天狐の桜20
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とある武家屋敷───
「お待たせいたしました」
広大な屋敷の一室…絢爛豪華な調度品に囲まれたその部屋に、山ン本はいた。目の前には時の老中 柳沢吉保が座っている。柳沢はぎょろりとつき出した目玉をぐるりと回し、苛立たしげに山ン本を睨め付けた。
「言うより遅いではないか。山ン本…」
「申し訳ございません」
柳沢は、平に頭を下げる山ン本に鼻を鳴らす。まぁ、そんなことはもうどうでもいい。
「出来はどうじゃ…"いつもの"か」
「是非お味見を…」
「ム…そ、そうじゃのう」
ことりと柳沢の目の前に湯飲みが置かれた。いそいそとそれを取り上げ、得も言われぬ香りのその液体を口に含む。ごくりと喉仏が上下し、柳沢のぎょろりとした瞳が濁る。
「なんとも…言えん味じゃ」
「覇者の味にございます。いつものように是非、上様に献上させて頂きたく」
「む…上様もお喜びになるだろう」
ガタゴトと音をたてて屋敷を出る牛車を見送りながら、柳田はついと目を細めた。百鬼の茶釜で淹れた"畏"の味。あれを一度口にすれば、たちまちその虜となってしまう闇の代物。
「あの男…ちゃんと将軍まで渡しますかね」
「フン…あれを一度飲んだら忘れられんからな…つまりヤツも上から催促されておるじゃろうよ…」
しかし、ワシの野望はここからじゃ。まだまだ誰にも止めさせんよ。だから…<あいつ>を差し向けたんじゃ。
邪魔者を排除することはかの妖怪に任せる。自分は畏を集めながら、先の麗人の行方でも探すことにしよう。
次にあの美しい肢体を腕に抱けた時には、どんな風に辱しめてやろうか。色と欲にまみれた妄想に、山ン本はニタリと厭らしく笑った。
暗い、どこまでも続く漆黒の世界
──何をする、じゃと?まだ"男"を知らぬか。なに、夜はまだまだこれから…その体にたっぷり教え込んでやるからなァ
肌を這いずり回る、不躾な闇
──此処にワシの子種を植え付けてやろう。そしてワシの子を孕め。
──孕め
──孕め
あのおぞましい声が、指の感触が、体に纏わり付いて離れない。気持ち悪い。肌が粟立ち、思考がぐちゃぐちゃに絡んで考えることを拒絶する。
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い。
「ッッ!!」
布団を払い飛ばし、リオウは弾かれたように飛び起きた。どくりといやに心臓が脈打っている。右肩に鋭い痛みが走る。恐怖と焦燥が体を支配し、上手く呼吸ができない。
「リオウ!あんた気がついたのね!?」
雪麗はリオウの傍らへと駆け寄った。部屋の前でハラハラとリオウの回復を待っていた妖怪たちも、雪麗の声に部屋へと飛び込んでいく。
「リオウ様!大丈夫ですか!?」
「もう起きても平気なのですか!?」
「リオウ様!」
「リオウ様!」
次々とかけられる声。自身に向けられる沢山の目、目、目…
「ぅ、あ、あぁぁああぁ…っ」
「リオウ…!?」
違う筈なのに、向けられる視線が全てあの男のものに思える。──それだけ、色欲以前に夜の知識など皆無のリオウにとって、初めて曝された暴力的なまでの色欲の視線は強烈で。
「嫌だ…ッ来るな!!私に触れるな!!嫌だ…っ嫌…」
そんな目で私を見ないでくれ…っ
優しい光を湛える紅水晶の瞳は、恐怖の色に染まり、まるでガラス玉の様。白魚のような手が身を護るように己を掻き抱く。
蒼白い狐火がリオウを護るように浮かび上がり、微弱な神気が威嚇するようにピシピシと肌を打つ。
着物を剥ぎ取られ、肌を舐めしゃぶられる恐怖。容赦なくぶつけられる劣情。挙げ句、矢を射られ、死後も妖怪として飼ってやると、執着に満ちた怒号が飛ぶ。
狂気とも思えるそれは、その全てがリオウにとって初めての経験で。知識にもなかったそれに、今やリオウの全てを恐怖が支配していた。
「っ、リオウ、落ち着きなさい!」
「ひっ…!?ぁ、ぅ、かは…っ」
しなやかな足が逃げるように敷布を滑り、呼吸が詰まって過呼吸を引き起こす。息がうまく吸えない。全身が指先から氷のように冷たくなり、体の自由を失ったリオウは、力なく褥に倒れ伏した。
意識が急速に闇に塗りつぶされていく。残り少ない神気も使い果たし、妖力とのバランスを崩したのだろう。
「リオウ!リオウッッ!?」
意識を飛ばす寸前、雪麗が半狂乱で己の名を呼んでいる気がした。
一方その頃、首無たちと共に町へ出た鯉伴は、黒田坊を名乗る謎の妖怪に襲われていた。
長くざんばらな髪に夜の闇を切り取ったような黒衣の男。額には二本の角が生えており、その着物からは目まぐるしく様々な暗器が飛びだしてくる。
「…この妖気に微かに混じる神気…お前がうちの可愛い息子に情けをかけてもらったってぇ妖怪か」
「なんだと?」
「うちのの残り香がな。あぁ、惚れても無駄だぜ?お前にゃ勿体ねぇ」
鯉伴はボロボロの着物を見てため息を着いた。小さく舌打ちをして袖を破ると、切り傷だらけの手にしゅるしゅると巻いていく。
まったく、お気に入りの着物が蜂の巣だ。折角リオウが初めて仕立ててくれた奴だというのに。
「黒田坊って言ったっけ?おまえら百物語ってので新しい妖怪作ってんだろ…?」
先程、黒田坊は自身のことを「黒田坊の怪」と言っていた。随分と強いが、一体何の妖怪なのだろうか。
飄々と尋ねる鯉伴に、黒田坊は僅かに沈黙した。自分が何者か、だと?
「拙僧は、自分が何者かなど知らん…あるお方によって生まれ…そのお方の邪魔する者を葬り去る。──拙僧はただの暗殺者。それ以外に存在する理由など無い…!!」
「そうかい」
聞いておきながら、実にあっさりと返す鯉伴の瞳は冷たく、チャキ、と刀を握り直す音がやけに大きく聞こえた。
「そりゃつまんねぇ妖怪だな。殺しても構わねぇや」
例え気まぐれでも、リオウが目ぇかけたって奴だから~っと思ったんだけどな、なんて嘯いたかと思えば、次の瞬間黒田坊の肩を鯉伴の刀が貫いた。
慌てて飛び退くも、先程までとは早さも気迫も桁違い。急にがらりと変わった雰囲気に、黒田坊は大きく目を瞠った。
「どしたい?───懐があいてるぜ?」
「く…ッッ!?」
いつの間にか懐に滑り込んだ鯉伴を錫杖で薙ぎ払い、ついで刀でその首を断つ。しかし、その全ては陽炎のようにゆらりと揺らめき、幾度その身を切り刻もうと、霞のように消えていく。
まるでとらえどころがない。確かにそこに在ると認識できるのに、蜃気楼のように手応えがなく。間合いに入り込まれている焦りが、黒田坊の顔に浮かぶ。
その瞬間…黒衣から、四方八方に無数の暗器が飛び出した。
(殺った!!これは防ぎきれまい!!)
「驚いたな…まだそんなに持ってたのか」
聞こえるはずの無い声。確かに今殺したはずの男の声に、黒田坊はばっと顔をあげた。地面を穿ち、天へと伸びる数多の暗器。その上に、鯉伴はいた。
「ま…いくら武器(手数)が多くても、的がしぼれねぇんじゃ──ただの玩具(がらくた)だ」
「貴様っ!!!!」
驚きに息をのむも、時既に遅し。鯉伴は刀を構えると、疾風のように間合いを詰め、黒田坊の構えた槍ごとその身体を切り捨てた。
攻撃を受け止めた槍は木端微塵に砕け散り、体からは鮮血が溢れる。翻筋斗打って吹き飛ぶ黒田坊を冷たく一瞥し、鯉伴は静かに刀を収めた。
「そらみろ」
芯の無い、つまらない妖怪なんか敵ではない。的に当たらぬ武器に意味などあるものか。
「黒田坊。もう一度聞くぜ。てめぇを産んだ百物語ってぇのは、一体誰がどこでやってんだ?」
黒田坊は地面に倒れ付したまま動かない。鯉伴は気にした風もなく、飄々と続けた。
「オレの江戸(まち)で好き勝手やってるふてぇ奴には、直に会ってキツイお仕置くれてやんなきゃならねぇからな」
「…………」
「おーい。……………聞いてっかい…?折角の決台詞…」
言いかけたその時、鋭い殺気と共に鯉伴のうなじへと刃が飛んできた。この黒田坊という妖怪…既に身体はボロボロで、立つのもやっとだろうに、まだやる気なのか。
「せ…拙僧は…貴様を…殺さねばならん…!!」
「やめときな!何度やろうと、オレはもうテメェに畏を感じねぇよ。たとえどんなに強かろうがな…!!」
ずばんっと問答無用で切り捨てられ、黒田坊の身体は堀の中へと沈む。ヨロヨロと水から上がる黒田坊に、鯉伴は呆れたように息をついた。
「オレとてめぇじゃ背負ってるモンが違うんだよ。てめぇの存在理由なんざくだらねぇガラクタみたいなもんだ」
「ハッ…だったら貴様には何があると言うのだ…!?」
「あ?おーい、この江戸(シマ)を…誰のモンだと思ってんだい」
此処…江戸は良い街だ。賑やかな喧騒があり、活気があって華やか。そんな中にいると、なんだか心地がよくて、ついついいつも混じりたくなる。
だが、華やかなものには闇がある。誰かがそれを守っていかなければ、すぐにおかしくなってしまう。自分が背負っているのは、この江戸八百八町の闇───
それが自分の存在する理由であり、強さだ。
「黒田坊…オレを本気で倒してぇってんならよ。自分が何者なのかわかってから来るんだな」
まぁ、とはいってもこいつからはガラクタとは違う畏も感じる。黒田坊畏の"底"の方から…こいつには"何か"がある。
きっとリオウもそれを感じ取って、こいつに手を差しのべたんだろう。アイツは優しいが、神なだけあって芯の無いものにはちらとも振り向きもしない。そんなリオウがわざわざ出てきて、手づから傷を治してやったと言うのだから。
「まっ…思い出したらそんとき改めて見定めてやらぁ。オレの百鬼夜行にふさわしいかどーかをな」
「ふざけるな!拙僧は…貴様を殺すために…!!」
自分はただの暗殺者。──いや、何だ?違う────?
(拙僧はなんだ?何のために…)
その時、黒衣を纏った刺客が数人、二人を取り囲んだ。
「奴良鯉伴。──ここで死んでもらうぞ」
「何…!?」
焦ったのは黒田坊だ。どういうことだ。奴良鯉伴を殺せと命じられていたのは自分のはず。これは、一体…
「ま、待て!どういうことだ!?奴良鯉伴は拙僧が殺る!下がっていろ!!」
「黒田坊殿…何も遠慮する事はない。我らも同じ<刺客の怪>…共に葬ろうぞ」
───それに、貴殿にはとある麗人を探しだす手伝いをしてもらいたい
(んだと…?)
鯉伴は眉を跳ね上げた。その麗人というのは、まさか───
「麗人…?あの方の寵姫とやらか…?」
黒田坊は混乱した様子でぽつりと呟いた。彼の様子を見るに、もしや彼は此度この刺客達や親玉たちの探す"麗人"の正体を知らないのか。
(くそっ数が…!)
刺客たちは次々と此方に飛びかかってくる。切り伏せても切り伏せてもきりがない。目まぐるしく立ち位置が入れ替り、だんだんと逃げ道が潰されていく。その時、一人の苦無が、飛び退いた鯉伴の首筋を切り裂いた。
「ぐあっ」
夜の堀に、派手な水飛沫が上がった。思わず鯉伴を呼ぶ黒田坊など気にもとめず、刺客たちは銘々暗器を収め、鼻をならした。
「仕留めたか」
「山ン本様に報告だ。一部残して戻るぞ」
刺客たちは黒田坊を連れ、音もなくその場から飛び退っていく。
「鯉伴様?」
はぐれた鯉伴を探していた首無たちは、喧騒を聞き付けてお堀端へとかけてきた。が、そこには鯉伴の姿はおろか、人っ子一人見当たらない。
「いない?」
「だが、今確かにこっちで声がしたと思ったんだけどな…」
「ったく、どこ行っちまったんですかい…二代目ぇ」
シンと静まり返った堀池。鯉伴の姿はどこにもなく、暗い暗い水面に、生暖かい風とさざ波をたてるだけであった。