天狐の桜20
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一寸先も見えぬ漆黒の闇。奇妙な棘のある岩が突き出し、風の音すらしない無の世界。──地獄。
正しくは地獄の入り口とも言えるその場所で、一人の男が踞っていた。
「うぅ…う…おのれ~~~奴良鯉伴ん~~~」
彼奴が邪魔をしなければ、今頃己は仏となり、かの麗人を腕に抱いていただろうに。しかもあの麗人を"己の宝"だなどとふざけたことを抜かしよる。
恐らくかの麗人が一向に見つからなかったのは、あの男が何処かに隠しているからだろう。おのれ…何処までも憎たらしい奴よ。
ギリギリと奥歯を噛み締めた山ン本は、ついで急激に襲い掛かる胃痛に思わず膝をついた。まるで胃の腑が握り潰されるような強烈な痛み。
「!?うぅ…!?痛い!!胃が…胃が痛い!!…ん?ゲ!!なんじゃこれは!?」
見れば、己の手の殆どが消滅していた。辛うじて数本の指先が残っているものの、それ以外の部位は黒く靄がかかったよう。それどころか、身体や顔の殆どが同じように失われていた。
痛みと恐怖に、山ン本は悲鳴をあげて辺りを見回す。しかし、そこは一寸先も見えぬ闇が絶え間なく続く世界。
「何処だ…此処は!?ヒ…ワシは…どうなったんじゃーーー!?」
山ン本の悲鳴にも似た絶叫が、虚無の世界に木霊した。
黒田坊の背にかばわれた子供達は、呆然と目の前の妖怪を見上げた。本当に黒田坊が来てくれた。守ってくれたんだ。
「…拙僧の衣にしっかりしがみついておけ。離れて死んでも知らんぞ」
「ハッハイッ!」
少年は妹と共に黒田坊の衣をぎゅっと握りしめた。頭上でよっと声がしたかと思うと、目の前に着流しの青年が飛び降りてくる。
「よぅ、すまねえなぁ。子供達守ってくれたみてぇで」
「…お前に礼を言われる筋合いは無いだろう」
「ここはオレのシマだぜ…ってかおめぇ、正気に戻ったんじゃねぇか?」
「フン…どうやら拙僧は山ン本にたぶらかされていたようだ」
奴はかつて甘言を弄して此方に近づき、あの茶の力をもって己を騙し、操っていたのだ。これまで奴の欲望の手先となり、動かされていたかと思うと腸が煮えくり返る。
「その怒りの矛先のよぉ。あいつは…どうなっちまったんだい!?」
肉も骨もドロドロに溶け、どんどん妖と化しているようだ。しかも、まるで操り人形のようにふらふらと目指しているのは、江戸の町の外れ…あの方角は奴良組の屋敷がある辺りだ。
本能でリオウの居場所を目指している。まったく、どこまでもふざけた野郎だ。
「鯉伴!!此処にいたか!」
「首無…」
「今の話、どうやらそのようだぞ。あいつの身体が蕩け出して、妖怪がどんどん生まれてやがる!」
人を襲うだけで意思を持たない奴等が街中に溢れだしている。これ以上増えては、もう取り返しがつかない。
「厄介だが…あの本体を倒さなきゃいけねぇみてぇですよ。二代目ェ…」
首無と鯉伴は疾風のように飛び出した。首無は逃げおくれた町人達のもとへ。鯉伴は対峙する山ン本の目の前へ躍り出ると、懐から朱色の大盃を取り出した。
明鏡止水───桜
盃の中の酒が炎を纏い、ぶわりと山ン本に襲い掛かる。苦しげな声をあげて藻掻き苦しむ山ン本の首元に、鯉伴は渾身の一太刀を浴びせた。
白狐──リオウの式は、とある長屋の屋根から、その様子を見守っていた。
【流石は父上…】
式の目を借りて見守っていたリオウは、感服した様子でゆらりと尻尾を振った。嗚呼、気が昂る。願わくば、己もああして戦いたい。
形のよい唇がゆるりと弧を描き、澄んだ紅水晶の瞳がうっとりと甘やかに蕩ける。涼やかな目元は上気し、見るものを魅了する壮絶な色気が溢れる。
(これで終わり、いや。妖気は今だ消えるそぶりすら見せてはいない。!あれは…)
山ン本は、己の左胸に右腕を突き立てた。深々と差し込まれた手が、やがて心臓をずるずると引きずり出す。
引きずり出された心臓は、どくりどくりと脈打っている。ついでそれはギュルルと音をたてて裂け、中から一振りの刀が姿を現した。
(心の臓から、刀を…?)
否、あれは山ン本の心臓そのものだ。山ン本の臓腑が各々本体から分かれ、各々に力を持ち始めている。そのうちのひとつ。
山ン本は、その刀を一振りすると、一太刀のもとに鯉伴を吹き飛ばした。
(っ、父上…ッ!)
リオウは思わず目を瞠った。──あの刀、その刃に触れる者の畏を吸い取っているのか。まさには妖殺しの恐ろしい刀。
山ン本の心臓───魔王の小槌
「"雪のような白い肌に、烏の濡れ羽色の髪。傾城傾国と吟われた絶世の美貌。名すら秘められ、引く手数多も誰にも靡かず。求婚者は皆門前払い。ついた異名は【かぐや姫】"」
突如投げ掛けられた、流れるような口上。見れば、白狐のすぐ近くに、短い黒髪に羽織りと着流し姿の男が立っていた。扇子片手に滔々と語る、噺家のような佇まい。
「その気配。あんたが"宝"かい?」
【………】
リオウは無言を貫いた。この男、妖か。山ン本と同じ妖気…しかし、そこらの肉塊から生まれた奴等とは、段違いの妖気の量。──ただ者ではない。
「あたしは圓潮。あんたの…───いや、山ン本様の寵姫にこんな口では失礼か。貴方様のお名前は?」
まさかかぐや姫の正体が狐とはねぇ、と圓潮は口の端を持ち上げた。感情の読めない瞳が白狐を見下ろし、くっと喉の奥で低く笑う。
「しかし、妖狐とはどうやら違うような。貴方様は一体何者でいらっしゃるのか、是非ともお聞かせ願いたいねぇ」
【───】
白狐はつんとそっぽを向くと、くるんとひとつ宙返りをした。狐の姿は空中で一枚の料紙に変わり、それが再び屋根に降りる頃には青白い炎に包まれ、灰も残さない。
圓潮は終始つれない白狐に、面白くてたまらないとばかりについと目を細めた。
「………成る程、式紙。声どころか姿すら見せてくださらないとは」
己は山ン本の口。山ン本の一部であった頃の記憶も残っている。そう、それは百物語を語る噺方も、──あの麗人の肌に触れた感触も。
「一筋縄ではいかない御仁か。…面白いお方だ」
圓潮はひとつ怪しく笑うと、闇の中へと姿を消した。