直哉短編夢
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縁側からのぞき見るお父さんは、いつも一人で術式の練習をしていた。風を切る袴姿をぼんやりと目で追っては、溜めて吐くみたいな息づかいを聞いて焦点が合う、その繰り返し。
わたしの着物の袖は、お父さんの袴とはちがってゆるやかに風に揺られている。袖を握ると、すこしざらざらな布地に指を擦られた。わたしは、着物のこういうしっかり張った触りごこちを気に入ってるけど、お父さんならどう思うのかな。
物心ついた頃から、お父さんを好きだと思った記憶がない。
ちょっとでも自分の気持ちを言ったら「誰のおかげで飯食えてると思っとんねん」と冷たい声が返ってくる。一度だってわたしの話を聞いてくれたことなんてない。
縁側の端に座って、ぶらぶら宙を蹴る自分の足をじっと見る。すこし内に丸まった指先。短く切りそろえられたピンク色の爪。さかむけをつまんで引っ張ると、ぴりぴりした痛みがじわっと広がった。
お母さんは、さかむけができるのは悪い子だけって言ってた。
「何しとんの」
かすれた声が耳に飛び込んでくる。さかむけのある小さな足の向こう側に、草履を履いた大きな足がある。
顔を上げるとお父さんと目が合って、思わず身がすくんだ。顎が上向きになったのを見て、何も言われないように、お腹に力を入れて背筋を伸ばす。
あんなに走ったり蹴ったりしていたのに、荒い息は聞こえないままだった。やっぱりお父さんは〝すごい人〟なんだな、となんとなく思う。
「べつに、何もしてない」
「俺のこと見とったんやろ。なんで小さい子ぉはこうもコソコソ見るもんなん? 話しかけもせんと見とってウザいねん」
はあ、とため息をついて髪をかくお父さん。そんな風にされると、手のひらがこわばる。ぐぐっと涙が出そうになって、見られないようにうつむいた。
「泣きそうになっとんの? 情けないなぁ。べっぴんさんなんやから愛想よぉしとき。それもできひん女はおる価値ないで」
「…………はい」
高い背の後ろでは、日が厚い雲に覆われながら落ちてきていた。ひんやりとした風につま先をくすぐられて、ふるっと跳ねる。足袋を履きにいこうかと思ったけど、もうすこしここにいたいような気がした。
お父さんは寒くないのかな。たくさん動いた後だから、むしろ暑いのかな。「寒くない?」って聞いたら、面倒なこと聞かないでって思う? それとも、普通に答えてくれる?
お父さんは、口をつぐんだわたしに片眉を上げた後、懐に手を入れていた。眉も目元もよく動いていて、表情はころころ変わるのに、いつも何を考えているのか分からない。
懐の中から、お菓子らしき小さな包みが出てくる。お父さんはそれをわたしの顔の前に持っていきながら、口のはしっこをにやりと上げた。
「これ、いらんから◯◯ちゃんにやるわ」
ひょいっと投げるように渡される。とっさに受け止めた拍子にくしゃりとしわが寄って、包み紙の模様があまり見えなくなった。
模様をどうしても見たくなってしまって、でこぼこになった表面をそっと伸ばす。
もとに戻そうと集中していて、はっとした時にはもう、お父さんの姿はそこになかった。
しわを伸ばそうとするのが急にあほらしくなり、包みをびりっとやぶく。中身を見る前に口に詰め込んで、思いっきり噛んだ。
強い甘みが舌の上で溶ける。砂糖が流れて、のどの奥に染みた。ほろりと崩れゆくうちに、だんだんと、でもはっきり、形が消えていく。
「あまい……」
包みの中身は、私がいちばん好きなお菓子だった。
ぼろ、と涙がこぼれる。唇にぎゅっと歯を押し込む。ぶ厚い雲の間から夕日が差して、くしゃっとした包み紙の一つの面に橙色の光があたった。
こんなの、偶然に決まってる。お父さんがわたしの好みを知ってるはずない。知っていたとしても、覚えてるわけなくて。なのに、どうしてこんなに胸がきゅうっとなるんだろう。
頭の中に、雨戸のすき間から入ってきた木のにおいの風が柔らかく浮かぶ。
嫌いって思うのに、そんな瞬間に思い出すのはこういう記憶ばかり。硬い手につかまれて廊下を歩いた時間、のぞき見がバレても目を細められただけだったあの時。そして、わたしの好きなお菓子をくれた、夕焼けの今日。
あのね、お父さん、わたしね――
〈了〉
わたしの着物の袖は、お父さんの袴とはちがってゆるやかに風に揺られている。袖を握ると、すこしざらざらな布地に指を擦られた。わたしは、着物のこういうしっかり張った触りごこちを気に入ってるけど、お父さんならどう思うのかな。
物心ついた頃から、お父さんを好きだと思った記憶がない。
ちょっとでも自分の気持ちを言ったら「誰のおかげで飯食えてると思っとんねん」と冷たい声が返ってくる。一度だってわたしの話を聞いてくれたことなんてない。
縁側の端に座って、ぶらぶら宙を蹴る自分の足をじっと見る。すこし内に丸まった指先。短く切りそろえられたピンク色の爪。さかむけをつまんで引っ張ると、ぴりぴりした痛みがじわっと広がった。
お母さんは、さかむけができるのは悪い子だけって言ってた。
「何しとんの」
かすれた声が耳に飛び込んでくる。さかむけのある小さな足の向こう側に、草履を履いた大きな足がある。
顔を上げるとお父さんと目が合って、思わず身がすくんだ。顎が上向きになったのを見て、何も言われないように、お腹に力を入れて背筋を伸ばす。
あんなに走ったり蹴ったりしていたのに、荒い息は聞こえないままだった。やっぱりお父さんは〝すごい人〟なんだな、となんとなく思う。
「べつに、何もしてない」
「俺のこと見とったんやろ。なんで小さい子ぉはこうもコソコソ見るもんなん? 話しかけもせんと見とってウザいねん」
はあ、とため息をついて髪をかくお父さん。そんな風にされると、手のひらがこわばる。ぐぐっと涙が出そうになって、見られないようにうつむいた。
「泣きそうになっとんの? 情けないなぁ。べっぴんさんなんやから愛想よぉしとき。それもできひん女はおる価値ないで」
「…………はい」
高い背の後ろでは、日が厚い雲に覆われながら落ちてきていた。ひんやりとした風につま先をくすぐられて、ふるっと跳ねる。足袋を履きにいこうかと思ったけど、もうすこしここにいたいような気がした。
お父さんは寒くないのかな。たくさん動いた後だから、むしろ暑いのかな。「寒くない?」って聞いたら、面倒なこと聞かないでって思う? それとも、普通に答えてくれる?
お父さんは、口をつぐんだわたしに片眉を上げた後、懐に手を入れていた。眉も目元もよく動いていて、表情はころころ変わるのに、いつも何を考えているのか分からない。
懐の中から、お菓子らしき小さな包みが出てくる。お父さんはそれをわたしの顔の前に持っていきながら、口のはしっこをにやりと上げた。
「これ、いらんから◯◯ちゃんにやるわ」
ひょいっと投げるように渡される。とっさに受け止めた拍子にくしゃりとしわが寄って、包み紙の模様があまり見えなくなった。
模様をどうしても見たくなってしまって、でこぼこになった表面をそっと伸ばす。
もとに戻そうと集中していて、はっとした時にはもう、お父さんの姿はそこになかった。
しわを伸ばそうとするのが急にあほらしくなり、包みをびりっとやぶく。中身を見る前に口に詰め込んで、思いっきり噛んだ。
強い甘みが舌の上で溶ける。砂糖が流れて、のどの奥に染みた。ほろりと崩れゆくうちに、だんだんと、でもはっきり、形が消えていく。
「あまい……」
包みの中身は、私がいちばん好きなお菓子だった。
ぼろ、と涙がこぼれる。唇にぎゅっと歯を押し込む。ぶ厚い雲の間から夕日が差して、くしゃっとした包み紙の一つの面に橙色の光があたった。
こんなの、偶然に決まってる。お父さんがわたしの好みを知ってるはずない。知っていたとしても、覚えてるわけなくて。なのに、どうしてこんなに胸がきゅうっとなるんだろう。
頭の中に、雨戸のすき間から入ってきた木のにおいの風が柔らかく浮かぶ。
嫌いって思うのに、そんな瞬間に思い出すのはこういう記憶ばかり。硬い手につかまれて廊下を歩いた時間、のぞき見がバレても目を細められただけだったあの時。そして、わたしの好きなお菓子をくれた、夕焼けの今日。
あのね、お父さん、わたしね――
〈了〉
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