに眠気を誘う魂胆なのでは? 思わず浮上した疑惑が私の口を閉ざす。無言のままでいると、彼はがさごそと荷物を漁った。
「はい、これ。かあさんが作ってくれたパイなんだ。すっごく元気になるから、おひとつどうぞ」
相変わらずこちらを気遣うアズリエルは、善意でパイを差し出してくれた。空腹を訴える身体に食欲はある。においからして美味しい。間違いなく絶品だろう。でも、 食べたらきっと眠くなる。ただでさえ私のsleepiness gaugeは限界に近いのに。でも、彼の厚意を無下にしたいわけじゃないのだ。ぐらぐらと揺れる天秤は、微笑みを浮かべるアズリエルを前に陥落した。
「……こんな美味しいものがあるんだ」
「うん。かあさんのパイはとーっても美味しいんだ!」
香ばしさに誘われて、初めて食べたパイは、口当たりが軽い。優しい甘さのバタースコッチと、独特なシナモンの香りが柔らかく広がっていく。夢中で食べていたら、私の身体よりも大きなパイはあっという間になくなってしまった。
「ぜ、全部食べちゃってごめん……!」
「ううん、気にしないで。美味しく食べてもらったって知ったら、きっとかあさんも喜ぶよ」
「……そうだね。よろしく伝えてほしいな」
アズリエルが開いた扉の先は、凍えそうなほどに極寒の地。クモは間違いなく突破できない。平気そうな表情をしている彼が信じられない。
「キミは寒いところが苦手なんだねえ。大丈夫。ボクに任せて」
アズリエルの手は温かく、寒さをしのぐには十分過ぎるほどだった。それだけに留まらず、彼は魔法の炎で私に温もりを届けてくれる。炎が私の身体を焼くことはない。
忌々しい寒さを象徴する白が、こんなにも魅力的に見える日が来るなんて、思いもしなかった。きっと、まっさらな雪を見る度に彼を思い出すのだろう。優しい少年と、与えられた温もりを。
「ついたよ。あとは大丈夫?」
ホットランドの一角まで運んでくれたアズリエルは、私を静かに下ろす。戻ってきた蜘蛛の住処には、遠巻きに見守るクモの群れがいた。突然の来訪者を観測する彼らに、傍らにいるアズリエルに助けてもらったことを説明する。感激したクモたちは、帰路を急ぐ彼が次に訪れたとき、一堂歓迎すると告げた。私も同じ気持ちだ。今日はなんにもお礼らしいことができなかったから、仕切り直したいし。
……うん。そのためにはやっぱり、美味しいお菓子でお出迎えできたほうがいい。あのパイには及ばなくても、一時でも至福の時間を過ごしてもらえたらそれがいい。
その日から、私のお菓子作りの修行は始まった。目指すはあの美味しいパイ。目標は大きいほうがいい。小さいのは身体だけで十分だから。
そうそう。心優しいアズリエルはその後も何度かホームに行っていたらしく、遺跡に巣食うクモを助けてくれていたらしい。私は知らなかったけど、ホームにも遺跡にも私以外のクモが取り残されていたんだって。
私じゃなくても、彼は手を差し伸べてくれる。
それが誇らしく、ちょっと寂しい。タイミングが中々合わなくて、クモたちから報告を聞く度に歯痒い気持ちになった。改めて感謝とお礼を伝えたいのに、機会は巡ってこない。会えなくてもいいから、せめて感謝を伝えたくて、ほかのクモに言付けと贈り物を託した。無事に受け取ってもらっているみたいだけど、結局、私が直接伝えられることはなかった。
――ある日。地底中に、王の子どもの訃報が駆け巡り、新たな政策が打ち出された。地底にやってきたニンゲンに対する内容だったので、興味がなかった。私には関係ないと、いつものようにお菓子作りに励み続け、私はとうとう師匠を見つけた。しかも、私と同じくクモのモンスター。私よりも何百倍も大きな身体で、器用かつ優雅にティータイムを楽しむ姿は愛らしい。
遺跡に取り残されたクモたちを救うために、彼女は次々とスイーツを打ち出す。そう言えば、最近アズリエルの話を聞かない。彼なら、喜んで遺跡に取り残されたクモたちに手を差し伸べそうなのに。調子でも悪いんだろうか。
そんなことをぽつりと呟いたら、ほかのクモがとても驚いた顔をして、驚愕の事実を告げてきた。
「……は?」
アズリエルは王の子どもだということも、ニンゲンのせいで殺されたのだということも。今日まで知らずにいたのだ。
ある日、興味がないと聞き流した訃報は、私の大切なモンスターの最期を報せるものだったのだ。
いつだって、私は気付くのが遅い。いまからじゃあ、もう何をしたって手遅れ。遺跡で一生を終えるかもしれない、と絶望したときとは比にならないほど、心は千々に乱れ、身を裂かれるような痛みに襲われる。
こんな急に終わりがやってくると知っていたら、お菓子作りなんてしなかったのに。
だから、いまの私はもうお菓子を作っていない。マフェットの手伝いくらいはするけど、それだけ。
私の日常は変わった。アズリエルの死を知ったあとは、たまにお城に赴いて庭に花を供える。アズリエルは花の世話もすきだったと聞いたから。もしかしたら、彼の死後に知った情報のほうが多いのかもしれない。
もうチリも残っていない最期の庭は、寒々しいほどに明るくて、あんまり長居できない。逃げ帰るようにホットランドに戻ると、目の前にお花が一輪現れた。金色の花。お城で見掛けた花にそっくりだ。
「……お菓子、作らないの?」
「うん? うん。もうやめたんだ」
この喋る花は、いつからか私を訪れるようになった。会った当時はそれは驚いたものだ。喋る花なんて、エコーフラワーしか知らなかったから。一回で終わるかと思いきや、その後もこうして適当な会話を繰り広げてくる。目的は定かじゃないけど、スイーツが目当てなんじゃないかと睨んでる。私のことを話しかけやすいと思っているのかも。マフェットの値段設定は、決して冗談ではないから。
「……あっそ」
私はもう作っていないし、マフェットのスイーツは、お金を払わない客には渡せない決まりなんだ。残念だけど、お引き取り願うしかない。
「気が向いたら、作ってよ。美味しかったから」
「あれ? 食べたことあった?」
むかし、お菓子を作っていた頃は、みんなに感謝を伝えたくてたくさん振る舞っていた。だから、具体的に誰に食べてもらったのかまでは覚えていない。
「……昔ね」
「わあ、覚えられてると恥ずかしいなぁ……。ふふ、美味しいって言ってくれてありがとう」
そっぽを向いて話した花は恥ずかしがり屋なのかもしれない。すこしだけ表情を赤らめているように見える。顔部分が白いので変化が丸わかりだ。
私のお菓子を食べた大勢の中のひとり、なのだろう。まさか時間を経て褒められると思わなかったので、舞い上がってしまう。物理的に。
「……やめろって」
さすがに見苦しかったのか、苦言を呈されてしまった。猛省。深呼吸で落ち着きを取り戻して、咳払いで場を整える。
「もう、作るつもりはなかったんだけど……、気が、向いたら、ね。また作ろうかな。……そのときは、食べてくれる?」
そうして、また、思い知らされる。
私がお菓子を作り始めた本当の理由は、彼に、アズリエルに、食べてもらいたかったから。喜んでもらいたかったんだ。最初はお礼と感謝の気持ちを伝えたかっただけなのに、不思議。その気持ちだけじゃ足りないくらい、ううん、溢れそうなほどに、どうしようもなくすきだったんだ。
笑っちゃうよね。
彼のことほとんど知らなかったのに。
いなくなってから気付いたって、もう遅いのに。
「――しょうがないから食べてあげるよ」
花の声で我に返る。意地っ張りな返答だけど、肯定に違いはなかった。
「ふふ、なあに、それ。食べたくないってこと?」
「そうは言ってないだろ」
もう、アズリエルはどこにもいないから。喪失感でぽっかりと空いた穴は、他愛ない会話でも埋まらないけど。
過去を振り返ってばかりじゃ、きっとまた後悔する。未来の約束を見据える。
あの庭に咲いた花によく似た姿をしているから、まるで彼から手向けられた使者のようだ。そんな風に、錯覚してしまいそうになる。勘違いしないよう、つよく自分を戒めた。
「冗談だよ。よろしくね」
今後供える花だけど。金色だけはやめておこう。アズリエルと目の前の花を同一視したくないのに、してしまいそうだから。
私は小さなモンスターだったので、すこし移動するのもそれはそれは大変で。いつもほかのモンスターの服にくっついて移動していたんだ。もちろん、最初のうちは断りを入れていた。モンスターは思いやりでできているから、断られることはほとんどな かったんだ。もちろん、中には断るモンスターもいたけどね。
ただ、毎度毎度お決まりのパターンが億劫になった私は、ある日から何も言わなくなった。図体の大きなモンスターたちの衣服に内緒で潜り込んで、どこにでも行った。
そう。だからきっと、バチが当たったんだ。
ぴょん、と飛び出た先は見知らぬ場所。ケロケロと鳴くフロギーにここはどこかと尋ねたら、ホームの近くだと返ってきた。親切なフロギーは、扉の外は雪の森だから、近付かないほうがいいとまで忠告をくれる。予想外の優しさに胸を打たれて、泣きそうだった。
ただ、問題もある。寒さに弱い身体じゃ、扉の外には出られない。つまり、身動きが取れない。私をここまで連れてきてくれたモンスターの姿を探しても、体格が違いすぎて探しきれなかった。既に用事を済ませて外に出ていってしまったのかもしれない。
もしかしたら。一生をここで過ごすことになる?
嫌な予想が全身を駆け巡って、脚に力が入らない。
思い返せば、いままで私が話しかけたモンスターはみんな、私の身体を気遣ってくれていた。寒い場所を避けて、なるべく温かい場所に連れていってくれた。
話さなきゃわからないことなんて沢山あるのに、それを怠った。いくら、モンスターが思いやりでできているとはいえ、相手がそこにいると思わなければ、その思いやりが発揮されることはない。ちいさな私は、ここにいると主張しなければならなかったのに。
要するに、この事態は自業自得だ。
やらかしに対する苛立ちは募るばかりで、解決策はみつからない。遺跡にいるモンスターも寒さには強くないし、蜘蛛の糸は防寒に向いていない。ここに寒さに強いモンスターが通りがかれば話は別だけど、そんなうまい話が転がってくるはずもない。
「……あれ? 迷子?」
ところがどっこい。それが、転がり込んできたのである。
話しかけてきたのは子どもだった。植物みたいな色のセーターを着た、白い毛に覆われたモンスターで、寒さには強いだろうな、と真っ先に思った。身体はちいさい。……と言っても、私と比較したら誰もが何十、何百倍も大きいんだけど。なんて言ったって、私の身体のサイズは遺跡にある岩にだって余裕で負けるから。
少年はあどけなさを残した面影をしている。誰かに似ているような気がしたけど、すぐには思い出せなかった。なので、思い出せないことは脇に置いて、じっと観察を続ける。好奇心旺盛らしく、彼はしゃがみこんで、私を興味深そうに見つめていた。頭の上で元気に跳ねた毛は、そのまま快活さを表しているかのよう。
正直なところ。救いの手だなんて思わなかった。
子どもはどこにでも行ってしまうから。私の望まない場所にだって行ってしまう。ウォーターフェルに住む子どもは顕著で、頼んでもいないのに川に飛び込むから、何度も命の危機を感じた。嫌な思い出だ。
だから、私の中で子どもに頼るという選択肢は最初からなかった。いまだって、すこし鬱陶しいと思っている。……思っていたはずなのに。
彼があまりにも親身になって話を聞いてくれるから、話すつもりなんてなかったのに、事情を説明してしまった。頼る気なんて、これっぽっちもなかったのに。
「じゃあ、ボクが送り届けるよ。ちょうど帰るところだったし」
ちいさな少年が、とっておきのヒーローに見えた瞬間だった。
「いいの?」
「うん、ホームには遊びに来ただけだから」
ニコニコと語りかける彼は、
「……たすけてくれてありがとう。私の名前はナル。君は?」
「ナルって言うんだ、いい名前だね。ボクはアズリエルだよ。短い間かもしれないけど、よろしくね」
差し伸べられた両手は、私が乗りやすいように配慮されて、彼の手の甲はぴったりと遺跡の大地にくっついている。子どもだから汚れなんて気にしないのかもしれないけど、初対面の私に対して、そこまで親切にしてくるなんてむず痒い。頭の中では、子どもとして十把一絡げに見ていたので、罪悪感もすこしある。
アズリエルは、私が振り落とされないようにゆっくりと歩き出した。モフモフの毛は心地好くて、気を抜いたら眠ってしまいそう。ううん、だめだめ。ここまで恩義を受けておいて、ぐうすか眠るなんて恥知らずな行為はできない。だいぶ眠いけど。
「あ。お腹すいてる?」
睡魔に抗っていると、絶妙なタイミングでアズリエルが問いかけてきた。さらに眠気を誘う魂胆なのでは? 思わず浮上した疑惑が私の口を閉ざす。無言のままでいると、彼はがさごそと荷物を漁った。
「はい、これ。かあさんが作ってくれたパイなんだ。すっごく元気になるから、おひとつどうぞ」
相変わらずこちらを気遣うアズリエルは、善意でパイを差し出してくれた。空腹を訴える身体に食欲はある。においからして美味しい。間違いなく絶品だろう。でも、 食べたらきっと眠くなる。ただでさえ私のsleepiness gaugeは限界に近いのに。でも、彼の厚意を無下にしたいわけじゃないのだ。ぐらぐらと揺れる天秤は、微笑みを浮かべるアズリエルを前に陥落した。
「……こんな美味しいものがあるんだ」
「うん。かあさんのパイはとーっても美味しいんだ!」
香ばしさに誘われて、初めて食べたパイは、口当たりが軽い。優しい甘さのバタースコッチと、独特なシナモンの香りが柔らかく広がっていく。夢中で食べていたら、私の身体よりも大きなパイはあっという間になくなってしまった。
「ぜ、全部食べちゃってごめん……!」
「ううん、気にしないで。美味しく食べてもらったって知ったら、きっとかあさんも喜ぶよ」
「……そうだね。よろしく伝えてほしいな」
アズリエルが開いた扉の先は、凍えそうなほどに極寒の地。クモは間違いなく突破できない。平気そうな表情をしている彼が信じられない。
「キミは寒いところが苦手なんだねえ。大丈夫。ボクに任せて」
アズリエルの手は温かく、寒さをしのぐには十分過ぎるほどだった。それだけに留まらず、彼は魔法の炎で私に温もりを届けてくれる。炎が私の身体を焼くことはない。
忌々しい寒さを象徴する白が、こんなにも魅力的に見える日が来るなんて、思いもしなかった。きっと、まっさらな雪を見る度に彼を思い出すのだろう。優しい少年と、与えられた温もりを。
「ついたよ。あとは大丈夫?」
ホットランドの一角まで運んでくれたアズリエルは、私を静かに下ろす。戻ってきた蜘蛛の住処には、遠巻きに見守るクモの群れがいた。突然の来訪者を観測する彼らに、傍らにいるアズリエルに助けてもらったことを説明する。感激したクモたちは、帰路を急ぐ彼が次に訪れたとき、一堂歓迎すると告げた。私も同じ気持ちだ。今日はなんにもお礼らしいことができなかったから、仕切り直したいし。
……うん。そのためにはやっぱり、美味しいお菓子でお出迎えできたほうがいい。あのパイには及ばなくても、一時でも至福の時間を過ごしてもらえたらそれがいい。
その日から、私のお菓子作りの修行は始まった。目指すはあの美味しいパイ。目標は大きいほうがいい。小さいのは身体だけで十分だから。
そうそう。心優しいアズリエルはその後も何度かホームに行っていたらしく、遺跡に巣食うクモを助けてくれていたらしい。私は知らなかったけど、ホームにも遺跡にも私以外のクモが取り残されていたんだって。
私じゃなくても、彼は手を差し伸べてくれる。
それが誇らしく、ちょっと寂しい。タイミングが中々合わなくて、クモたちから報告を聞く度に歯痒い気持ちになった。改めて感謝とお礼を伝えたいのに、機会は巡ってこない。会えなくてもいいから、せめて感謝を伝えたくて、ほかのクモに言付けと贈り物を託した。無事に受け取ってもらっているみたいだけど、結局、私が直接伝えられることはなかった。
――ある日。地底中に、王の子どもの訃報が駆け巡り、新たな政策が打ち出された。地底にやってきたニンゲンに対する内容だったので、興味がなかった。私には関係ないと、いつものようにお菓子作りに励み続け、私はとうとう師匠を見つけた。しかも、私と同じくクモのモンスター。私よりも何百倍も大きな身体で、器用かつ優雅にティータイムを楽しむ姿は愛らしい。
遺跡に取り残されたクモたちを救うために、彼女は次々とスイーツを打ち出す。そう言えば、最近アズリエルの話を聞かない。彼なら、喜んで遺跡に取り残されたクモたちに手を差し伸べそうなのに。調子でも悪いんだろうか。
そんなことをぽつりと呟いたら、ほかのクモがとても驚いた顔をして、驚愕の事実を告げてきた。
「……は?」
アズリエルは王の子どもだということも、ニンゲンのせいで殺されたのだということも。今日まで知らずにいたのだ。
ある日、興味がないと聞き流した訃報は、私の大切なモンスターの最期を報せるものだったのだ。
いつだって、私は気付くのが遅い。いまからじゃあ、もう何をしたって手遅れ。遺跡で一生を終えるかもしれない、と絶望したときとは比にならないほど、心は千々に乱れ、身を裂かれるような痛みに襲われる。
こんな急に終わりがやってくると知っていたら、お菓子作りなんてしなかったのに。
だから、いまの私はもうお菓子を作っていない。マフェットの手伝いくらいはするけど、それだけ。
私の日常は変わった。アズリエルの死を知ったあとは、たまにお城に赴いて庭に花を供える。アズリエルは花の世話もすきだったと聞いたから。もしかしたら、彼の死後に知った情報のほうが多いのかもしれない。
もうチリも残っていない最期の庭は、寒々しいほどに明るくて、あんまり長居できない。逃げ帰るようにホットランドに戻ると、目の前にお花が一輪現れた。金色の花。お城で見掛けた花にそっくりだ。
「……お菓子、作らないの?」
「うん? うん。もうやめたんだ」
この喋る花は、いつからか私を訪れるようになった。会った当時はそれは驚いたものだ。喋る花なんて、エコーフラワーしか知らなかったから。一回で終わるかと思いきや、その後もこうして適当な会話を繰り広げてくる。目的は定かじゃないけど、スイーツが目当てなんじゃないかと睨んでる。私のことを話しかけやすいと思っているのかも。マフェットの値段設定は、決して冗談ではないから。
「……あっそ」
私はもう作っていないし、マフェットのスイーツは、お金を払わない客には渡せない決まりなんだ。残念だけど、お引き取り願うしかない。
「気が向いたら、作ってよ。美味しかったから」
「あれ? 食べたことあった?」
むかし、お菓子を作っていた頃は、みんなに感謝を伝えたくてたくさん振る舞っていた。だから、具体的に誰に食べてもらったのかまでは覚えていない。
「……昔ね」
「わあ、覚えられてると恥ずかしいなぁ……。ふふ、美味しいって言ってくれてありがとう」
そっぽを向いて話した花は恥ずかしがり屋なのかもしれない。すこしだけ表情を赤らめているように見える。顔部分が白いので変化が丸わかりだ。
私のお菓子を食べた大勢の中のひとり、なのだろう。まさか時間を経て褒められると思わなかったので、舞い上がってしまう。物理的に。
「……やめろって」
さすがに見苦しかったのか、苦言を呈されてしまった。猛省。深呼吸で落ち着きを取り戻して、咳払いで場を整える。
「もう、作るつもりはなかったんだけど……、気が、向いたら、ね。また作ろうかな。……そのときは、食べてくれる?」
そうして、また、思い知らされる。
私がお菓子を作り始めた本当の理由は、彼に、アズリエルに、食べてもらいたかったから。喜んでもらいたかったんだ。最初はお礼と感謝の気持ちを伝えたかっただけなのに、不思議。その気持ちだけじゃ足りないくらい、ううん、溢れそうなほどに、どうしようもなくすきだったんだ。
笑っちゃうよね。
彼のことほとんど知らなかったのに。
いなくなってから気付いたって、もう遅いのに。
「――しょうがないから食べてあげるよ」
花の声で我に返る。意地っ張りな返答だけど、肯定に違いはなかった。
「ふふ、なあに、それ。食べたくないってこと?」
「そうは言ってないだろ」
もう、アズリエルはどこにもいないから。喪失感でぽっかりと空いた穴は、他愛ない会話でも埋まらないけど。
過去を振り返ってばかりじゃ、きっとまた後悔する。未来の約束を見据える。
あの庭に咲いた花によく似た姿をしているから、まるで彼から手向けられた使者のようだ。そんな風に、錯覚してしまいそうになる。勘違いしないよう、つよく自分を戒めた。
「冗談だよ。よろしくね」
今後供える花だけど。金色だけはやめておこう。アズリエルと目の前の花を同一視したくないのに、してしまいそうだから。
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