はじまりの風は紅く
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重症の静蘭と意識不明の秀麗が運ばれてきたのは、もう夜も深まった頃だった。秀麗を陶老師に任せ、重症の静蘭を見た綾はさぁっと血の気が引くのを感じた。
「静蘭――…っ」
悲痛な面持ちで傷ついた弟を見つめた綾は、きっと顔をあげた。
「縫合します。針と糸を!処置は私がやります。」
慌てて差し出された針と糸を巧みにつかい、怒濤の勢いで縫合を終えると、今度は意識が混濁している原因の毒の治療を始める。症状的には死に至る危険は無さそうだが、恐らく意識を奪うためのものだったのだろう。だが、この手のものは吸いすぎると幻覚や眩惑…そう、人を傀儡にするのには最適な毒である。
「は、早ぇ…」
「そこの棚から、あの薬をとってもらえますか?それから、そこの瓶に入っている実をすりつぶしてそこの薬液と混ぜてください。出来たら大至急飲ませます。」
「は、はいっ」
それから…と言いながら綾はぐるりと庭を見渡し、にっこり笑った。ついと細い指が指し示すは、橙色の柑橘。
「そこの柑橘もいできてください。私が許可します」
「ぇええええ!?」
後宮の果実をもいでいいのか!?
医務官たちは一斉に目を剥いた。だが、今目の前で天女のごとく微笑んでいる麗人は、まごうことなくこの国で国王の次に偉いといっても過言ではない彩相。逆らうことはむしろ恐ろしい結果が待っていることを意味する。…まぁ断ったところでこの方は残念そうな顔で自分で行くだけだろうから、そんな恐ろしいことしないだろうけど。
さっと差し出された柑橘を見て、剥いておいてくれと指示をすると、綾は困ったように微笑んだ。静蘭、ごめんね。なんて小さく言って、薬湯を口に含むと口移しで薬湯を流し込んだ。ついで、綾の柳眉が寄せられる。
「この薬、とても苦くて口直しがないと可哀想でしょう?そこの柑橘は、この時期とても甘いんです。なんなら今余計にもいで食べてみてくださいな」
あー苦い
きゅっと目をつむり、袖で顔を隠して苦いと呟く綾はなんだかとても幼げで可愛らしい。…ちょっと待て、今口移ししなかったか?いや、先に毒は口のなかも大丈夫だと確認し、吐瀉物は無いが一応念のため口もゆすがせてあるから安全だが、そんなことはどうでもよくて、ええぇ…
((((羨ましいぞ茲 静蘭!!!!))))
「か、閣下…どうぞ」
「うぅ…ありがとうございます」
白魚のような指が柑橘を口に放り込むその様さえ絵になる。細い指が皮を剥き、汁を搾って甲斐甲斐しく静蘭の口許へ運ぶ。…もう美麗な新婚夫婦を見ているかのようだ。妬ける。
「これで持ち直すでしょう。傷口が塞がってきたら抜糸しましょうね」
ぐったりとしている静蘭の髪を優しく撫でる。と、綾は慌ただしく部屋に駆け込んできた部下の姿に目を丸くした。
「何事ですか。怪我人がいるというのに騒々しい」
「も、申し訳ありません閣下。ですが、紅貴妃様のご容態が…」
全てを言い切らないうちに、一陣の風が吹き抜けた。はっと皆が顔をあげると、そこに先程まで優美に佇んでいた綾の姿はなかった。
後宮の庭。その暗がりを一人歩いていた霄太子は、背後から聞こえたからんと剣先を地面に擦る音にふと、足を止めた。ぐるりと辺りを見渡せば、背後からからからと剣先を引きずりながら、ゆらりと歩み寄る綾の姿が見えた。いつもは凛とあげられている華の面差しは俯けられ、その表情はうかがい知ることはできないが、平素の天女と称された穏やかさは欠片もなく、ただ鬼女のような恐ろしさを纏っていた。
「劉輝に解毒薬をやったそうですね。それも、貴方が認めるにたる王になることを条件に」
「なんじゃ、綾殿は相も変わらず耳が早いのぅ」
「おのれ…おのれ貴様っよくもぬけぬけとッッ!!!!」
柔和な美貌が怒りに燃える。綾は一振りの細身の剣を振るった。高く跳躍すると軽やかに宙を舞い、一気に距離をつめて頭のすれすれに剣を突き立てる。まさに剣舞を舞っているかのような、隙がない美しい動き。
ドンッと鈍い音をたてて剣は木の幹へと突き刺さり、ピリ、と僅かに顔に痛みが走った。頬の薄皮が切れたらしい。じっとりと頬が濡れる。血が滲んできたのか。綾は俯いたまま、震える声で呟いた。
「何故、避けないのです」
「殺したいほど憎いか、私が」
「えぇ、とても!!!」
悲痛な叫び。普段叫ぶことなどしないだろう彼から張り上げられた声に、霄は瞠目した。紅玉の双眸から透明な滴が零れ落ちる。
「でも、殺せないのです。可愛い可愛い、愛しくてたまらない弟妹の命が脅かされたというに…。こんなにも、私の大切なものを奪い去っていくことを厭わない貴方を…殺してしまいたいほど憎いのに――」
貴方は、殺せない…
今霄に代わる力を持つものなど、朝廷には存在しない。そう、民を思うのなら、どれだけ殺したくても殺せないのだ。殺したら、この国は終わる。そんなこと、出来ない。
聡明すぎるが故に、どこまでも自由になれない公子を、霄はこの時哀れに思った。これが、先王が清苑に言った「お前がもう少し馬鹿か、賢く生まれていたらな」の賢い者の末路か。国が、民が、…周りが見えすぎてしまうがゆえに、自分の思い一つで行動できない現実の歯痒さに涙する。
「ふ、ふふ…私もまだまだ甘いですね…」
斬って棄てなければならないものなど、掃いて捨てるほどあるというのに。
(そなたのその甘さが好きなのだといったら、どんな顔をするだろうか)
「もっと強く。もっと強くならなくて…は…」
「綾?綾!!!」
綾の体がぐらりと傾いだ。咄嗟にそれを抱き止めた霄は、背後からの殺気に内心舌打ちをした。…邵可か、面倒なのに見つかった。
「綾!?綾に何を…!?」
「邵可。…心労とここ最近の激務のせいじゃろう。まことこの国は、綾殿には生きにくい」
誰からも愛され、誰からも頼りにされるが故に。
皆期待してしまうのだ。その細い華奢な体躯に、どれだけのものを背負いこんでいようと、人は見て見ぬふりをする。優しい##NAME1##は、人が罪悪感など感じぬようにそれを気取らせもしない。
「……秀麗と静蘭はどうしました」
「物騒だな、"黒狼"」
首筋に刃が突きつけられようとも、飄々とした態度を崩すことなく霄太子はくつりと笑った。
「先王のもとで数々の暗殺を手掛けた伝説の兇手も娘息子と家人のこととなるとそこらの親と変わらんか。安心せい。今ごろは秀麗殿も回復に向かっておるはずじゃ」
「…本当に先王陛下のころから貴方は何一つ変わっていませんね。霄太子」
「ほぅ?」
「いつだって「王」のことしか考えない。今回も八年前の時も」
ただ仕えるべき王のためにしかこの名臣と誉れ高い老君は動かない。その事に気がついたのはいつだったか――――
「貴方はあまりにも王のことしか考えない。自分が認めた王には身命を賭して尽くすのにそれ以外にはあまりにも冷酷だ。何故です?何故貴方は王以外を見ようとはしないのです。何故それほどまでに王にとらわれているのですか?」
誰が死のうが関係なく、誰の人生を狂わせてもかまわない。幾千幾万の百姓が屍になろうが全く意に介さない。
それは、何故―――
「とらわれている―――か。なかなかうまいことを言う。そう…わしはとらわれておるのじゃよ。王ではなく"約束に"だがな」
約束?と訝しげに呟く邵可に、霄太子は知る必要のないことだと一蹴する。
「邵可、お前と綾殿は国と百姓のために先王陛下に仕えた。否、綾殿は国と百姓のために国と百姓に仕えていると言っても過言ではないが。だがわしは王のために国と百姓に仕える。わしにとっては王が第一だ。故に王を導くためならば誰を犠牲にしても構わぬ。例えそれがお前の娘の命でもな」
劉輝様は実に王たるにふさわしくなられた
「綾殿が倒れたのは誤算だった。体が弱いこれに無理をさせたなとは思っているがな。今綾殿が居なくなれば間違いなく国は沈む。誰より王に相応しく、その多様な才能ゆえに誰より王に相応しくないのが綾殿じゃ」
邵可は、ぎりっと苛立ちに奥歯を噛み締めた。
「…私はあなたの言葉にしたがって、今まで多くの生命を狩ってきました。あなたの判断はいつも正しかった。一つ首を落とすごとに先王陛下の治世は少しずつ良くなっていきました。だから私は心ならずも納得ずくで暗殺という仕事に手を染めてきたのです」
けれどもう国は定まった。最早"風の狼"は必要ない。
「狩るのは罪人のみ。それが私の譲れぬ一線でした」
「覚えておるよ。わしがその約定を破ったことがあったか?」
「珠翠…彼女も風の狼です。私の部下をあんな風に使うとは―――」
「茶大保は罪人であろう?劉輝様を殺そうと謀った…」
「そうさせたのは貴方だろう!!!!」
邵可は激昂した。茶大保の霄太子の上に立ちたい思いを、それを押さえ込む理性を崩壊させ、謀反へと追いやった霄太子を。そしてその状況を作り出すために秀麗と静蘭、##NAME1##を巻き込んだことを。その全てを利用して、劉輝を王たらしめるために行っていたことを。
「お前は昔から誰より優秀で有能だった。茲 静蘭か。うまいこと名付けたものだな」
茲とは紫草。誰も使うことを許されぬ王家の紫氏に通じるもの―――
「お前には感謝せねばなるまいな。臣籍降下された##NAME1##公子をこれほどまで立派に育て上げ、流罪になった清苑公子を拾いにいき、劉輝様には学問と――宗に頼んで武も磨かせた。そして素晴らしい娘を育ててくれた。」
「皮肉ですか」
「心からの礼じゃよ」
霄太子はふっと淡く微笑んだ。邵可は射殺しそうな目でじろりとそれを見つめた。
「お前のようなものがいるからこそこの国もまだやっていける」
「私はあなたを許しません」と、邵可はハッキリと言った。
「なんの罪もない秀麗と静蘭、そして綾を、王のためにあれだけ尽くした三人を最後まで利用して殺すことも厭わなかった」
「殺そうとは思うておらなんだぞ。特に綾殿は」
飄々と言ってのける霄太子の顔の横に、投げつけられた短剣が突き刺さった。
「結果的に死んでも構わないと思っていたのでしょう。覚悟しておいてくださいねこのくそじじい。いつか絶対殺しに行きます」
殺意の塊をぶつけられた霄太子は、それでも人を食ったような笑みを浮かべながら、楽しみにしているとだけ呟いて綾を邵可に手渡すと闇の中へ姿を消した。