月が綺麗な夜は

[これから月を観察するのだけれど、貴方も来るかしら?]
[へぇ、また夜のデートのお誘いかい?ずいぶん積極的だね、この僕でも少し照れちゃうよ]
[そのうるさいお口をこの手で塞げないのが、とても歯痒いわね]

僕はベッドに寝転んで、大好きなひとと言葉をかわしていた。
会って話しているわけではなくて、スマホでチャットのやり取りをしているというだけだけれど、僕はこの時間が好きだ。
彼女の…ほのかという名前の狐の女の子の、表情豊かな顔を脳裏に浮かべながら、誰に急かされるでもなく、ゆったりと言葉を紡ぐ。そんな暖かいこの時間を、僕は堪能していた。
…そうしていたら、まさか夜のデートのお誘いだなんて。今日はツイてるみたいだね。
そうそう、最近は、こうしてたまに夜のデートのお誘いが来ることが多い。どうしてなのかはよくわからないけれど、まあ、好きなひととデートできるならば、理由はなんだっていいさ。僕は気にしないよ。
さあ、ささっと準備して、僕だけのプリンセスのもとへ向かおうか。

ーーー

「2分遅刻よ。まったく、5分前行動という単語は貴方の辞書にないのかしら?」
「ごめんごめん、折角、君という美しい女性に会うことだし、身だしなみに気を遣おうとしたら時間を取られてしまってね」
「寝言は寝ておっしゃい」
「はいはい」

僕たちはいつものように軽口を叩きあいながら、夜の公園へと歩を進めた。
すっかり秋の気温になってしまった外の空気は、僕たちの毛並みをさらりさらりと撫でていく。
くしゅん、と可愛らしいくしゃみが隣から聞こえて、僕は少し笑い、

「そんな薄着で来るからだよ、ほら、これを着て」

そう言って自分が着ていた上着を差し出した。「しょうがないじゃない、だって、つい最近までとても暑かったんだもの…」などとぶつぶつ呟き、うつむきつつも、渡した上着を着てくれた。彼女の性格的に、痩せ我慢をしてしまうかもしれないなと思っていたので、僕は安心してまた笑った。
そして僕たちは、また歩みを進めた。公園まで行くには草がぼうぼうと茂った道を通るのがいちばん早いが、それだと虫にたくさん刺されてしまうので、そこそこに栄えた商店が立ち並ぶ道を歩いた。
途中、可愛らしい女性と何人かすれ違ったので、僕は声をかけたい衝動に駆られた。でも、流石にそんなことをしていては、僕の隣をちょこちょこと歩いているこの人が許すはずないだろう、と確信したので、片目を閉じてそちらを見遣るだけに留めた。
しかし、ほのかは何か不味いものでも食べたかのような、嫌そうな顔をしてこちらに視線を送ってきた。

「こんな素敵な夜に、君はどうしてそんな苦虫を噛み潰したような顔をしているんだい?」
「貴方が道ゆく女性一人一人に気持ち悪いウインクをしているからよ、馬鹿」

僕が訊いてみると、彼女はその心底嫌そうな顔のまま、吐き捨てるように悪態をついた。
そして立ち止まると、むぎゅっと僕の足を踏みつけた。痛い。シンプルに、痛い。やめてくれ。数秒我慢したけれど、これ以上はもう無理だと思って、踏んでいる張本人に助けを求めることにした。

「…そろそろ僕の足を踏みつけるのをやめてくれると嬉しいんだけどな」
「黙りなさい、馬鹿」

とても冷たい瞳だった。
鈍い痛みは、僕の足がしびれてしまっても続いた。彼女の気が済むまで続いた。

ーーー

それから僕たちは商店が立ち並ぶ道を抜けて、やっと公園に着いた。
ほのちゃんがかなり長いこと僕の足を踏みつけていたものだから、思っていたより時間がかかってしまったのだ。
でも、それのお陰なのか、家を出た頃にはまだ空が紫色がかっていたのが、炭を塗ったように真っ黒になっていて、星がよく見えた。

「…あの」

ほのちゃんが急に、僕に話しかけた。
僕はいつもの笑顔を崩さずに、「なんだい?かわいい僕のプリンセス」と少しおどけて言うと、彼女は俯いた。
どうしたんだろう。いつもの彼女であれば、鋭い返しのひとつやふたつ、してきそうなものなのに。
僕は怪訝に思って、彼女の顔を覗き込もうとすると、

「つきが、きれいね」

普段の鋭くて隙がない声ではなく、ひどくたどたどしくて不安の色が乗った、不器用な声色だった。僕は、一瞬言葉を失った。
キッと僕を見つめる、必死さの滲んだその金色の瞳が、まるで美しい絵画のように僕の瞳には映った。
僕は、どうにかして言葉を絞り出そうとして、声を出した。

「…え、えっと、」
「何?何なの、その顔は。さっさと月の観察を始めましょう。あまりに遅くなると、お母様に叱られてしまうわ」

魔法が解けるようだった。もしくは、風船が萎むようだった。幻から現実に一気に引き戻されるように、気がつけば彼女はいつもどおりの元通りだった。…さっきのあれは、何だったのだろう。僕は、彼女の…ほのかの、何を見たんだろう。
その答えを知るには、まだ僕は彼女の中にあるものを知らない。そうだ、僕は彼女を知らないんだ。

「ほら、はやく行きましょう。あちらの方が、もっとよく月が見えるわ」
「…ああ、うん。そうだね。行こう」

これから彼女を知っていったら、さっき彼女から垣間見えた不器用さの正体を知ることができるのだろうか。
それはまだ分からないけれど、僕は素直に、彼女のことをもっと知りたいと感じた。
だから、僕はこう言った。

「ねえ、またこうやって月を見に行かないかい?」
「あら、私以外にも貴方と月を見たいと思う子は、大勢いると思うけれど」
「君と見たいんだよ」
「…まあ、考えておいてあげる」

僕はほっとして笑った。
彼女の背中越しに、ふっと空気が緩んだのを見て、ああ、彼女も笑ったのだな、と僕は勝手に解釈した。

月は煌々と僕らを照らしている。
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