直哉短編夢
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
湿気を帯びた匂いが、鼻から胸へとなだれ込み、充満していく。
禪院家の女中である◯◯は、呉服屋の前で立ち往生していた。軒先から雨水が滔々と落ちる。地面に吸われきらず、行き場を失って淀んだ。
ざ、と擦れるような足音が耳を掠め、人が来たのかと目をやると同時に、彼女の頬は引きつった。
「誰かと思ったわ。その格好、うちの女中やろ? ずぶ濡れやん、みっともな。恥晒すなや」
鋭い眼光を湛え、◯◯に視線を落とす禪院直哉の目が、仰ぎ見た先で蔑むように眇められていた。ぱらぱらと小気味良く地を打つ雨音すらも彼女には恐ろしいざわめきへと変質して聞こえ、吸おうとした空気が肺の直前で止まる。
「直哉様……!? 申し訳ありません」
◯◯は反射的に頭を下げる。何も言われないよう、礼儀正しく、上品に――それだけを考えて指先を揃えた。
顔を上げようとした時、直哉の着物に付着した返り血に目が留まる。
――任務帰りなのかな。
紺の布地に隠されるように染み込み、とうに乾いたその色が、妙に視覚を刺激し気味が悪かった。
◯◯は腕の中で佇む分不相応なまでの重みを思い出し、はっと我に返る。
禪院家の使いで引き取りに来た、上質な着物だった。一目見ただけでそうと分かる、滑らかな光沢を編み出す繊細な織り目。一刻も早く帰らなければならないが、雨に濡らせばどのような叱りを受けるか。『傘を持ってくればよかった』という堂々巡りの後悔を、強まるばかりの雨音を背景に続けていたところだった。
見上げた直哉の体躯は、番傘に覆われて影を落としていた。舞踏用と見間違える程に大きな傘が、眼前に存在している。
――もう一人入れそう。
不意に過った考えに、◯◯自身も震え上がった。
そんなことを口にした後の直哉の反応は、想像に難くない。冷え切っていて、体の芯から悲鳴が上がるようなあの目を、いとも容易く他者に向ける。
――でも、お使いの物持ってるから、何か違うかも。
淡い期待が胸底に定まって、畏怖が収斂していく。背に腹は代えられないとの思いで肝が据わり、意を決して直哉を直視した。
「恐れ入りますが、傘に入れていただけませんか」
これを濡らすわけにはいかなくて、と消え入りそうな声で付け足し、使いの品が入った包みを伏し目がちに前に出す。
「今、何言うた?」
直哉の目が、すっと細まる。低い声が傘の内で広がり響き、間を置かず雨音に掻き消された。◯◯が差し向けた包みには一瞥もくれず、静けさが湿潤を凍てつかせる。
――間違えた。
聞き返されたのではないことは、斜に構えた立ち姿と、不遜に組まれた腕を見れば明白だった。雨に奪われた体の温度が更に下がっていく。直哉は◯◯を値踏みするように、隅々まで視線を流した。
「ええで。入れたるわ」
直哉は厭わしい手付きで傘を差し掛ける。露先から雫が滑り、◯◯の頬に三つ零れた。
「君、目はマシやねぇ。他がアカンから台無しやけど」
立ち尽くした◯◯を意に介さず、視界を遮るように立ち位置を変える。彼女の姿勢が一瞬硬くなり、それを隠そうと無理に力を抜いたことを、直哉は見逃していなかった。◯◯の反応を愉しむように、喉の奥からくつくつと笑う声が漏れる。
「なんや、俺に傘入れてもらえて嬉しなってしもうたん?」
「タダで聞いてもらえるなんて、思ってへんよなぁ」
――あ。
◯◯が気づいた時にはもう手遅れだった。大事に抱えていた包みを直哉の片手が軽々と取り上げ、弄ぶように◯◯の頭上まで持ち上げる。長い溜息を吐きながら、退屈そうに指を緩める。
「よぉ覚えとき。人に何か頼むときは、相応のもんを差し出すんや、て」
どさ、と音が沈んだ。
着物が入った包みが無残に転がり落ち、水溜りの縁で留まった。自重で僅かに土に埋もれ、湿りが這い入っていく。精巧な作りの生地が、泥濘で濁る。
「あーあ、落ちたで。拾わんでええの?」
そう言いながら足でぐしゃりと踏み躙る。ついでのように蹴り飛ばされた泥まみれの塊からは、かつての品格は見出せなかった。
番傘に遮断され、雨音が鈍くくぐもる。◯◯の耳には直哉の声しか届かなかった。解けかけた包みから見える着物に慄く眼差しを向けるばかりで、瞬き一つしない。その反応に満足したかのように、直哉は眉を上げた。
「何ボサっとしとんねん。はよ歩き」
三歩先まで歩みを進めた後、振り返って番傘を傾けた。端正な容貌に浮かべられた表情は傘と曇天によって翳り、吊り上がった口の端だけが水溜りに映る。雨がそれを打ち、波紋によって瞬く間に輪郭を失った。
「君は『分かりました』だけ言うてたらええよ」
〈了〉
禪院家の女中である◯◯は、呉服屋の前で立ち往生していた。軒先から雨水が滔々と落ちる。地面に吸われきらず、行き場を失って淀んだ。
ざ、と擦れるような足音が耳を掠め、人が来たのかと目をやると同時に、彼女の頬は引きつった。
「誰かと思ったわ。その格好、うちの女中やろ? ずぶ濡れやん、みっともな。恥晒すなや」
鋭い眼光を湛え、◯◯に視線を落とす禪院直哉の目が、仰ぎ見た先で蔑むように眇められていた。ぱらぱらと小気味良く地を打つ雨音すらも彼女には恐ろしいざわめきへと変質して聞こえ、吸おうとした空気が肺の直前で止まる。
「直哉様……!? 申し訳ありません」
◯◯は反射的に頭を下げる。何も言われないよう、礼儀正しく、上品に――それだけを考えて指先を揃えた。
顔を上げようとした時、直哉の着物に付着した返り血に目が留まる。
――任務帰りなのかな。
紺の布地に隠されるように染み込み、とうに乾いたその色が、妙に視覚を刺激し気味が悪かった。
◯◯は腕の中で佇む分不相応なまでの重みを思い出し、はっと我に返る。
禪院家の使いで引き取りに来た、上質な着物だった。一目見ただけでそうと分かる、滑らかな光沢を編み出す繊細な織り目。一刻も早く帰らなければならないが、雨に濡らせばどのような叱りを受けるか。『傘を持ってくればよかった』という堂々巡りの後悔を、強まるばかりの雨音を背景に続けていたところだった。
見上げた直哉の体躯は、番傘に覆われて影を落としていた。舞踏用と見間違える程に大きな傘が、眼前に存在している。
――もう一人入れそう。
不意に過った考えに、◯◯自身も震え上がった。
そんなことを口にした後の直哉の反応は、想像に難くない。冷え切っていて、体の芯から悲鳴が上がるようなあの目を、いとも容易く他者に向ける。
――でも、お使いの物持ってるから、何か違うかも。
淡い期待が胸底に定まって、畏怖が収斂していく。背に腹は代えられないとの思いで肝が据わり、意を決して直哉を直視した。
「恐れ入りますが、傘に入れていただけませんか」
これを濡らすわけにはいかなくて、と消え入りそうな声で付け足し、使いの品が入った包みを伏し目がちに前に出す。
「今、何言うた?」
直哉の目が、すっと細まる。低い声が傘の内で広がり響き、間を置かず雨音に掻き消された。◯◯が差し向けた包みには一瞥もくれず、静けさが湿潤を凍てつかせる。
――間違えた。
聞き返されたのではないことは、斜に構えた立ち姿と、不遜に組まれた腕を見れば明白だった。雨に奪われた体の温度が更に下がっていく。直哉は◯◯を値踏みするように、隅々まで視線を流した。
「ええで。入れたるわ」
直哉は厭わしい手付きで傘を差し掛ける。露先から雫が滑り、◯◯の頬に三つ零れた。
「君、目はマシやねぇ。他がアカンから台無しやけど」
立ち尽くした◯◯を意に介さず、視界を遮るように立ち位置を変える。彼女の姿勢が一瞬硬くなり、それを隠そうと無理に力を抜いたことを、直哉は見逃していなかった。◯◯の反応を愉しむように、喉の奥からくつくつと笑う声が漏れる。
「なんや、俺に傘入れてもらえて嬉しなってしもうたん?」
「タダで聞いてもらえるなんて、思ってへんよなぁ」
――あ。
◯◯が気づいた時にはもう手遅れだった。大事に抱えていた包みを直哉の片手が軽々と取り上げ、弄ぶように◯◯の頭上まで持ち上げる。長い溜息を吐きながら、退屈そうに指を緩める。
「よぉ覚えとき。人に何か頼むときは、相応のもんを差し出すんや、て」
どさ、と音が沈んだ。
着物が入った包みが無残に転がり落ち、水溜りの縁で留まった。自重で僅かに土に埋もれ、湿りが這い入っていく。精巧な作りの生地が、泥濘で濁る。
「あーあ、落ちたで。拾わんでええの?」
そう言いながら足でぐしゃりと踏み躙る。ついでのように蹴り飛ばされた泥まみれの塊からは、かつての品格は見出せなかった。
番傘に遮断され、雨音が鈍くくぐもる。◯◯の耳には直哉の声しか届かなかった。解けかけた包みから見える着物に慄く眼差しを向けるばかりで、瞬き一つしない。その反応に満足したかのように、直哉は眉を上げた。
「何ボサっとしとんねん。はよ歩き」
三歩先まで歩みを進めた後、振り返って番傘を傾けた。端正な容貌に浮かべられた表情は傘と曇天によって翳り、吊り上がった口の端だけが水溜りに映る。雨がそれを打ち、波紋によって瞬く間に輪郭を失った。
「君は『分かりました』だけ言うてたらええよ」
〈了〉
4/4ページ
