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あなたの声を聞かせて

おかえり、とガラスケースの向こう側で、人魚が手話で語りかけてくる。一ヶ月前に釣った人魚だった。夜にイクラを餌にして釣りをしていたら、食いついてきたのが彼女だ。透き通るような白い肌と、ガラス玉をはめ込んだような青い瞳、陸上の人間にはありえない七色の髪。下半身は銀色の鱗で覆われている。ただ残念なことに、顔の造形はあまりよろしくない。豚と馬を足して二で割ったような顔だ。ようするにブスだ。
ブスながらも、頭はかなり良かった。水中にいる彼女とコミュニケーションを取るのに、僕は彼女に手話を教えた。幸い、僕の家には手話の教材がたくさんあった。水槽に入った彼女と、一緒に手話の学習ビデオを見た。そうしたら、彼女は一時間もしないうちに僕と同じぐらい手話が話せるようになった。
今日は何をしていたの? と彼女は聞いてくる。僕は仕事だと答えた。人間は毎日仕事するのね、と彼女は笑った。人魚の世界には仕事はないらしい。お腹が空いたら餌を探すし、眠くなったら安全な場所を探して眠るだけだと教えてくれた。なんとも原始的で、羨ましい生活だ。
彼女に餌を与える。毎日イクラを与えるわけにはいかないので、昨日からスーパーで買った鮮魚を与えている。彼女は釣り上げた時に持っていた石包丁を使って、丁寧に魚をおろしてから食べる。頭を丸かじりなんてしないらしい。食べ終わると、口から大きな泡を出す。泡は食べカスを集めて、水槽内の掃除をする。まるで意思をもった生き物のように、泡はあちこちを動きまわり、ゴミがなくなったころに縮こまって集めたゴミと一緒に消滅する。物理法則とか、そういう常識を無視しているが、人魚の世界では常識的な話らしかった。
水槽の中の彼女には、テレビの音は届かない。届かないけれどテロップを見て内容を理解し、笑い転げてバラエティを見ている。僕はサスペンスドラマが好きなんだけれど、人魚は「なぜ殺すのか」が全く理解できないらしく、一度一緒に見たらブスな顔を更に歪ませて悩み始めたのでもう見るのはやめた。
テレビを見終わったら、林檎を剥く。その林檎を半分に切って水槽に入れると、彼女は嬉しそうにそれに齧りついた。海の中にない食べ物も、彼女の大好物だ。
彼女はいろいろなことに興味を持つ。人の世界のこと、テレビで見た芸能人のこと、僕のこと。僕はできる限り彼女の疑問に答えているけれど、ひとつだけ答えられないことがあった。
「声ってなあに?」と聞かれるたびに僕は悩んでしまう。悩んだ末にインターネットで調べた記事を見せるが、彼女もまた首を傾げたままだった。
僕の耳は生まれたときから聞こえなかった。それを嘆くつもりはないけれど、僕にとって「声」や「音」は未知の物だった。改めて聞かれると、これほど好奇心を刺激され、劣等感を刺激され、それは理不尽な悲しみや憎しみへと繋がった。物や人に当たることはしないけれど、その質問をされると僕は水槽のある部屋を出て寝室へ行き、ベッドに潜り込んでしまうのだった。
そんなことがあってから、彼女はこの質問をしなくなった。少しだけ、ほっとした。それからしばらく、僕たちは一緒にご飯を食べたり、手話で話したり、テレビを見たりして暮らした。
半年ほど過ぎた頃に、そろそろ海に帰りたい、と彼女が手話で話しかけてきた。淡水で暮らすのが辛いのだそうだ。僕は了承した。
人に見られてはまずいので、誰もが寝静まった夜に動き出す。水槽を運び入れたときと同じように、台車を使って夜の街を歩いた。海辺の港町は、夜になると誰もいない。誰かが起きないようにひやひやしながら運ぶ。起きてきても僕は気づくことができないから。
僕が釣りをしたのは誰もいない小さな砂浜だった。古びた遊泳禁止の看板の横を通りすぎ、薄暗い森を抜けたあたりにその砂浜はあった。周りには何もなく、ただ砂浜と波を月の光が照らしていた。
彼女は楽しかった、と話す。それは良かった。僕も、彼女といた日々は幸福だったと思う。僕は水槽をできる限り波に近づけてから、少しずつ傾けて押し倒していく。水槽から水が少しずつ流れでて、その水の流れに逆らわず、彼女も海へと入っていく。そうして海の深い方へ、深い方へと彼女は潜っていった。僕はただじっと、彼女が潜っていく波の動きを目で追った。
突然、彼女は水面に顔を出した。こちらを向いて笑っている。そして大きく両手を掲げて、手話で何かを語りかけてきた。
わたし、練習しました。
何を? と聞き返すよりも早く、彼女は大きな口を開けて何かを話している。当然、ボクの耳には届かない。
また、彼女が手話で話しかけてくる。
だから、あなたの声を聞かせて。あなたに聞こえなくても、私が聞いているから。
僕は黙ったまま、ずっと声を聞かせろという彼女を見つめていた。彼女は時折海に潜ったかと思うと、再び上昇してまた同じように話しながら手話で声を聞かせろと言ってくる。
声の出し方なんてとっくの昔に諦めてしまった。誰かと話すことも諦めてしまったのと一緒に。
僕は俯き、砂をじっと眺めながら「無理だ」と呟いた。波の音にかき消されてしまうような、小さな声で。呟いたといっても、僕はそう呟いた「つもり」なだけだから、実際にはそう話せているかはわからない。
しばらくしてから顔を上げると、人魚はもういなかった。
僕は、押し倒したままの水槽を台車に載せ、来た道を戻っていった。
ぱしゃん、と背後で水がはねる音がした。振り返ると、人魚が顔だけ出して微笑んでいた。ブスのくせに、少しだけ可愛らしかった。
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