はじまりの風は紅く
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仕事を終え、慌ただしく帰路につく綾を、官吏たちは物珍しそうに見届ける。いつもは一人最後まで残って仕事をしていく彩相が、早々と帰宅するなんて何かあったのか、なんて噂がたったりするのだが、それはまた別のはなし。
屋敷へと帰ってきた綾は、自室へと戻りかけ、客間で話し込む秀麗と劉輝の姿を見つけて、そちらへと歩み寄った。客間へと入りかけ、その戸口で聞こえてきた会話に、足を止めた。
「あれは、桜か?」
「えぇ。そうよ。…うちの桜は、もう咲かないのよ。8年前から…」
「8年前?」
「8年前の王位争いの時、王がお倒れになってから、朝廷の政は荒れて、城下に住む私たちはその余波をもろに喰らっちゃったわ。私たちが出来たことなんて殆ど無かった」
綾は悲痛な面持ちで目を閉じた。たおやかな手がぎりっと握りしめられ、元々白い手は血の気が引いて青白くなる。
もう、八年も昔の話。いつまでも過去に拘ってはいられない。今を生きる人がいる限り、政を行う立場の自分は前を向き続けなくてはいけない。…だが、あの時、確かに自分は無力だったのだ。
「兄上」
静かに自分を呼ぶ声に、綾は視線をあげた。静蘭は悲しげな顔で、綾へと腕を伸ばし優しく抱き締める。愛する家族を残して城へ一人働きにいくこの兄が、どれだけ苦しんだことか。
「兄様は、その時はもう今の官位にいて、立ち行かなくなった各部の仕事も全て請け負ってたから、なかなか帰ってこれなくて…。兄様が居なくなると完全に国が傾いて、城下は壊滅どころの騒ぎでは無くなってしまうから。」
ごめんね、と、兄は何度も謝っていた。泣きそうな顔で、でもいつも気丈に笑って、またすぐご飯とお薬持って帰ってくるからね、なんて言って……。
何度も弓を射って、筆を執って、請われれば鎮魂の舞も歌も琵琶も、治療でも何でもしてくれた兄の綺麗な手足は、ボロボロだった。白魚のような指には血が滲み、何度も舞って、山に狩りに行った細くて白い足は傷だらけで、でも自分の治療は後回し。何時だって常に町の人を優先してくれた。
「多分皆の一番役に立ったのはうちの庭ね。実のなる木は一杯あったし、池も大きかったから、町の人に果実や魚を分けてあげることが出来たわ。兄様がお帰りになられたときは、山へ狩りをしに行ってくれて、兎や猪…鹿から山菜から、食べられるものは何でも持って帰ってきてくれた。お陰で池には魚一匹もいないし、果実がなるのも何年も先…だって花も咲かないのよ。山だってそう。全部食べてしまったから」
綾はそっと静蘭の胸を押す。静蘭はそっとその滑らかな頬に手を這わせた。まるで愛しくて堪らない恋人をあやすようなそれに、綾はいたたまれなくなってついと視線をそらした。
「たくさんの人が目の前で死んでいったわ。毎日毎日、二胡を数えきれないくらい弾いたわ。まるで死ぬために生きるみたい。私たちは何のためにこんな思いをしてまで生きているのか。父様も静蘭も兄様も…どんどん痩せ干そって…私、怖かった。皆が死んでひとりぼっちになる夢を毎晩見たわ。狩りをして、怪我人病人を治療しては城へ戻って休みなく仕事をする兄様に、行かないでって何度もとりすがって泣いて困らせた事もあったわね。姿が見えないと、消えてしまうような、そんな気がして。あれは、恐怖の日々だったわね」
お茶、冷めちゃったわね。淹れ直してくるわ、と席を立つ秀麗を悲しげに見つめた綾は、秀麗を静蘭に任せて入れ違いに部屋へと入っていく。
「いらっしゃい、劉輝」
「っ兄上!!」
劉輝はがたりと立ちあがり、力なく項垂れた。
「私は…私は、なにも知らなかった。王位争いの時も、城下が大変なことを漠然と思い、知っていたつもりになっていました。」
「そうだね。でも、それはもういい。八年も昔の話だ。お前は幼かった。大事なのはこれからどうやって、2度とあんな悲劇を産み出さないかだろう」
何処か突き放すような言葉に、劉輝は弾かれたように顔をあげた。目の前にいたのは、優しい兄の紅 綾ではない。気高く民思いな彩相だった。
「いいかい、劉輝。無知は恥だよ」
穏やかな、しかししっかりと叩きつけられた言葉に、劉輝は胸の奥がすうっと冷たくなるのを感じた。あの時、確かに自分は幼かった。力は無いに等しかった。…だが、今はどうだ。自分は王だ。起こした悲劇を、知らなかったでは…済まされない。
瞠目し、漸く自覚した様子の劉輝に、綾はふっと息をついた。…とことん、世話のかかる子だ、なんて思いながら綾は劉輝の頭を抱き寄せた。力なく震える体を胸に抱き、ぽんぽんと頭を撫でる。
「よく、自分が無知だと知ることができたね。認めてしまえば、後はひたすら学ぶだけ。いいかい、劉輝。お前は王として未だどん底にいるといってもいい。千里の道を一歩踏み出すどころかそれに背を向けて座り込んでいるようなものだからね。でも、お前は一人では無かったろう?」
主上付きの文官、武官である絳攸に楸瑛、貴妃であり教育係の秀麗、勉強を教えてくれて見守ってくれている邵可…たくさんの人に支えられている。
「這い上がっておいで。良き王になれるように。その時には、お前を認めて彩相も王に膝を折ろう」
誰よりも優しくて、誰よりも厳しい兄の言葉に、劉輝は静かに涙した。
「政をしよう」
「………遅いです馬鹿たれ」
綾はぺくっと劉輝の額を軽く扇でひっぱたいた。劉輝は若干兄の顔を覗かせて呆れたように己を叱る綾に、嬉しそうに頬を赤らめた。
「さぁ、めきめき働いておくれ。民草のためにやらねばならないことは沢山あるんだ、分からないとは言わせない。体で覚えて、やるんだよ」
「は、はい…」
国一番の美貌を誇る兄は今日も変わらず美しい。だが、このときの笑顔ばかりは、それはそれは恐ろしい般若を背負ってにっこり微笑んでいたと、後に劉輝は語る。
明くる日、綾は府庫へとひょっこり顔を出したと同時に、タックルされるかのような勢いで絳攸に飛び付かれた。細い体はぐらりと傾いだが、しっかりと抱き止めて、半ば胸ぐらを捕まれるような体勢になっているが、気にすることなく小首を傾げた。
「おやおや、どうしたんだい」
「綾様も…綾様も気づいてらしたんですか!?あの馬鹿王の演技に!!!!」
「気づく…?あぁ…まぁ、そうだねぇ。これでも一応、彼の兄ではあったからね。でも、絳攸」
綾は穏やかに微笑んだ。
「今この国に、王なんていたのかい?」
綾の台詞に、二人はそろって口をつぐんだ。静まり返る室内。綾は柔和な笑顔を崩さず、優しい声で、だがしっかりと言い切った。
「紫 劉輝様は、たしかに私の可愛い弟だよ。だがね、政を行わない王など、王ではない。そんな民草にとってなんの役にもたたないお飾りなど、私は王だと認めない」
あの子が勉学は父様に。武術を宋太傅にと其々国一番の師を持ち、それだけの力を蓄えていたからといって、それが何になるんだい?
「力とは、使わなければなんの意味もない。なんの力も発揮せず、仕事もせずにのうのうとただ日々を過ごす間に、民たちは一日の食事にありつくために奔走しているだなんて馬鹿馬鹿しい。…兄としては弟を可愛いと思っているよ。ですが臣として、私彩雲国彩相 紅 綾は、あのような洟垂れ小僧のために折る膝など、一つたりとも持ち合わせてはおりません」
(……正直、意外だ)
絳攸は心の中でそう独りごちた。綾は、一度懐に入れたものにはとことん甘かった。それは親類ならばなおのこと。血が繋がっていてもいなくても、彼は弟妹をこの上なく可愛がっている。…だから、王が馬鹿殿でも甲斐甲斐しく尽くしているのだと思っていた。
だがどうだ。ふたを開けてみれば、誰よりも温厚で、従順で、王に忠実なその人は、誰よりも苛烈で、気高く、民草想いの彩相ではないか。言えるだろうか、王である弟を持ちながら「王などいない」なんて。誰よりも弟に甘く、誰よりも王に厳しい。
「私が何だかんだと民のために手を出してしまったのが、結果的にあの子を甘やかすことになってしまったのだろうね。でもまさか、即位後も逃げ回る往生際の悪い甘ったれの洟垂れ小僧になるとは思っていなかったけれどね」
あぁ、この人は根っからの政治家であり、人の上に立つ者なのだと皆何処か納得した。民を愛し、頑として認めぬ者には膝をおらない。
仕えるに足る王が現れないのならば、国など滅べば良いと願った霄太子。民さえ守れれば良いと、自分を犠牲にしてでも王を捨て、民に尽くす紅 綾彩相。
対局ともいえるものが王を取り巻いている。
(味方につければ一騎当千。敵に回れば相当厄介な御方か…)
楸瑛は舌を巻いた。しかも何が厄介って、王だけならともかくこの御仁は側近となった自分達のことも見て、つくかどうかを思案しているらしい。否、王を取り巻くすべてを。
「これからが大変だな、こりゃ」
誰とも無しに呟かれた言葉は、静かに虚空へと消えていった。