2日目
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夜が明けて、今日。
いつも通りに目が覚めて、状況がいつもと違うことに気付くまで、時間を大いに費やした。
ああ、昨日アズリエルが来たんだっけ……。
頭がうまく働かないせいで、ご近所さんが訪問してきたみたいな結論が出てしまう。いや、現実味がないのは百も承知だけどね? どうして私の部屋にやって来たのかは、本当に謎。夢みたいな状況なのに、これは夢ではないらしい。改めて思い知らされて、なんとも言えない気持ちになる。
置かれてる状況を整理しよう。
起きた私の隣には、穏やかな寝顔のアズリエルが、これまた穏やかな寝息を立てて横になっている。そう、私の隣。同じベッドの上で。いろいろあって思考が混線したけど、寝る前に導き出した答えのひとつだ。
私の部屋には客人用の布団なんてない。ベッドはひとつ。床にクッションを敷きつめて寝ようとしたら、アズリエルから止められて、逆に床で寝ると言い出したので止めて、折衷案で同じベッドで寝ることになったのだ。一人用とは言え、身体の小さなアズリエルと一緒に寝る分には申し分ないスペースが確保されていた。
それなりに疲労もあったので深く考えずに眠ってしまったけど……。
「……水曜だ!!」
アズリエルが来たのは昨日の火曜日。つまり、翌日の今日は平日なわけで、当然のように仕事が待っている。
慌てて布団を剥ぎ取り、時計を確認しながら大急ぎで支度を始める。着替えるのは後回し。フライパンに油をひいて熱してる間に、ケトルに水を入れてセット。顔を洗って手早くスキンケアを終え、鏡の前から台所へ移動。ハムを二枚入れて火を通す。卵をふたつ取り出して、片面が焼けたハムをひっくり返した。本来は弱火でじっくり焼くところだけど、急いでるのですこし火力を高める。火が通るまでに昨日の朝炊いたご飯をよそって電子レンジへ。稼働させている間に、ハムの上に卵を割り入れる。今度は弱火にして時間を稼ぎ、その間に化粧を終わらせた。我ながらスピーディに完了したな、と自画自賛する。
いつまでも鏡の前にいるわけにはいかない。火を止め、塩胡椒を振ったハムエッグのひとつを皿によそい、フライパンに残ったハムエッグを立ったまま食べる。だらしなく一人暮らし生活を送る私はフライパンから直で行くのだ。お皿を使うと洗い物が増えるからね。まあ、今回はアズリエルにわかりやすいようにお皿を使ったから、既に洗い物は増えてるんだけども。これはもはや習慣である。見てわかるように、こっちのお皿に彼の名前を書いた付箋を貼っておこう。
ケトルのお湯でインスタントの味噌汁を生成して、朝食は完成。焦げてカリカリの食感を生む白身と塩胡椒の組み合わせはご飯が進む。黄身は火が通りにくいので、好みの固さにできないのが惜しいけど、こればかりは仕方ない。二兎追うものは一兎も得ず、と言うし。最後は味噌汁で流し込んで、次は身支度だ。手早く済ませてから、目玉焼きにラップをかけ、付箋に『アズリエル』と書こうとして、はたと気付く。彼は日本語が読めないのでは? 聞いてみないことにはわからないので、いまは『Asriel』と書いて貼る。綴りを覚えていて良かった。
しかし、問題も発生した。メモを残していくつもりだったけれど、読めない可能性を考慮していなかった。すこし見渡すだけでも、この部屋は日本語に溢れている。
結果として留守番を頼まなければならないのに、こんなに心細いことがあるだろうか。かと言って、仕事を休むわけにもいかず、刻一刻と迫る時間に神経を削られながら、私はひとつの決心をした。
「アズリエル、ごめん、起きて……!」
「ん……、」
そう。寝かせておくつもりだったアズリエルを起こすことにしたのだ。私の事情で起こされるアズリエルには非常に申し訳ないけれど、そこは……、アポなしでやってきた向こうの落ち度と相殺ということで不問にしてほしい。
アズリエルは既に身体を起こしていたけれど、両目は閉じていた。声をかけると、口がふにゃりと開いてあくびが飛び出す。
「おはよう、ごめんね。仕事があるから一緒にいられないんだ。夜には帰ってくるから、留守番をお願い」
「うん……」
「朝ごはんは目玉焼きがあるんだけど……パンの買い置きがないから、足りないかも。ケトルの使い方は大丈夫?」
「きのうの……? うん。覚えてるよ……」
「良かった。あるもの好きに食べていいからね。一応、昨日のスパゲティも残ってるからそれも食べていいよ。小腹がすいたらお菓子もあるから。水道からら水が出るし、冷蔵庫にも飲み物があるから」
「わかった……」
こんなことなら昨日寝る前にエアコンの使い方も伝えておけば良かった。なんて、後悔しても後の祭り。
寝起きのところ、矢継ぎ早に伝えてしまって申し訳ない。応じるアズリエルのとろけた赤い瞳は、いまにも目蓋に隠されてしまいそうだ。
「テレビもすきに見ていいし、眠かったらそのままベッド使ってね」
「じかん……だいじょうぶ……?」
「やばい、時間ない……!」
荷物を掻き集めて時計を見遣る。いつもの出発時刻から五分の遅れ。かろうじてまだ間に合うはず。
「レイ……、いってらっしゃい……」
ふにゃふにゃの笑顔が、見送りしてくれる。
「――いってきます!」
昨日の朝はいなかった彼は、私の心まで見事にふにゃふにゃにした。
けど、部屋を離れるごとに不安は増していく。心配は拭えない。
休みの前日に来てくれたのなら環境の整備に尽力するのに。残念ながら今日は週の半ば。休みはまだ遠い。言えば有給は受理されるかもしれないけれど、いきなり同居人が増えたので休みます、なんて正直に理由を話すわけにもいかない。かと言って、説得力のある理由も浮かばないので、早く時間が過ぎてくれと祈るばかり。
バタバタしていたのでお昼ご飯を忘れていた、と気付いたのは休憩時間。財布とスマートフォンを持ってコンビニの行列に並ぶ。列が消化される僅かな時間を使って、手元のスマートフォンで検索エンジンを開いた。自分の住所で検索し、新しいニュースが発表されてないことに安堵して、アズリエルがあの部屋の扉の外に出ていないことを祈る。
レジ打ちの無機質な音を聞きながら、午後も早く過ぎ去ってくれ、と願う。可及的速やかに帰宅して、アズリエルが家にいることを確認したい。……そんなことを考え、まるで軟禁生活を強いる犯罪者のようだと思い至って、気分が沈む。
あのゲームで、あの世界で、フリスクのために心を鬼にして立ち塞がったトリエルは、最終的にフリスクの意思を尊重した。私は、アズリエルの意思を尊重できているだろうか。
悶々と考えていたおかげで時間はあっという間に過ぎた。けれど、一度浮かんだ考えは鉛のように重たく、あんなに待ち望んでいたのに帰る足取りはひどくゆっくりとしたものになった。
帰らないわけにもいかないので、半ばヤケになって階段を登る。外から見た部屋は電気がついていないので、もしもという可能性が脳裏を過ぎる。外に出たのか。それとも、無事に元の世界に帰ったのかな。
後者ならいい。たったすこししか一緒にいられなかったけれど、それならそれで。
扉の前で深呼吸。施錠されてる鍵を開ける。安価な賃貸アパートを借りているので、オートロックではない。外に出るには鍵を開ける必要があるから、どうやらアズリエルは外には出ていないようだ。……かと言って、中にいるとも限らないのだけれど。
意を決して中に踏み入る。どうして帰宅するのにこんなに緊張しなきゃいけないんだ、とも思いながら。
案の定、部屋の中は暗く――。
「あ、おかえりなさい!」
薄暗い室内を、淡く照らす光があった。
「え……」
アズリエルの声を遅れて認識して、目を凝らす。
「あ、ごめんなさい。明かりをつけていいかわからなかったから……、魔法を明かりにしたんだ。……ダメだった?」
アズリエルのそばには、彼の手のひらよりもひとまわり小さな星がひとつ浮遊している。星は発光し、間接照明のような柔らみのある温もりを提供していた。優しい灯火は、薄暗い室内を優しく切り取る。
「ううん……ビックリしただけ……。ダメじゃないよ」
「ホント? 良かった」
「それにしても……、星の魔法も、使えるんだね……」
「うん。不思議だね」
発言の意図を聞いてもいいか悩んで、保留にする。彼の話では、フリスクとの戦いの最中にこっちに来たらしい。彼の中に、いまもタマシイがあるのどうかはわからない。フラウィに戻ってしまう僅かな時間を、いまここで過ごしているだけなのかもしれない。疑問の解決を先延ばしにしつつ、星に見入る。生前、地底で親友と遊んでいた頃の彼も、星の魔法を使っていたのかな。
「あー……えっと……、今日はどうだった? 困ったことなかった? お腹はすいてない?」
「うん、大丈夫。ご飯作ってくれてありがとう、美味しかったよ!」
「簡単なものでごめんね。お口にあったのなら良かった」
言いながら靴を脱ぐ。いつものように明かりをつけると、アズリエルのそばに控えていた星は静かに光を散らして消えた。名残惜しく思いながら、手を洗うついでに洗い物を済ませようと流しに移動する。
「あれ……」
フライパンも茶碗もお皿も、使われた食器はすべて綺麗に洗われていた。
「アズリエル、もしかして洗ってくれた?」
「うん。美味しいご飯のお返しができれば……って思って」
「助かるよ……! ありがとう……!」
洗ったばかりの手で彼の頭を撫でる。モフモフの毛並みは、疲労の蓄積した身体に心地好く、ついつい無心で続けてしまった。
いや。弁解をさせてほしい。彼の頭はとてもちょうどいい場所にあるのだ。身長差を加味しても撫でやすいポジションに。そして吸い付くような撫で心地と来れば、自然と……そう、自然と撫で撫でを続行してしまうのもやむなしというもの。
「あー……、ごめん撫ですぎたね……」
くすぐったそうに目を眇めるアズリエルに気付いて手を止めた。格好がつかない形になったことを反省しながら、台所からリビングに移動して、後を追ってきた彼には対面に座ってもらう。
「これからの話をしないとね」
咳払いをひとつ。見た目だけで言うなら私のほうが大人なので、なるべく情けない姿を見せないように振る舞う。……だいぶ遅い気もするけど、すべては気の持ちようだ。
「……と、話す前に聞きたいんだけど……、」
言葉を区切る。いまの、軟禁に近い生活についてどう思っているのか、と聞きたかったけれど、喉で詰まって言葉が出てこない。あまりに長く待たせるのも不自然なので、別のことを聞くことにした。
「昨日から今日にかけて、いろいろ準備不足だったから、不便な思いをさせたんじゃないかな……?」
これも懸念のひとつだから、聞きたい、と言ったことに間違いはない。この部屋には、客人をもてなす備蓄も、娯楽も少ない。早々に飽きてしまうことだろう。なのに、外に出ることは禁じられて、自由もほとんど奪われている状況。私が彼の立場なら、大人しく部屋で家主の帰りを待っていられるだろうか。……確信はないけれど、無理な気がする。
「ううん。そんなことないよ」
あまりに、私の求めていた答えだったから、幻聴かと思ってまじまじと顔を見つめる。アズリエルは気恥ずかしそうにしながらも、微笑みを返してくれた。だから、釣られて私も笑って、お礼が言える。
「じゃあ、本題を話すね。……申し訳ないんだけど、私の休みの都合で、あと三日くらいはこの状況が続くんだ。地底と勝手が違って大変なのに、本当にごめん」
「気にしないで。レイは優しくしてくれるから、そこまで大変じゃないよ。ボクのこと、気遣ってくれてありがとう」
「どういたしまして……?」
お礼を言われるほど気遣った記憶がなくて、曖昧な返事をしてしまう。
「それで、寝るところね。窮屈で悪いけれどしばらくこのままで……、あー……服……考えてなかった……」
腕時計に視線を落とす。急げばまだ間に合う……、けど、子ども服のサイズに馴染みがないので最適なサイズがわからない。調べているうちに、確実にお店は閉まる。
「……、ぶかぶかだと思うんだけど……、一応着ぐるみならあるんだよね……」
友人から渡された怪獣の着ぐるみパジャマはクローゼットの中で眠っている。着る毛布っていいね、という話をしたらその年の誕生日プレゼントで贈られたもの。前開きなので着る毛布として使えなくもないけど、パッケージには着ぐるみって書いてある。そして、デザインがすこし……私が着るにはかわいすぎるので、なんとなく敬遠して今日に至る。
「アズリエル、着ぐるみに抵抗ある……?」
「着ぐるみって?」
「あー……、えっと……なんて言えばいいのかな……」
口でうまく説明できる気がしないので、スマートフォンに頼る。現代社会ありがとう。おかげで伝えようとした意図は誤たず伝わった。
「着てみてもいいの?」
「うん、むしろお願いしたいというか、服の用意がなくてごめんね……」
謝罪を繰り返す私に、アズリエルは緩く首を振った。気にしないで、と告げて、元気付けるように私の両手を握る。
着替えのために一旦手を離されたあとも、手はまだ熱を帯びていた。
「こう?」
服の上から着ぐるみを羽織ったアズリエルは、ご丁寧にフードも被ってくれた。目深に被る羽目になるので、顔のほとんどが覆い隠される。小さな恐竜が誕生した瞬間だった。
「あ、……やっぱりサイズ大きかったね……ごめん」
フードのほか、袖も裾も余っている。袖は捲れば済むけど、裾はどうしても引き摺ってしまう。やっぱりサイズの合うものを買ったほうがいい。咄嗟に時計を確認するけれど、どんなに急いでも営業時間に間に合わない。ネットショップを頼るしかないようだ。
子ども服にフリーサイズってあるのかな。目視だと、アズリエルの身長は1mあるかないか……くらいだと思うけど、正確なことはわからない。
「ううん。ありがとう。すごく温かいねえ」
フードを持ち上げたアズリエルは、柔らかく微笑む。どう考えても大変なのは彼のほうなのに、こちらを安心させるように振る舞ってくれるのが申し訳なくて、笑顔を繕った。なるべく早く環境を整備しないと、と心に決める。
「そうだ。ねえ、アズリエル。急ぎでほしいものってある?」
「急ぎで? うーん……」
「今日過ごしてみて、これがあったらいいな、とか……」
「あ……」
「何かあった?」
「う、うん……。迷惑じゃなかったら……、花がほしいな」
「はな? お花ってこと?」
「うん。今日はすることが少なかったから……、お花のお世話ができるといいなあって」
難しいなら無理しないでね、とすぐに言い添えるアズリエルの健気さが胸を打つ。私の勤務中もずっと部屋で時間を潰していたアズリエルは、きっとすぐに飽きてしまっただろう。そんな彼が求めたのが花の世話、だなんて。この部屋の中が殺風景で花のひとつもないのが急に申し訳なくなる。
「わかった! 今日は……もうお店が閉まってるから、明日、花屋さんを見てくるよ。待たせて悪いけど、あと一日だけ待ってね」
「ワガママを言ってごめんなさい。……でも、ありがとう」
「こんなのワガママに入らないよ。こちらこそ、言ってくれてありがとう。他にも希望があったら言ってね」
「――うん!」
いつも通りに目が覚めて、状況がいつもと違うことに気付くまで、時間を大いに費やした。
ああ、昨日アズリエルが来たんだっけ……。
頭がうまく働かないせいで、ご近所さんが訪問してきたみたいな結論が出てしまう。いや、現実味がないのは百も承知だけどね? どうして私の部屋にやって来たのかは、本当に謎。夢みたいな状況なのに、これは夢ではないらしい。改めて思い知らされて、なんとも言えない気持ちになる。
置かれてる状況を整理しよう。
起きた私の隣には、穏やかな寝顔のアズリエルが、これまた穏やかな寝息を立てて横になっている。そう、私の隣。同じベッドの上で。いろいろあって思考が混線したけど、寝る前に導き出した答えのひとつだ。
私の部屋には客人用の布団なんてない。ベッドはひとつ。床にクッションを敷きつめて寝ようとしたら、アズリエルから止められて、逆に床で寝ると言い出したので止めて、折衷案で同じベッドで寝ることになったのだ。一人用とは言え、身体の小さなアズリエルと一緒に寝る分には申し分ないスペースが確保されていた。
それなりに疲労もあったので深く考えずに眠ってしまったけど……。
「……水曜だ!!」
アズリエルが来たのは昨日の火曜日。つまり、翌日の今日は平日なわけで、当然のように仕事が待っている。
慌てて布団を剥ぎ取り、時計を確認しながら大急ぎで支度を始める。着替えるのは後回し。フライパンに油をひいて熱してる間に、ケトルに水を入れてセット。顔を洗って手早くスキンケアを終え、鏡の前から台所へ移動。ハムを二枚入れて火を通す。卵をふたつ取り出して、片面が焼けたハムをひっくり返した。本来は弱火でじっくり焼くところだけど、急いでるのですこし火力を高める。火が通るまでに昨日の朝炊いたご飯をよそって電子レンジへ。稼働させている間に、ハムの上に卵を割り入れる。今度は弱火にして時間を稼ぎ、その間に化粧を終わらせた。我ながらスピーディに完了したな、と自画自賛する。
いつまでも鏡の前にいるわけにはいかない。火を止め、塩胡椒を振ったハムエッグのひとつを皿によそい、フライパンに残ったハムエッグを立ったまま食べる。だらしなく一人暮らし生活を送る私はフライパンから直で行くのだ。お皿を使うと洗い物が増えるからね。まあ、今回はアズリエルにわかりやすいようにお皿を使ったから、既に洗い物は増えてるんだけども。これはもはや習慣である。見てわかるように、こっちのお皿に彼の名前を書いた付箋を貼っておこう。
ケトルのお湯でインスタントの味噌汁を生成して、朝食は完成。焦げてカリカリの食感を生む白身と塩胡椒の組み合わせはご飯が進む。黄身は火が通りにくいので、好みの固さにできないのが惜しいけど、こればかりは仕方ない。二兎追うものは一兎も得ず、と言うし。最後は味噌汁で流し込んで、次は身支度だ。手早く済ませてから、目玉焼きにラップをかけ、付箋に『アズリエル』と書こうとして、はたと気付く。彼は日本語が読めないのでは? 聞いてみないことにはわからないので、いまは『Asriel』と書いて貼る。綴りを覚えていて良かった。
しかし、問題も発生した。メモを残していくつもりだったけれど、読めない可能性を考慮していなかった。すこし見渡すだけでも、この部屋は日本語に溢れている。
結果として留守番を頼まなければならないのに、こんなに心細いことがあるだろうか。かと言って、仕事を休むわけにもいかず、刻一刻と迫る時間に神経を削られながら、私はひとつの決心をした。
「アズリエル、ごめん、起きて……!」
「ん……、」
そう。寝かせておくつもりだったアズリエルを起こすことにしたのだ。私の事情で起こされるアズリエルには非常に申し訳ないけれど、そこは……、アポなしでやってきた向こうの落ち度と相殺ということで不問にしてほしい。
アズリエルは既に身体を起こしていたけれど、両目は閉じていた。声をかけると、口がふにゃりと開いてあくびが飛び出す。
「おはよう、ごめんね。仕事があるから一緒にいられないんだ。夜には帰ってくるから、留守番をお願い」
「うん……」
「朝ごはんは目玉焼きがあるんだけど……パンの買い置きがないから、足りないかも。ケトルの使い方は大丈夫?」
「きのうの……? うん。覚えてるよ……」
「良かった。あるもの好きに食べていいからね。一応、昨日のスパゲティも残ってるからそれも食べていいよ。小腹がすいたらお菓子もあるから。水道からら水が出るし、冷蔵庫にも飲み物があるから」
「わかった……」
こんなことなら昨日寝る前にエアコンの使い方も伝えておけば良かった。なんて、後悔しても後の祭り。
寝起きのところ、矢継ぎ早に伝えてしまって申し訳ない。応じるアズリエルのとろけた赤い瞳は、いまにも目蓋に隠されてしまいそうだ。
「テレビもすきに見ていいし、眠かったらそのままベッド使ってね」
「じかん……だいじょうぶ……?」
「やばい、時間ない……!」
荷物を掻き集めて時計を見遣る。いつもの出発時刻から五分の遅れ。かろうじてまだ間に合うはず。
「レイ……、いってらっしゃい……」
ふにゃふにゃの笑顔が、見送りしてくれる。
「――いってきます!」
昨日の朝はいなかった彼は、私の心まで見事にふにゃふにゃにした。
けど、部屋を離れるごとに不安は増していく。心配は拭えない。
休みの前日に来てくれたのなら環境の整備に尽力するのに。残念ながら今日は週の半ば。休みはまだ遠い。言えば有給は受理されるかもしれないけれど、いきなり同居人が増えたので休みます、なんて正直に理由を話すわけにもいかない。かと言って、説得力のある理由も浮かばないので、早く時間が過ぎてくれと祈るばかり。
バタバタしていたのでお昼ご飯を忘れていた、と気付いたのは休憩時間。財布とスマートフォンを持ってコンビニの行列に並ぶ。列が消化される僅かな時間を使って、手元のスマートフォンで検索エンジンを開いた。自分の住所で検索し、新しいニュースが発表されてないことに安堵して、アズリエルがあの部屋の扉の外に出ていないことを祈る。
レジ打ちの無機質な音を聞きながら、午後も早く過ぎ去ってくれ、と願う。可及的速やかに帰宅して、アズリエルが家にいることを確認したい。……そんなことを考え、まるで軟禁生活を強いる犯罪者のようだと思い至って、気分が沈む。
あのゲームで、あの世界で、フリスクのために心を鬼にして立ち塞がったトリエルは、最終的にフリスクの意思を尊重した。私は、アズリエルの意思を尊重できているだろうか。
悶々と考えていたおかげで時間はあっという間に過ぎた。けれど、一度浮かんだ考えは鉛のように重たく、あんなに待ち望んでいたのに帰る足取りはひどくゆっくりとしたものになった。
帰らないわけにもいかないので、半ばヤケになって階段を登る。外から見た部屋は電気がついていないので、もしもという可能性が脳裏を過ぎる。外に出たのか。それとも、無事に元の世界に帰ったのかな。
後者ならいい。たったすこししか一緒にいられなかったけれど、それならそれで。
扉の前で深呼吸。施錠されてる鍵を開ける。安価な賃貸アパートを借りているので、オートロックではない。外に出るには鍵を開ける必要があるから、どうやらアズリエルは外には出ていないようだ。……かと言って、中にいるとも限らないのだけれど。
意を決して中に踏み入る。どうして帰宅するのにこんなに緊張しなきゃいけないんだ、とも思いながら。
案の定、部屋の中は暗く――。
「あ、おかえりなさい!」
薄暗い室内を、淡く照らす光があった。
「え……」
アズリエルの声を遅れて認識して、目を凝らす。
「あ、ごめんなさい。明かりをつけていいかわからなかったから……、魔法を明かりにしたんだ。……ダメだった?」
アズリエルのそばには、彼の手のひらよりもひとまわり小さな星がひとつ浮遊している。星は発光し、間接照明のような柔らみのある温もりを提供していた。優しい灯火は、薄暗い室内を優しく切り取る。
「ううん……ビックリしただけ……。ダメじゃないよ」
「ホント? 良かった」
「それにしても……、星の魔法も、使えるんだね……」
「うん。不思議だね」
発言の意図を聞いてもいいか悩んで、保留にする。彼の話では、フリスクとの戦いの最中にこっちに来たらしい。彼の中に、いまもタマシイがあるのどうかはわからない。フラウィに戻ってしまう僅かな時間を、いまここで過ごしているだけなのかもしれない。疑問の解決を先延ばしにしつつ、星に見入る。生前、地底で親友と遊んでいた頃の彼も、星の魔法を使っていたのかな。
「あー……えっと……、今日はどうだった? 困ったことなかった? お腹はすいてない?」
「うん、大丈夫。ご飯作ってくれてありがとう、美味しかったよ!」
「簡単なものでごめんね。お口にあったのなら良かった」
言いながら靴を脱ぐ。いつものように明かりをつけると、アズリエルのそばに控えていた星は静かに光を散らして消えた。名残惜しく思いながら、手を洗うついでに洗い物を済ませようと流しに移動する。
「あれ……」
フライパンも茶碗もお皿も、使われた食器はすべて綺麗に洗われていた。
「アズリエル、もしかして洗ってくれた?」
「うん。美味しいご飯のお返しができれば……って思って」
「助かるよ……! ありがとう……!」
洗ったばかりの手で彼の頭を撫でる。モフモフの毛並みは、疲労の蓄積した身体に心地好く、ついつい無心で続けてしまった。
いや。弁解をさせてほしい。彼の頭はとてもちょうどいい場所にあるのだ。身長差を加味しても撫でやすいポジションに。そして吸い付くような撫で心地と来れば、自然と……そう、自然と撫で撫でを続行してしまうのもやむなしというもの。
「あー……、ごめん撫ですぎたね……」
くすぐったそうに目を眇めるアズリエルに気付いて手を止めた。格好がつかない形になったことを反省しながら、台所からリビングに移動して、後を追ってきた彼には対面に座ってもらう。
「これからの話をしないとね」
咳払いをひとつ。見た目だけで言うなら私のほうが大人なので、なるべく情けない姿を見せないように振る舞う。……だいぶ遅い気もするけど、すべては気の持ちようだ。
「……と、話す前に聞きたいんだけど……、」
言葉を区切る。いまの、軟禁に近い生活についてどう思っているのか、と聞きたかったけれど、喉で詰まって言葉が出てこない。あまりに長く待たせるのも不自然なので、別のことを聞くことにした。
「昨日から今日にかけて、いろいろ準備不足だったから、不便な思いをさせたんじゃないかな……?」
これも懸念のひとつだから、聞きたい、と言ったことに間違いはない。この部屋には、客人をもてなす備蓄も、娯楽も少ない。早々に飽きてしまうことだろう。なのに、外に出ることは禁じられて、自由もほとんど奪われている状況。私が彼の立場なら、大人しく部屋で家主の帰りを待っていられるだろうか。……確信はないけれど、無理な気がする。
「ううん。そんなことないよ」
あまりに、私の求めていた答えだったから、幻聴かと思ってまじまじと顔を見つめる。アズリエルは気恥ずかしそうにしながらも、微笑みを返してくれた。だから、釣られて私も笑って、お礼が言える。
「じゃあ、本題を話すね。……申し訳ないんだけど、私の休みの都合で、あと三日くらいはこの状況が続くんだ。地底と勝手が違って大変なのに、本当にごめん」
「気にしないで。レイは優しくしてくれるから、そこまで大変じゃないよ。ボクのこと、気遣ってくれてありがとう」
「どういたしまして……?」
お礼を言われるほど気遣った記憶がなくて、曖昧な返事をしてしまう。
「それで、寝るところね。窮屈で悪いけれどしばらくこのままで……、あー……服……考えてなかった……」
腕時計に視線を落とす。急げばまだ間に合う……、けど、子ども服のサイズに馴染みがないので最適なサイズがわからない。調べているうちに、確実にお店は閉まる。
「……、ぶかぶかだと思うんだけど……、一応着ぐるみならあるんだよね……」
友人から渡された怪獣の着ぐるみパジャマはクローゼットの中で眠っている。着る毛布っていいね、という話をしたらその年の誕生日プレゼントで贈られたもの。前開きなので着る毛布として使えなくもないけど、パッケージには着ぐるみって書いてある。そして、デザインがすこし……私が着るにはかわいすぎるので、なんとなく敬遠して今日に至る。
「アズリエル、着ぐるみに抵抗ある……?」
「着ぐるみって?」
「あー……、えっと……なんて言えばいいのかな……」
口でうまく説明できる気がしないので、スマートフォンに頼る。現代社会ありがとう。おかげで伝えようとした意図は誤たず伝わった。
「着てみてもいいの?」
「うん、むしろお願いしたいというか、服の用意がなくてごめんね……」
謝罪を繰り返す私に、アズリエルは緩く首を振った。気にしないで、と告げて、元気付けるように私の両手を握る。
着替えのために一旦手を離されたあとも、手はまだ熱を帯びていた。
「こう?」
服の上から着ぐるみを羽織ったアズリエルは、ご丁寧にフードも被ってくれた。目深に被る羽目になるので、顔のほとんどが覆い隠される。小さな恐竜が誕生した瞬間だった。
「あ、……やっぱりサイズ大きかったね……ごめん」
フードのほか、袖も裾も余っている。袖は捲れば済むけど、裾はどうしても引き摺ってしまう。やっぱりサイズの合うものを買ったほうがいい。咄嗟に時計を確認するけれど、どんなに急いでも営業時間に間に合わない。ネットショップを頼るしかないようだ。
子ども服にフリーサイズってあるのかな。目視だと、アズリエルの身長は1mあるかないか……くらいだと思うけど、正確なことはわからない。
「ううん。ありがとう。すごく温かいねえ」
フードを持ち上げたアズリエルは、柔らかく微笑む。どう考えても大変なのは彼のほうなのに、こちらを安心させるように振る舞ってくれるのが申し訳なくて、笑顔を繕った。なるべく早く環境を整備しないと、と心に決める。
「そうだ。ねえ、アズリエル。急ぎでほしいものってある?」
「急ぎで? うーん……」
「今日過ごしてみて、これがあったらいいな、とか……」
「あ……」
「何かあった?」
「う、うん……。迷惑じゃなかったら……、花がほしいな」
「はな? お花ってこと?」
「うん。今日はすることが少なかったから……、お花のお世話ができるといいなあって」
難しいなら無理しないでね、とすぐに言い添えるアズリエルの健気さが胸を打つ。私の勤務中もずっと部屋で時間を潰していたアズリエルは、きっとすぐに飽きてしまっただろう。そんな彼が求めたのが花の世話、だなんて。この部屋の中が殺風景で花のひとつもないのが急に申し訳なくなる。
「わかった! 今日は……もうお店が閉まってるから、明日、花屋さんを見てくるよ。待たせて悪いけど、あと一日だけ待ってね」
「ワガママを言ってごめんなさい。……でも、ありがとう」
「こんなのワガママに入らないよ。こちらこそ、言ってくれてありがとう。他にも希望があったら言ってね」
「――うん!」
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