黄金の約束
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ざぁざぁと庭の木々に雨粒が落ちて音をたてる。
「紅 綾です。失礼致します」
戸部へ入った綾は、はたと目を瞠った。誰もいない。黄尚書へ急ぎの書類を持ってきたのだが、どうしたものかと視線を巡らせると、部屋の隅の長椅子の上で倒れている鳳珠を見つけた。さぁっと血の気が引いていく。
(鳳珠様?まさかとうとう過労で―――!??)
「鳳珠様!」
とっさに駆け寄ると、聞こえる寝息。綾はほっとするあまり床にへたりこんだ。吃驚した。死んでいるのかと思ってしまったではないか。それにしても、こんなところで寝入ってしまうとは…
「もう、心臓に悪い人ですね」
鳳珠は配下に振る以上の多くの仕事を自分でこなしている。それを知っているからこそ、部下は無茶を言われても文句なくやる気になるのだ。戸部にいるのは、長官の采配と仕事ぶりを理解して、その上で彼について行こうと決めたものばかり。
(うちの彩省も少数精鋭だけれど、それでもやはり戸部は負担が大きい。しかもこの猛暑でさらに人手不足…)
こんなの、疲れない方がどうかしている。綾はついと手を伸ばして、絹のような美しい髪を優しくすいた。
「お茶にでも誘えば、貴方は素直に休憩をとってくれるんですかね」
頼まれればいくらでも膝を貸してやるというのに。この人は実に甘えるのが下手だ。一日にお茶の時間をもうけただけでは、とうてい休息には程遠い。何だかんだとこちらを心配するくせに、自分のことは棚にあげる癖があるのだ、この人は。
フッと暗がりに光が差した。ゴロゴロと低い雷鳴が遠くで響く。びくりと肩が戦き、綾は胸の前できゅっと手を握りしめる。
「大丈夫。…私は、一人でも大丈夫」
開け放たれた窓から雨が入ってきてしまう。吹き込んだ風で書類がパラパラと宙に舞うのを見て、窓を閉めなくてはと綾はふらふらと立ち上がった。
「綾?どうした?」
「ほ、じゅ…様…っ」
後ろからにゅっと手が伸びてきてぱたんと窓が閉められる。鳳珠は様子のおかしい綾の腰を抱き、震える華奢な体を支えた。漸々振り返った綾は怯えきった様子で、紅玉の瞳は涙に揺れている。
その時、ピカッと稲妻が光り、外朝の避雷針へと雷の落ちるけたたましい音が響いた。
「ッッ―――――!!!!」
綾は声なき悲鳴をあげて耳を塞ぎ、踞った。脳裏に焼き付いて離れない、大切な人たちの最期。愛していた人たちは皆、雷鳴に連れ去られるようにして逝ってしまった。怖くてたまらない。また、またいつ大切な人が奪われてしまうのかと、恐ろしくてたまらない。
「綾、しっかりしろ」
「ぅ、ふぇ…っ」
肩を抱く鳳珠の首に腕を回してぎゅっと抱きつく。最早綾には相手が誰かなんて見えてはいない。はらはらと涙をこぼしながら、弱々しく行かないで、と繰り返す。一人は嫌。置いていかないで。
小さくしゃくり上げる綾を優しく抱き締め、その頭を宥めるように撫でる。ぐすぐすと鼻を鳴らす綾は、幼子のように肩口に顔を埋めて腕の力を弱めようとしない。一種の混乱状態だと判断した鳳珠は、綾が泣きつかれて眠ってしまった後も、優しくその背を撫で続けた。
半刻もしないうちに雨は上がった。爽やかな夏の青空が広がり、風は土の匂いを運んでくる。景柚梨と燕青、秀麗は仲良く連れだって戸部の扉を開けた。
「いやぁすごい雨と雷でしたね」
「はい、すっかり足止めされて…―――!!!!」
3人はぎょっと目を瞠った。柚梨はさぁっと血の気を失い、燕青でさえあんぐりと口を開けて呆然としている。秀麗に関しては今にも卒倒しそうだ。
「ん…」
綾の長い睫毛がふるりと震え、そっとその宝玉のような澄んだ瞳が姿を現す。ぼんやりと視線を巡らせた綾は、回らない頭で卒倒しそうな3人を見上げた。燕青…?秀麗…?
はっと己の状態を確認すれば、鳳珠に横抱きにされたまま長椅子に座らされている。無意識に握りしめていたのは鳳珠の衣。しかもそれは泣きながら抱きついていたせいか涙で濡れていて。結い上げられた自身の髪は撫でられていたために解れて、えもいわれぬ妙な色気を放っている。
つまるところ、どこからどう見ても恋人同士あるいは夫婦の逢瀬のような格好になっているわけで……
「っっ――!!!!/////も、申し訳ありません鳳珠様!!!!///」
その日、脱兎のごとく戸部から飛び出していく彩相の姿に、一体戸部で何があったのかと噂が噂を呼ぶことになるのは、また別な話。
「いやー今日は面白いもん見せてもらったなー」
「……笑い事じゃないよ」
綾はむっとした表情のままぱくっとご飯を口に運んだ。目元は赤く上気していて、拗ねているところも可愛らしい。
燕青は思い出してふたたび吹き出す。まさに戸部尚書に囲われている彩相閣下の図というか…とても禁断の図が出来上がっていて大変に面白かった。
(やってしまった…)
いつもは執務室か府庫で雷が収まるまで一人でやり過ごすか、家では秀麗や静蘭と団子のように引っ付いてやり過ごしていたのに。よりにもよって鳳珠様に…
あのあとはもう顔を見るのすら恐ろしくて、文字通り脱兎のごとく逃げてきてしまったために彼の反応はわからないが、呆れられてしまったのではないか。
外朝では他人に弱味を見せるのは極力避けていたというのに、なんたることだ。
「――綾様、少しお時間をいただけますか?」
「静蘭?」
静蘭は感情の読めない笑みを浮かべた。手を引かれるようにして廊下へと連れ出されると、綾はぐっと顎を持ち上げられ、背中を壁に押し付けられる。
「で?申し開きはありますか?」
(め、目が笑ってない―――!!)
自分の弟はここまで怖い顔が出来たんだろうかと、綾は現実から逃げた。そっと袖口で口許を隠して視線をそらす。
「えっと…あきれてる、のかな?」
(全然違う)
声にこそ出さないものの、静蘭の纏う空気が2、3度低くなったようで、綾はびくりと肩を震わせた。違うのか、では何がいけなかったのか。
「……ごめんなさい、静蘭」
おっとりと困ったように微笑む綾は、どうやら何に怒られているのかよくわかっていないらしい。…まぁ、所謂嫉妬だ。
こんなしょうもない理由、かえって分かられても困るのだが、ここまで気づかれないとなんだか腹が立つ。
「今後、雷が鳴りそうなときは私のそばに来てください。いいですね?」
「え?いや…でも私は外朝にいるし、お前は米蔵門番や左羽林軍の仕事が…」
「いいですね」
「は、はい…?」
彩雲国広しといえど、彩相閣下にこんなにも威圧的に迫れるのは静蘭くらいなものだろう。ついと伸ばされた長い指が綾の耳朶を擽り、艶のある髪を梳いていく。
「静蘭…?」
「……貴方は些か無防備が過ぎます」
後宮にいた頃から…あの頃から何年想い続けたと思っているんだ。今更別の男にかっさらわれてたまるものか。
(だが、想いを告げるには…まだ早い)
困惑した様子で小首をかしげる想い人を前に、まだこの忙しい人を悩ませるときではないと、静蘭は小さく息をついた。
翌日、紅 綾は戸部の前で固まっていた。
(き、昨日の非礼を詫びなくては…)
ぐるぐるとそればかりが頭の中を駆け巡っているのだが、どうにも一歩が踏み出せない。
どうせならと戸部行きの書簡を持ってきたのだから、渡すのを口実にさっさと入ればよいのだが、どうにも足がすくんでしまう。
「そんなところで何をしている」
「うひゃあ!?こ、黄尚書!」
さくっと渡してさくっと謝ってさくっと帰ればいい話なのだが、突然かけられた声と今一番顔を会わせにくい人物に出くわしてすべてが吹っ飛んだ。
「あ、あの、えと…っ」
ぐるぐると言葉が裡に籠って出てこない。あぁ情けない。新人官吏のときでさえこんなことはなかったのに。
綾は言葉を探すように視線を彷徨わせた。ついで、困ったように小首をかしげ、ずいっと腕の中のものを差し出す。
「ど、どうぞ…?」
ちっがぁーーーーう!!!
秀麗がこの場にいたのなら大声で突っ込んでくれただろうが、ここにはぽややんとした現在絶賛テンパっている彩相閣下と仮面の奇人しかいない。突っ込みが不在と言うなんとも微妙な状況である。
まずは書簡より昨日の非礼を詫びるのが先だろう。というか書簡も廊下で渡さず、目の前の戸部に入ればよいのではないか。これではかえって失礼じゃないだろうか。
だが、相手はこの彩相に頗る甘い奇人である。
「あぁ。わかった」
鳳珠も文句ひとつ言うことなくさっさと書簡を受けとると、ついでくるりと踵を返す綾の腕をしっかと掴んだ。
「逃げるな、綾」
「ぅ…に、逃げさせてください…」
綾のか細い訴えは無言のもとに却下された。ずるずると戸部尚書室に引きずり込まれると、半ば無理矢理長椅子に腰かけた鳳珠の膝の上に乗せられる。
「あ、の。昨日は申し訳ありませんでした…」
「気にするな。それより、今後雷がなったら私のところへ来い」
「え?」
綾はぱたりと瞬いた。いや、それはできない。いつ静蘭に見つかって、またあの黒い笑顔で怒られるのかわかったものではない。
「聞こえなかったか?ここに来いと言ったんだ」
「い、いえ…っ鳳珠様もお忙しいですし、ご迷惑をおかけするわけには」
「迷惑ではないから来いといっている。―――わかったな?」
「………静蘭に叱られてしまいます」
綾はしゅんとした様子で柳眉を下げ、視線をそらした。昨日の愛弟は本当に恐ろしかった。怒っている原因を教えてもらえなかったのも痛い。あれではいつ地雷を踏み抜いてしまうかわかったものではない。
鳳珠は綾の返事に面白くなさそうに眉間にシワを寄せた。前々から思っていたが、どうしてこうもこの公子と言う生き物は頑固なのか。現王然り、この綾然り。というかこの状況で他の男の名前を出すとは、ぽやんとしてるにもほどがないか。
「お前の家人はどうせ米蔵門番か白大将軍に捕まって賊退治だろう」
「………」
「はぁ…この頑固者め」
それならば、と鳳珠は視線を巡らせる。ついであぁと合点がいったように深く頷いた。あれがあったな。
「ならば雷のなった後でいい。茶をのみに来い」
「…………………………はい?」
休息を取れと周りが五月蝿いのだとぼやく鳳珠の示す先には、机の上に置かれた茶器が。なるほどこの多忙な尚書に今一番大事なのは休息だろう。よくやった部下の誰か。
「…はい、私でよければご一緒致しましょう」
綾は観念したように目を伏せた。まったく、この人には甘やかされてばかりである。鳳珠は満足げに頷いて綾を解放する。
その日一日は、何故だかわからないけれど黄尚書の機嫌が頗る良かったのよね~~、と後に秀麗は語った。