またたび森のおねこさま
三度森の前に立つと、森はいつもよりも木々が茂っているような気がした。柊一郎は得も言われぬ不安に襲われたが、ミケに引っ張られ、ぐいぐいと三度森に足を踏み入れる。踏み入れると、ぱったりと猫の鳴き声が止んだ。
「なんで急に……」
「周りにいるのはァ、この森に入る資格のない猫なんだァ。入りたくて入りたくて、おねこさまに頼んでるんだよ」
「資格なんているのか」
ミケは何も答えず、ずんずんと森の奥へと進んでいった。森は前に真莉絵と来た時よりずっと深い気がした。こんなに木々は密集していなかったはずだ。
けもの道のような細くて鬱蒼とした道を進む。柊一郎は次第に不安になった。そもそも喋る猫自体がおかしいのだ。そんなものに付いてきて、本当に無事でいられるだろうか。思わず、今来た道を振り返る。暗い暗い闇が広がっている。ミケはぐいぐいと柊一郎を引っ張る。柊一郎がいくら引き戻そうとしても、その力は緩まない。かといってミケのリードを離して、一人で戻る勇気もなかった。もうこのまま進むしかない。
しばらく歩いて行くと、光が見えてきた。
「おっ、あそこだァ」
ミケはその方向に向かって進み始める。光に近づいていくと、楽しそうな笑い声や興奮した猫の鳴き声が聞こえてくる。ミケはその声を聞いて嬉しそうににゃあお、と叫ぶように鳴いた。すると光の方から、「おやミケが来た」「ミケさじゃミケさ」と声がした。ミケはその声に釣られるように、突然駈け出す。その拍子に柊一郎の手からリードが離れた。
「あっ、ミケ!」
柊一郎はミケを呼び止めたが、ミケは猛スピードで駆けてしまい、もう見えなくなった。柊一郎は呆然として、その場に立ち尽くす。ちらりと後ろを見た。真っ暗な森は不気味で、とても後ずさりはできなそうだ。仕方なく、光へ向かって歩き始めた。
だが、いくら歩いても光が全く近づかない。方向は間違っていないはずだった。だが、いくら歩いてもあの楽しそうな声には届かない。柊一郎は焦り始め、早歩きになり、しまいには全力疾走になる。しかしそれも無駄に終わった。柊一郎はその場に崩れ落ち、ぜぇはぁと荒い息をつく。
「ちょいと、おニィさん」
そんな柊一郎の真横で、色っぽい女の声がした。柊一郎がそちらを見ると、そこには真っ白な猫がいた。首にはピンクのリボンをつけている。しなやかな尻尾をゆったりと揺らしながら、猫は柊一郎の顔を舐めた。
「しっかりおしよ。こんなところで死んだんじゃァ、もったいない。どうせ誰かに連れてこられたんだろ? 悪いねェ、猫ってのは気まぐれだから。ちょっと楽しいことがあるとすぐにそっちに飛んでいっちまうんだ」
「あんたは?」
柊一郎は絞りだすような声で聞いた。いろいろと聞きたいことはあったが、今の状態で聞けるのはこれぐらいだった。
「アタシかい? アタシは五丁目の水野さんちの猫さ。アンリエッタなんて小洒落た名前を頂戴してるがね、この辺りじゃマツと呼ばれてる」
マツは照れくさそうに顔を洗う仕草をした。柊一郎は思い出した。水野八百屋にいる白い猫だ。いつもすました顔をした猫で、うるさい客が来ると店の奥へと引っ込んでしまうのだと、いつか母親が言っていた。母親も引っ込まれてしまった客の一人だというオチもつけて。
「そういうアンタは、なんて言うんだい?」
「柊一郎」
「ふうん。いい名前だねェ。男前の名前だ。さて、柊一郎。さて、こんなところにいたら、いつまで経っても着きやしないよ」
マツが、首を小刻みに振る。すると、首につけられていたリボンがスルスルと伸び、まるで犬のリードのような長さになる。
「本当は人間にこんなことさせやしないんだけどね。アンタは特別だ。さ、掴みな」
柊一郎は少し躊躇ったが、他に方法はない。リボンの端を拾い上げ、ぎゅっと握った。それを見てから、マツがゆっくりとした足取りで歩き始める。
ゆっくりとした足取りなのに、確実に光が近づいてくるのがわかった。ざわざわと、いろいろな声が聞こえてくる。先ほどより声の数が多くなっているようだ。混ざりすぎてどんな話をしているのかはわからないが、場が盛り上がってきているのは間違いない。もっと近づくと、酒と魚の混じった匂いがした。マツもヒクヒクと鼻を動かす。早く行きたいのだろう、先ほどよりそわそわした足取りで進む。それでも、走ることはせず、時折柊一郎の方を振り返ってにっこりと笑った。柊一郎は、この短い時間でマツの性格が少しだけわかったような気がした。
「マツ。お前を抱えて俺が走ろうか」
「いいのかい? 疲れてるだろう」
マツは期待を込めた目で柊一郎を見る。柊一郎が黙って両手を広げると、マツは勢いよく飛び込んだ。柊一郎は光に向かって走りだす。ぐんと光が近づき、余計に足に力が入った。
そうして、あっという間に光の中へと足を踏み入れる。光の中は、まるで昼間のような明るさで、紅葉しかけていたはずの葉が青々と茂っている。それよりも目を惹くのは猫の数。あちらに猫、こちらに猫、そちらにも猫。しまいには木の上にまでびっしりと猫がいる。その猫たちは一様に人の言葉を話し、何か酒のようなものを飲んで酔っぱらい、機嫌よく過ごしていた。そして、その猫たちはあろうことか二本足で歩いていて、まるで人のようである。柊一郎はその光景に絶句し、動けずにいた。
「ああ、アツ!」
「なんで急に……」
「周りにいるのはァ、この森に入る資格のない猫なんだァ。入りたくて入りたくて、おねこさまに頼んでるんだよ」
「資格なんているのか」
ミケは何も答えず、ずんずんと森の奥へと進んでいった。森は前に真莉絵と来た時よりずっと深い気がした。こんなに木々は密集していなかったはずだ。
けもの道のような細くて鬱蒼とした道を進む。柊一郎は次第に不安になった。そもそも喋る猫自体がおかしいのだ。そんなものに付いてきて、本当に無事でいられるだろうか。思わず、今来た道を振り返る。暗い暗い闇が広がっている。ミケはぐいぐいと柊一郎を引っ張る。柊一郎がいくら引き戻そうとしても、その力は緩まない。かといってミケのリードを離して、一人で戻る勇気もなかった。もうこのまま進むしかない。
しばらく歩いて行くと、光が見えてきた。
「おっ、あそこだァ」
ミケはその方向に向かって進み始める。光に近づいていくと、楽しそうな笑い声や興奮した猫の鳴き声が聞こえてくる。ミケはその声を聞いて嬉しそうににゃあお、と叫ぶように鳴いた。すると光の方から、「おやミケが来た」「ミケさじゃミケさ」と声がした。ミケはその声に釣られるように、突然駈け出す。その拍子に柊一郎の手からリードが離れた。
「あっ、ミケ!」
柊一郎はミケを呼び止めたが、ミケは猛スピードで駆けてしまい、もう見えなくなった。柊一郎は呆然として、その場に立ち尽くす。ちらりと後ろを見た。真っ暗な森は不気味で、とても後ずさりはできなそうだ。仕方なく、光へ向かって歩き始めた。
だが、いくら歩いても光が全く近づかない。方向は間違っていないはずだった。だが、いくら歩いてもあの楽しそうな声には届かない。柊一郎は焦り始め、早歩きになり、しまいには全力疾走になる。しかしそれも無駄に終わった。柊一郎はその場に崩れ落ち、ぜぇはぁと荒い息をつく。
「ちょいと、おニィさん」
そんな柊一郎の真横で、色っぽい女の声がした。柊一郎がそちらを見ると、そこには真っ白な猫がいた。首にはピンクのリボンをつけている。しなやかな尻尾をゆったりと揺らしながら、猫は柊一郎の顔を舐めた。
「しっかりおしよ。こんなところで死んだんじゃァ、もったいない。どうせ誰かに連れてこられたんだろ? 悪いねェ、猫ってのは気まぐれだから。ちょっと楽しいことがあるとすぐにそっちに飛んでいっちまうんだ」
「あんたは?」
柊一郎は絞りだすような声で聞いた。いろいろと聞きたいことはあったが、今の状態で聞けるのはこれぐらいだった。
「アタシかい? アタシは五丁目の水野さんちの猫さ。アンリエッタなんて小洒落た名前を頂戴してるがね、この辺りじゃマツと呼ばれてる」
マツは照れくさそうに顔を洗う仕草をした。柊一郎は思い出した。水野八百屋にいる白い猫だ。いつもすました顔をした猫で、うるさい客が来ると店の奥へと引っ込んでしまうのだと、いつか母親が言っていた。母親も引っ込まれてしまった客の一人だというオチもつけて。
「そういうアンタは、なんて言うんだい?」
「柊一郎」
「ふうん。いい名前だねェ。男前の名前だ。さて、柊一郎。さて、こんなところにいたら、いつまで経っても着きやしないよ」
マツが、首を小刻みに振る。すると、首につけられていたリボンがスルスルと伸び、まるで犬のリードのような長さになる。
「本当は人間にこんなことさせやしないんだけどね。アンタは特別だ。さ、掴みな」
柊一郎は少し躊躇ったが、他に方法はない。リボンの端を拾い上げ、ぎゅっと握った。それを見てから、マツがゆっくりとした足取りで歩き始める。
ゆっくりとした足取りなのに、確実に光が近づいてくるのがわかった。ざわざわと、いろいろな声が聞こえてくる。先ほどより声の数が多くなっているようだ。混ざりすぎてどんな話をしているのかはわからないが、場が盛り上がってきているのは間違いない。もっと近づくと、酒と魚の混じった匂いがした。マツもヒクヒクと鼻を動かす。早く行きたいのだろう、先ほどよりそわそわした足取りで進む。それでも、走ることはせず、時折柊一郎の方を振り返ってにっこりと笑った。柊一郎は、この短い時間でマツの性格が少しだけわかったような気がした。
「マツ。お前を抱えて俺が走ろうか」
「いいのかい? 疲れてるだろう」
マツは期待を込めた目で柊一郎を見る。柊一郎が黙って両手を広げると、マツは勢いよく飛び込んだ。柊一郎は光に向かって走りだす。ぐんと光が近づき、余計に足に力が入った。
そうして、あっという間に光の中へと足を踏み入れる。光の中は、まるで昼間のような明るさで、紅葉しかけていたはずの葉が青々と茂っている。それよりも目を惹くのは猫の数。あちらに猫、こちらに猫、そちらにも猫。しまいには木の上にまでびっしりと猫がいる。その猫たちは一様に人の言葉を話し、何か酒のようなものを飲んで酔っぱらい、機嫌よく過ごしていた。そして、その猫たちはあろうことか二本足で歩いていて、まるで人のようである。柊一郎はその光景に絶句し、動けずにいた。
「ああ、アツ!」