天狐の桜14
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あれは、今から数百年も昔。かつて…己がまだ年端もいかぬ半人前であったときのこと。
(!?も、戻れない…!?)
烏の姿へ変化する練習をしていたところ、何故だか人の姿へ戻れなくなった。父のように鴉天狗そのものの姿へ変化出来たわけでなく、あくまでまだ半人前の自分が出来たのは子烏の姿で。
父に聞けば何か分かるかもしれぬと、母や弟妹たちに黙って高尾山を飛び出した。…までは良かったのだが。
(ここは、どこだ…?)
何分父が奉公する奴良組本邸など、まだ行ったこともなく、それらしい屋敷はないかと方々探して飛び回っていた。だが、まだ幼い己にはいつまでも飛び続ける体力もなく。
少し羽を休ませて貰おうと、ふらふらと誘われるように立ち入ったのは、とある桜の美しい古ぼけた屋敷だった。
『おやおや…随分と愛らしい小鳥が迷い込んできたものだ』
途方にくれる己の体をついと掬い上げたのは、かの美しい天狐だった。浮世絵町には月もかくやな麗しの君がいらっしゃると噂には聞いていたが、この世にこれほどまでに神秘的で妖艶な、今にもふっと消えてしまいそうなほど儚く美しい方がいるとは。
『私は奴良リオウ。この屋敷に住むただの狐よ。ふふっ、愛らしき烏の子。お前の名はなんと言うのだろうな?』
(この方が、リオウ、さま…)
奴良リオウ―――父の仕える奴良組の宝と吟われる、奴良組副総大将。そうか、この屋敷こそ奴良組本邸であったのか。
黒羽丸だと、名を名乗ろうともその嘴から出てくるのはほわほわとした、まだきちんとカァと鳴くことすら出来ない弱々しい鳴き声ばかり。
必死になって暫くほわほわやっていたが、やがて鳴くことすら億劫になってしまった。その間、口を挟む訳でなくずっと微笑みながら羽を撫でてくれたかの人は、漸く口をつぐんだ子烏に困ったように笑う。
『まだ名乗れぬか。ふふ、良い良い。お前の声は存外柔らかく心地がいいものだ。疲れているのだろう。ゆっくり休め』
それにしても、と天狐はまじまじと子烏を見つめた。漆黒の羽に紅玉の瞳か、と呟き、暫し思案した様子でぱたりと瞬く。
長く烟るような睫毛が蝶のはばたきのごとく揺れる様を暫く見つめていると、不意にその紅水晶の瞳が蕩けた。どうやらなにか思い付いたらしい。
『愛でるのに名がないのはちと寂しい故、お前に名をやろう。朔の夜を溶かし込んだような美しい闇色の羽だからな、お前は"朔"だ』
(!"朔"…名をいただけた…!)
『気に入ってくれると此方としては嬉しいのだがな。ふふっ、きちんと鳴けるようになったら、お前の本当の名を教えておくれ』
気に入ったと伝わってほしくて、懸命にほわほわ鳴きながら白魚のような手にすり寄る。そんな自分を、わかったわかった、と笑いながら撫でてくださる繊手は酷く温かかった。
それから幾日と、子烏ながら母や弟妹たちの目を盗んではかの君の元へと通った。急に人の姿を見せては驚かせてしまうかもしれぬと、相も変わらず鳥の姿へ変化して。
かの御方の傍はとてもあたたかくて、酷く心が安らいだ。子供ながらに、これが愛おしいと、恋慕う気持ちであると気づくのにはあまり時間はかからなかった。
幸い、父とは本家で鉢合わせることもなく、弟妹たちにもバレていないようだった。
『黒羽丸、あんた最近何処へ出掛けてるんだい?まさか、好い人でも出来て通ってるのかい!?』
『なっ違う!』
『はぁ~~あんたがね~~』
『母さん!!』
あっさり母には見破られてしまったのだが。母曰く、顔に恋をしていますと書いてあったそうだ。あの人に似て堅物のあんたがねぇ…なんてどこかニヤニヤした笑みを浮かべて此方を見る母の視線から逃げるように、それまでよりもひっそりと、しかし確実に通う頻度は減っていった。
自分はいずれ父の跡を継いで本家に仕えることになる。それまでに力をつけなくては。かの御方を守り、そして御期待に沿えるだけの力を。
一心不乱に弟妹たちと修行に打ち込み、気がつけばあの屋敷に通わなくなって幾年かが過ぎていた。
そして、初めて三羽鴉としてあの御方の前に出たとき。
『リオウ様、倅を紹介させていただきます。今日からこの本家に奉公させます、三羽鴉の黒羽丸、トサカ丸、ササ美です』
『黒羽丸…―――そうか、黒羽丸か。カラス、私に側仕えつけたいと言っていたな』
『は?え、えぇ』
『決めたぞ。この黒羽丸にする』
『は…えぇぇぇえ!?』
ぎょっとする己や弟妹たちよりもなお、驚いた様子の父は文字どおり飛び上がった。対するリオウ様はにっこりと微笑みながら、じっと此方を見つめている。
『ふふ、平たく言えば気に入った。傍に置きたい。…勿論、トサカ丸、ササ美。お前たちのことも頼りにしているぞ。お前たちの父には、祖父の代から世話になっている。世話をかけるが、よろしく頼む』
流れるように頭を下げる主君たる御方に、鴉天狗親子は慌てふためきながら顔をあげてくだされと腰を浮かす。
世話になるのだから此方が礼を尽くすのは当然のことよ、とくすくす笑うかの麗人に、暫くですが…だの何も未熟者のこれでなくとも、などとモゴモゴ口の中で何事か呟いていた父は、諦めたようにひとつため息をついた。
『リオウ様がそう望むのなら』
『ふふっだそうだ。よいな?黒羽丸』
満足そうに笑って目を細める様は、実に妖艶で。自分のことをあの"朔"だと分かってくれているのだろうか。…いや、そんなことはもうどうでもいい。
これから、この方のお側に置いていただけるのなら、この命つきるまで誠心誠意お仕えし、御期待に応えるまで。
『若輩者ですが、宜しくお願い致します』
『あぁ、期待している』
ついと頭を垂れる己の髪を優しく撫でるその手は、かつてと同じくとてもあたたかかった。
「黒羽丸」
「は。…っ!?」
名を呼ばれ、膝をついて頭を垂れる己の頭に、ぽんと白魚のような手が乗せられた。撫でるわけでなく、しかし強く押さえつけるでもないそれに、酷く困惑する。
顔をあげるなということか。何か気にさわるようなことをしただろうか。ぐるぐると思案を巡らせる黒羽丸に、リオウは一つ息をつき、漸々口を開いた。
「……昔、私の部屋に疲れきった子烏が迷い込んできてな」
「!」
「朔の夜の闇を切り取ったような羽と、紅玉の眸の酷く愛らしい子烏でな。出会ったその日から、毎日のように屋敷に通ってくれたものだ」
しかし、どうしたことかある日を境にして来る頻度が少なくなったかと思えば、いつしかぱったりと来なくなってしまった。
「その子烏は、まだ上手く名を告げることができなくてな。名がないのは寂しいと、私は"朔"という名をくれてやった。…いつか、上手く鳴けるようになったら、本当の名を教えてくれと約束したものを」
なぁ、黒羽丸?
ばっと顔をあげると、にっこりと微笑むリオウがいた。覚えていてくださったのか。いや、その前にいつからその事を知っていたのか。
「い、いつからその事を」
「カラスがお前たちを目通りさせた時からだ。一目でわかった。いつ己れが"朔"だと言うのかと待っていたのだが、よもやこんなに時間がかかろうとは」
ヘタレ男めと揶揄されてかっと頬が熱くなる。思わず口を開きかけたとき、リオウの華の顔にふっと影が射した。
酷く切なげで、悲しそうな顔。力なく微笑むそれは、本当に今にも消え入りそうなほどに儚くて、黒羽丸は焦ったように口を開いた。
「急にぱたりと音沙汰なくなったが…私はお前に好いてもらえているものと思っていたのだが、どうやら違ったようだな」
「ッ違…今も変わらずお慕いしておりま――――………ッッ!!!」
ぽろっと溢れた本音に、しまった、とばかりに顔がさらに熱くなる。リオウはきょとんとした様子だったが、ついで形の良い唇が弛く弧を描き、桜色が細められた。
しまった…やられた。これは絶対遊ばれる。
「ほぅ?ふふっ、それはそれは。嬉しいことを言ってくれるな」
「っ……差し出がましいことを申しました。お忘れください」
「何故?ふふっ言ったであろう、嬉しいと。他でもないお前の口から、その言葉を聞けて満足だ」
リオウはそう言うと、ついと手を伸ばして黒羽丸の頭を抱き込んだ。ぽすんと遠慮なくリオウの膝の上に黒羽丸の頭を乗せ、労るように撫でる。…所謂膝枕である。
「リオウ様!///」
「暫し休息をとれ。いざというとき、お前に倒れられては敵わぬ」
「し、しかし…//」
「よい。ふふっこれは命令だ。私の膝の上で大人しく撫でられていろ」
お前は私に撫でられるのが好きだろう?―――朔
懐かしい名で呼ばれ、ぐっと言葉に詰まる。柔らかな太股の感触が、優しく髪をすく指が落ち着かない。顔に熱が集まり、耳まで赤くなるのを自覚しながら、黒羽丸は観念したように目を閉じた。
首無とイタクが騒ぎを起し、船が破壊される音に跳ね起きるまで、あと少し。