天狐の桜20
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腐り落ちた肉塊が長屋を押し潰し、酷い悪臭が漂う江戸の街の一角。無惨な姿と化した山ン本の亡骸に、そっと歩み寄る者がいた。
金糸の髪に羽織と着流し姿の青年──柳田である。
「山ン本様…ど、どうして…!!」
柳田の目から血涙が溢れた。がくりと膝をつき、心酔する主の死に咽び泣く。何故私を置いて逝ってしまわれたのか。何故、何故、何故…
悲しみはやがて怒りと憎しみへと姿を変える。慟哭が、沸々と腹の底から沸き上がる憎悪の叫びに変わり、絶えず空気を震わせる。
「く…う…フ…フザ…ケンナよ…おめぇ何なんだよ黒田坊ォォオ!!!!」
何故殺したんだ。あんなに山ン本様から愛されていたのに。それなのに何故…
許せない。裏切り者の黒田坊も、山ン本から寵姫を、そして己から山ン本(主)を奪った奴良組を。
その時、柳田ァ…とか細く己の名を呼ぶ声を聞いた。確かに、確かにそれは己の敬愛する主の声で。柳田は迷わず肉塊の中へと飛び込むと、臓物を掻き分けて声の主を探す。
やがて腐乱した臓物の中から見つけ出したのは、皮を剥がれた赤ん坊のような、おぞましい姿をした"何か"であった。
「こ…これ…は…」
柳田は恐る恐るその赤子を抱き上げた。大切そうに腕に抱き、へなへなと座り込む。これは一体どういうことか。この子は一体……
その時、柳田の肩をポンと叩くものがいた。花柄の羽織に着流し姿の黒髪の男。…そう、それは前にリオウの式と対峙した<圓潮>であった。
「山ン本さんは…死んでなどいない。そういう妖になったのだから」
柳田は怯えたように目を見開き、信じられないとばかりに圓潮を凝視した。死んでいない?山ン本様が?一体どういうことか。いや、その前に…この者は何者だ?
「…何者だ」
「私(あたし)は圓潮。山ン本さんの口だ」
「…!?口…」
この男は何を言っているんだ?口?問い返そうと口を開きかけたその時、ズズ…とおぞましい妖たちが姿を現した。
山ン本は確かにその身を失った。だからもう一度集めなくてはいけないのだ。畏を…そして、妖と化してなお切望した、かの<かぐや姫>を必ず手に入れる。
「柳田。君は山ン本さんの忠実な側近で、百物語の手伝いをしていた妖だね?ならば…君はそのまま<耳>となり、<怪談>を集め続けろ。耳が集め、口が広げ、手が生む…<畏>を集めるんだ」
──それがその子の血となり、骨となる
額に大きな大きな目玉老人──鏖地蔵が、お主もワシらの一部となるのだ、と嗄れた声で笑った。ぞろぞろと集まる面々の顔を見渡し、圓潮は静かに扇を開く。
「皆の者…一度地下に潜るぞ。力を蓄えるのだ」
──深く静かに根を張り…再び山ン本さんの復活と共に世に出ようぞ。
──さぁ、行こう…柳田…
その後───
江戸の街は、老中柳沢吉保など覇者の茶の中毒となった者たちが、自ら畏を集めようと悪業を働くようになるが…水戸光國を中心にした取り締まりによって、やがて江戸の百物語騒動は収まっていったのであった。
(気配は消えた。あの妖気も遥かに弱まっている。…しかし、これで本当に終わったのだろうか…)
「いやぁいい天気じゃのー、桜がよく映える。のぅ御姫。御姫?」
「どうしたんじゃ?リオウ。何かあったか?」
「──いいえ、お祖父様。お気にならさず」
庭で季節外れの桜を見上げていたぬらりひょんたちに、リオウはふわりと微笑んだ。
江戸に束の間の平和が戻った。しかし、それは三百年に渡る闘いの始まりに過ぎなかった。
同時に、奴良組内部でも鯉伴と乙女のすれ違いや、それによる乙女の失踪など、ゴタゴタが多く続いていた。乙女の失踪後、暫くして雪麗も姿を消し、二人と大層仲のよかったリオウにも徐々に憂いげな表情が目立つようになる。
激しく感情を表に出せば、リオウを可愛がる神々がどんな報復に出るかわからない。しかし、山ン本の一件、そして両親の仲を必死に取り持っていたリオウの神経は磨り減らされ、精神はもう限界であった。
「母上が逝き、雪麗が去り…大事なものが次から次へと掌から零れ落ちる」
庭の桜を眺めながら、リオウはぽつりと呟いた。絶対なんてものは存在しない。それは神である己自身がよくわかっている。神や妖の特性など、限りなくそれに近いものはあれど、"絶対"──完璧であり完全であるものはない。
生きとし生けるものには等しく死が与えられる。永久(とこしえ)の生を"完全"とするならば、この事実こそこの世に"完全"をもたらさぬ要因であろう。
完全でない故に、その愚かさから人も妖も皆罪を犯す。その営みが何かの犠牲の上に成り立っていることを、見向きもしない。事に気づくのは全てが過ぎ去ってから。
しかし、完全でないからこそ、それを愛する神として天狐(おのれ)がいる。万物を愛し、そのすべてを慈しむ。その不完全さも、罪も、愚かさも、すべてを赦し、愛するのが私。
───故に、"天狐(わたし)"は孤独だ。
桜の花弁をはらんだ風がふわりと吹き抜け、ついで一羽の子鴉がフラフラと庭へ迷い混んできた。ぽてっと簀子に着地すると、飛び付かれてしまったのかすっかり座り込んでしまう。
「おやおや…随分と愛らしい小鳥が迷い込んできたものだ」
愛らしい姿に頬が弛む。驚かせぬように優しく抱き上げ、リオウはそっと子鴉の頭を撫でてやった。艶やかな漆黒の羽根に、紅玉の瞳の子鴉。この瞳の色…妖か。それにこの子鴉から僅かに感じる妖気。この妖気にとてもよく似た妖気を持つ者を知っている。
「私は奴良リオウ。この屋敷に住むただの狐よ。ふふっ、愛らしき烏の子。お前の名はなんと言うのだろうな?」
桜が舞う優しい春の木漏れ日の中での、小さな出会い。
この出会いが後のリオウに大きく影響を与えることになることを、この時のリオウはまだ知る由もなかった。