天狐の桜20
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暗闇に蝋燭の光が揺らめく座敷。山ン本の配下の刺客は、主人の前にある品を差し出した。
「むぅ!?これが妖怪の総大将…奴良鯉伴の髷ともうすか!?」
山ン本は、血がベットリと付着したそれをつまみ上げた。本人の血だと頭を垂れる部下に満足げに笑うと、山ン本は黒田坊を呼びつける。
最大の邪魔者であった奴良鯉伴は死んだ。今この江戸に己の敵はない。自分の怪談がこの江戸で、もっともっと羽を広げることができる。
山ン本は、そっと傍に控える黒田坊を一瞥すると、柄杓でその頭を殴り付けた。
「ばかもんが…失望させよる!!」
「次しくじれば消すぞ」
「……ハ」
黒田坊は深々と頭を垂れた。山ン本は苛立ちも露に柄杓で掌を打つ。
「ふん。…まぁいい。尋ね人の件は聞いたな?早く見つけ出して連れてこい」
尋ね人…?と訝しげに繰り返す黒田坊に、山ン本はふんと鼻をならした。なんだ、まだ聞いていないのか。
緑の黒髪に黒曜石の瞳。雪のように白い肌は陶器のようにすべらかで、繊細な美貌を際立たせる。まさに牡丹のような華やかで麗しい美貌の君。──それが、此度の尋ね人である山ン本の寵姫。
「浮世絵町の外れの屋敷に住む美しい青年でな。だがあの矢傷で堀に落ちたのだ。恐らく生きてはおるまい」
あぁ、早く妖怪にして侍らせたい、と山ン本は厭らしく笑った。その時、浮世絵町の外れの屋敷に住む麗人…という言葉に、黒田坊の脳裏には一人の青年の姿が浮かんでいて。
『もし、もし。いかがなされた?』
(まさか、この方の寵姫とは……)
全ての音が遠く聞こえ、己の鼓動が嫌に激しさを増す。まだそうと決まったわけでもないのに、違ってほしいと願う自分がいる。
たった一度。たった一度だ。かの君に会ったのは。──それでも。
「早く行け。時間が惜しい」
山ン本は巨体を揺らして立ち上がると、暗い廊下の奥に消えていく。襖を開けると、広間には既に大勢の客人が集まっていた。
「やぁやぁ、お待たせしました。皆の衆」
「ハハハ」
「待ちくたびれましたぞ、山ン本殿」
今日は月に一度の<解放>の日。百鬼の茶釜で淹れた<茶>を振る舞われる。怪談によって、江戸中から集めた畏を溶かしこんだ<茶>。この味は人々を狂わせる。
まるで麻薬。この味を知ってしまえば、もうやめることなど出来はしない。<茶>欲しさに、怪談はますます広がっていく。
──<足取り坊主>って知ってる!?
──怖いよぉ
──今度はあっちで<顔喰い>が出たって
──助けて
──三のつく日に転んだらいけねぇって聞いたぜ…
山ン本が無数に産んだ怪談は、実体をともない、江戸中を恐怖で満たし、人々を混乱させた。
「井戸で手を洗っちゃダメだって聞いたよ!」
「そんな…!」
やがて.、根も葉もない噂話も同様に広まるようになり…人々はますます恐怖する。そして百物語の参加者は増え続け、新たな怪談はねずみのように広がっていく。
各地の小さな集会でも百物語が行われ、そこからも新しい怪談が生まれる。百物語で得た畏は全て山ン本の元に集まり、<覇者の茶>は大量に作られ、民衆にまで配られるようになった。
百物語の怪異は江戸を覆いつくしていった。人口が爆発的に増えたこの時代に、山ン本がこの手法を使ったのは、ある意味必然……
山ン本は人の口の数だけ、怪談もまた爆発的に広がるのを予見していたのだ。その数や勢いは、奴良組のそれを凌駕していた。
だが、江戸の人々を苦しめたのは妖だけではない。──神々もまた、人々への怒りを露にしていたのだ。
江戸の…日本の天候は荒れていた。リオウを害されたと怒り狂う神々の手により、地震、雷、高波、津波…風が吹き荒んだかと思えば、雨が全てを押し流す。雷が家々を焼き払い、逃げ惑う人々の嘆く声が江戸に満ちる。
【嗚呼リオウ…我らの愛し子…】
【なんと労しい…】
【おのれ人間…人の子風情がよくも…よくも…】
【赦さぬ…赦さぬぞ…】
【我らの怒りを思い知るがいい…!!!!】
(嗚呼、なんと惨いことを…私が…こうしていては、民に被害が出てしまう)
精神を己の神域へ飛ばし、一人引きこもっていたリオウは、水鏡に映る現世の惨状に、悲しげに目を伏せた。
【おぉ、リオウ。そう憂いげな顔をするな】
【そうじゃぞ。妾たちが仇をとってやるゆえな。安心するがよい】
「もう…いい。良いのだ。私なら大丈夫」
ふらりとリオウは立ち上がった。彼をそれこそ実の子、孫のように可愛がっていた神々は、表情の抜け落ち、諦めたような顔で涙を流すリオウに心配そうに寄り添った。
【なぜ止める】
【奴等は其方を傷つけた】
【今もなお苦しむ傷を与えた】
【人の子風情が可愛いお前に触れたのだ。その身を引き裂き、業火に焼いてもまだ足りぬ】
「だとしてもだ。関係のない人の子を害することは許せぬ。───私には、"人の子"を憎むことなど、出来ぬ」
天狐は万物を愛し慈しむ慈愛の神。その彼にとって無関係な"人の子"を傷つけることは、身を裂かれるより辛いことで。
リオウの気持ちを察した神々は、皆口をつぐんだ。正直なところ、神々にとって人間の命など然したる問題ではない。
"お前んとこの人間、一日に1000人殺してやる!!!!""じゃあこっちは1500人産ませたるわボケ!!!!"と盛大な夫婦喧嘩をした神もいたように、言うなれば"その程度"なのだ。
土地神程度なら、人々からの畏を失えば消えてしまうが、高位の神々である彼らにはそのようなものは関係ない。無論、畏を失えば力が弱くはなるものの、消えはしないのだ。
だからこそ、"どうでもいい"。願掛けに来ようがなんだろうが、神々が個々人を見ることなど無い。気が向いたときに気が向いたように耳を貸す。その程度。
────だが、"慈愛の神"…天狐であるリオウは違う。
「憎く…恐ろしいのは、あの男だけ。罪の無い人の子の命が失われていくのは、私には耐えられぬ」
【…罪をおかさぬ人の子など無い】
「その愚かさすら愛おしい。愚かで儚く、刹那とも言える時のなかで、時には明星のごとき輝きを放つ。細く頼りない糸のような個々人が集まり、時代と言う名の一枚の布地を織り上げる様を見守るのが、私にとっては何よりの喜びであり楽しみなのだ」
それに、とリオウは続けた。閉じた瞼に浮かぶのは、己の名を必死に呼び続ける愛しいものたちの顔。
「私は何分"愛されている"様でな。私が手を下さずとも、あの者を決して赦さぬと息巻く連中がついている」
だから、憎しみにとらわれようと、恐怖に怯えようと、此度の私への罪は赦すことにした。──そうでもしなければ、この神々はきっと"人間そのもの"への怒りを禁じ得まい。
「だが、あれが真に妖となり、人の子たちを害した暁には…私は決して赦しはしないだろう。何度も大きな過ちを赦すほど…私も寛容ではない」
【本当に良いのか?何かあるなら遠慮なく言うてくりゃれ。妾たちはお前が望むのなら…】
「もうよい。…私はなにも望まぬ。しかし、その気持ちはありがたく受け取ろう。──嗚呼、まったく…私は幸せ者よな」
ふふ、と儚く微笑むその顔に、高天ヶ原からわざわざすっ飛んできた神々の一人──高雄神は、納得がいかなそうにその顔を歪めた。
【嗚呼、妾は赦せぬ…愛しいお前にそのような顔をさせた者共をどうして許せようか】
「高雄の。…気持ちはありがたいが、これは私の問題だ」
高雄神はリオウの頬を撫で、顔を覗きこむと、堪らずきつく抱き締めた。リオウを孫のように可愛がる建御雷神(タケミカヅチ)も、リオウの頭を撫でて心配そうに眉根を寄せる。
【だがな、リオウ。これで二度目だ。二度だぞ。お前たち天狐が人の子の手によって害されたのは】
一度目は花開院の手によって、唯一逃げ切れた姫以外一族郎党皆殺し。そして、此度は山ン本の手によってリオウが。これをどうして赦すと言えよう。
「鹿島の。…先に述べたはずだ。私は、罪の無い人の子が傷つけられるのを見るのは、もうたくさんだと。地震に雷…火事に津波。もう十分な罰となった筈だ」
リオウはそっと高雄神の肩を押し、やんわりと建御雷神の手を握って外す。
「ありがたいが、お前たちはちと過保護が過ぎる。私とて、若くとも神よ。それとも…お前たちは私に前を向かせぬつもりか?」
天狐とて高位の神。いくら年若いとはいえ、その矜持はある。それをわかっているからこそ、年嵩の神々は皆揃って口をつぐんだ。
それでも心配なのだ。この可愛い可愛い末っ子が、また卑しい人間の手によって心も体も傷つけられたなど、赦せることではない。リオウを取り囲む神々の間から、四神の一柱…朱雀が顔を出した。
【君はまたそうやって人を赦すのか】
「朱雀」
朱雀は拗ねた子供のように唇を尖らせた。面白くない、と言わんばかりのそれに、リオウは小さく息をつく。
人を赦すのか、だと?あぁ、赦すだろう。恐らく、これからも…何度も。それが"天狐(リオウ)"なのだから。
リオウの言いたいことを察したのか、朱雀は吐き捨てるように呟いた。
【…我は人間が嫌いだ】
「ならば、お前が人の子を嫌う分、私が人の子を愛してやろう」
リオウはそう言って微笑んだ。慈愛に満ちた優しい微笑みは、この世の何よりも美しくて。そろそろ戻らねば、と独りごちると、リオウはひらひらと手を振り、神域を後にする。
【……だから、人の子が嫌いなんだよ】
ぽつりと呟かれた声は、誰に聞かれることもなく、淡い光の中へと溶けていった。
古ぼけた見慣れた天井。ゆっくりと視線を巡らせれば、己の傍らで一人三味線を弾く雪麗が目にはいる。
「せつ、ら…」
「ッッ…リオウ…!!!!」
三味線を放り出し、雪麗はリオウを掻き抱いた。あの時意識を飛ばしてから、リオウはこんこんと眠り続けていた。もう目覚めないのではないかと心底心配していたのだ。
リオウはゆっくりと体を起こすと、尚も己を抱いて離さない雪麗の髪をそっと撫でた。
「心配をかけたな。もう、何でもない…平気だ」
私がいつまでも揺らいでいては、神々が煩いゆえな、なんて困ったように微笑むリオウに、雪麗は言葉につまった。
「リオウ、あんた…」
「ん…?」
やんわりとした、しかし有無を言わさぬ神々しさのある笑顔。白魚のような指が頬を撫で、目元をぬぐう。
「泣かないでくれ。雪麗」
「馬鹿ね。…あんたが泣かないから泣いてんのよ」
この天狐には、素直に感情を出すことすら許されないのか。怯えているなら傍に寄り添い、怒りに狂うならやりたいようにさせてやりたい。だが、この聡明で優しすぎる神は、己の行動がどれだけの影響を与えるのか見えてしまう。
(嗚呼…雨が降ってきたか)
リオウは宥めるように雪麗の髪を撫で、優しい雨音に身を預けるように、ただただ静かに目を伏せた。