ぜんぶ忘れても
「37.9度、ねぇ…」
見慣れた数字を目にして、私は重い溜息をついた。時刻は14時、一応平日だ。なのに、学校に行くわけでもなく、自室のベッドにひとりで突っ伏している。だからといって私はズル休みをするような性分でもない。どういうことかというと、事態は単純明快だ。風邪をひいた、それだけの話。
そもそも私はそこそこ虚弱体質みたいなところがあり、2ヶ月に1回のペースくらいで熱を出してはこうやって寝込む。これはずっと昔、赤ちゃんの頃からのようで、母親がたまに「ほのちゃんは小さい頃からよく風邪ひいてたねえ」だなんてけらけらと笑いながら話題に持ち出してくるほどだった。そのたびに、毎度毎度おかゆを作るだの、薬を買うだのやってくれている母親に申し訳なくなっていた。今はもう、レトルトのおかゆも風邪薬も自分で買っておけるけど。
そういうわけで、レトルトのおかゆを温めて、あまり空いていないお腹に放り込んだ。この味にも慣れたものだ。あまりに飽きてしまうので、なにか乗せようかとも思ったのだが、身体がだるすぎて何もする気が起きないので我慢して食べた。でも、どうにも食べきれないので、あとで食べようと自室の机に放置した。そして、もうこれ以上寝れないというくらい寝たはずなのに、自然と眠りに落ちていった。
ーーー
「…え?……んな、…くは、そ……つもりじゃ…くて……めんね…ほのちゃん」
ーーー
飛び起きた私の背を、冷たいものが伝った。最悪だ。元から風邪で嫌な気分だってのに、彼奴のことを思い出すなんて、最悪だ。しかも、嫌な想像を伴っているだなんて、本当に自分の脳味噌に憎しみが湧いた。がんっと自分の頭を殴った。そうでもしないと、嫌な想像は離れてくれそうになかったから。でもこの行動は逆に、私のなかの不快感を増幅させるだけだった。
怖かった。自分の気持ちを伝えて拒絶されることが。だからずっと、行き場のない気持ちが心に重くのしかかっていた。うじうじしている自分のことが大嫌いだけど、そこから脱しようなんて思いもしなかった。どうせできるわけないと端から決めつけているから。
殴った頭がじんじんと傷んだ。それはそうだ、かなり力を入れたのだから。頭の痛みに注意を向けてしまうと、他の不快感もより一層存在感を増したように感じた。胃の中がぐるぐるするような不快感、体中が鉛のように鈍く重い不快感、いつもより体温が高い不快感、心臓に重りをぶら下げたような不快感。それにさっきの夢からくる精神的なダメージが加わって、私はいよいよ参っていた。
ぽとり。布団の上に落ちた水滴が小さな染みを作ったことに気がついて、ああ私泣いているんだ、と他人事のように思った。そう思わないとやってられなかった。堰を切ったように、ぐちゃぐちゃしたものが溢れ出してきて、止めなきゃ、と思う間もなく私はわんわんと声を上げて泣いていた。始めはできるだけ声を小さくしようと頑張っていたが、苦しさに耐えきれなかった。
ひゅうひゅう、と息の音がおかしくなっていった。息苦しさは増した。それでも泣くのをやめられなかった。まるで空気に溺れているような感覚のなかで、私はぐらぐら揺れる視界を離さないようにしっかり握りしめることしかできなかった。
泣くことで喉を酷使しすぎた私は、咳をした。泣き声と咳と呼吸の音が混ざって、もう何がなんだかわからなくなっていた。頭の中は空っぽだった。ただ不快感がどろどろと視界を占めて、咳をすることで発散しようと躍起になっている私を嘲笑った。
咳をしすぎて急激な吐き気に襲われた私は、反射的にお手洗いに駆け込もうと立ち上がったが、いきなり視界がブラックアウトしていき、わけがわからないまま気を失った。
ーーー
「ほのちゃんっ!!」
焦ったような私を呼ぶ声に驚いて目を開くと、見知った顔が目の前にいた。
「…るり、ね?」
るりねは、無言で私を抱きしめた。レモンのような瑞々しい香りにつつまれて、私は現実にゆっくりと引き戻されていく。
「ほのちゃん…風邪ひいたって先生から聞いたからお見舞いに行ったんだけど、インターホン押しても出ないし、鍵は開いてるし、君は倒れてるし…僕、ほのちゃんが、死んじゃったのかと思って…心配で……」
「…泣くほど心配してくれたの。ありがとう、るりね」
「泣いてないよ、君の気のせいさ」
明らかな涙声でそう言う彼女を、私はいつもより素直な言葉で慰めた。
ーーー
「本当に、覚えていないのかい?」
「覚えてないわ。貴方が私の看病をしに来たらしいってことは覚えてるけれど」
次の日の通学路。私はるりねといつもと同じように言葉をかわしていた。私の風邪はすっかり治り、しゃっきり背筋を伸ばして歩けている。でも、昨日の記憶はおぼろげだ。
「…うん。忘れてくれて、良かったよ。ちょっと恥ずかしい姿見せちゃったしね」
そう言ったるりねを見ていると、少しだけ腹が立ってしまって、「ああ、思い出してきたかもしれないわねー」と棒読みで言うと、彼女は「やめてくれよぉ!」とおどけたように困った顔をしてみせた。
そんな姿を見ながら、私は、なんとなく暖かい気持ちになっていたので、彼女に見えないようにこっそり笑ったのだった。
見慣れた数字を目にして、私は重い溜息をついた。時刻は14時、一応平日だ。なのに、学校に行くわけでもなく、自室のベッドにひとりで突っ伏している。だからといって私はズル休みをするような性分でもない。どういうことかというと、事態は単純明快だ。風邪をひいた、それだけの話。
そもそも私はそこそこ虚弱体質みたいなところがあり、2ヶ月に1回のペースくらいで熱を出してはこうやって寝込む。これはずっと昔、赤ちゃんの頃からのようで、母親がたまに「ほのちゃんは小さい頃からよく風邪ひいてたねえ」だなんてけらけらと笑いながら話題に持ち出してくるほどだった。そのたびに、毎度毎度おかゆを作るだの、薬を買うだのやってくれている母親に申し訳なくなっていた。今はもう、レトルトのおかゆも風邪薬も自分で買っておけるけど。
そういうわけで、レトルトのおかゆを温めて、あまり空いていないお腹に放り込んだ。この味にも慣れたものだ。あまりに飽きてしまうので、なにか乗せようかとも思ったのだが、身体がだるすぎて何もする気が起きないので我慢して食べた。でも、どうにも食べきれないので、あとで食べようと自室の机に放置した。そして、もうこれ以上寝れないというくらい寝たはずなのに、自然と眠りに落ちていった。
ーーー
「…え?……んな、…くは、そ……つもりじゃ…くて……めんね…ほのちゃん」
ーーー
飛び起きた私の背を、冷たいものが伝った。最悪だ。元から風邪で嫌な気分だってのに、彼奴のことを思い出すなんて、最悪だ。しかも、嫌な想像を伴っているだなんて、本当に自分の脳味噌に憎しみが湧いた。がんっと自分の頭を殴った。そうでもしないと、嫌な想像は離れてくれそうになかったから。でもこの行動は逆に、私のなかの不快感を増幅させるだけだった。
怖かった。自分の気持ちを伝えて拒絶されることが。だからずっと、行き場のない気持ちが心に重くのしかかっていた。うじうじしている自分のことが大嫌いだけど、そこから脱しようなんて思いもしなかった。どうせできるわけないと端から決めつけているから。
殴った頭がじんじんと傷んだ。それはそうだ、かなり力を入れたのだから。頭の痛みに注意を向けてしまうと、他の不快感もより一層存在感を増したように感じた。胃の中がぐるぐるするような不快感、体中が鉛のように鈍く重い不快感、いつもより体温が高い不快感、心臓に重りをぶら下げたような不快感。それにさっきの夢からくる精神的なダメージが加わって、私はいよいよ参っていた。
ぽとり。布団の上に落ちた水滴が小さな染みを作ったことに気がついて、ああ私泣いているんだ、と他人事のように思った。そう思わないとやってられなかった。堰を切ったように、ぐちゃぐちゃしたものが溢れ出してきて、止めなきゃ、と思う間もなく私はわんわんと声を上げて泣いていた。始めはできるだけ声を小さくしようと頑張っていたが、苦しさに耐えきれなかった。
ひゅうひゅう、と息の音がおかしくなっていった。息苦しさは増した。それでも泣くのをやめられなかった。まるで空気に溺れているような感覚のなかで、私はぐらぐら揺れる視界を離さないようにしっかり握りしめることしかできなかった。
泣くことで喉を酷使しすぎた私は、咳をした。泣き声と咳と呼吸の音が混ざって、もう何がなんだかわからなくなっていた。頭の中は空っぽだった。ただ不快感がどろどろと視界を占めて、咳をすることで発散しようと躍起になっている私を嘲笑った。
咳をしすぎて急激な吐き気に襲われた私は、反射的にお手洗いに駆け込もうと立ち上がったが、いきなり視界がブラックアウトしていき、わけがわからないまま気を失った。
ーーー
「ほのちゃんっ!!」
焦ったような私を呼ぶ声に驚いて目を開くと、見知った顔が目の前にいた。
「…るり、ね?」
るりねは、無言で私を抱きしめた。レモンのような瑞々しい香りにつつまれて、私は現実にゆっくりと引き戻されていく。
「ほのちゃん…風邪ひいたって先生から聞いたからお見舞いに行ったんだけど、インターホン押しても出ないし、鍵は開いてるし、君は倒れてるし…僕、ほのちゃんが、死んじゃったのかと思って…心配で……」
「…泣くほど心配してくれたの。ありがとう、るりね」
「泣いてないよ、君の気のせいさ」
明らかな涙声でそう言う彼女を、私はいつもより素直な言葉で慰めた。
ーーー
「本当に、覚えていないのかい?」
「覚えてないわ。貴方が私の看病をしに来たらしいってことは覚えてるけれど」
次の日の通学路。私はるりねといつもと同じように言葉をかわしていた。私の風邪はすっかり治り、しゃっきり背筋を伸ばして歩けている。でも、昨日の記憶はおぼろげだ。
「…うん。忘れてくれて、良かったよ。ちょっと恥ずかしい姿見せちゃったしね」
そう言ったるりねを見ていると、少しだけ腹が立ってしまって、「ああ、思い出してきたかもしれないわねー」と棒読みで言うと、彼女は「やめてくれよぉ!」とおどけたように困った顔をしてみせた。
そんな姿を見ながら、私は、なんとなく暖かい気持ちになっていたので、彼女に見えないようにこっそり笑ったのだった。
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