またたび森のおねこさま
柊一郎の父親は、去年病気で死んでしまった。やけに小難しい病名だったが、死ぬときはやけにあっさりと死んでしまった。父親は母親に「家に絶対に猫を入れないように」と言い残して死んでいった。それ以来、柊一郎は母親が猫に触れているのを見たことがない。
三度森からかなり離れた場所に、柊一郎の家があった。いや、三度森が人里から少し離れたところにあるのである。こぢんまりとした木造平屋の一軒家だ。大工だった柊一郎の祖父が自分で建てた家で、あちこち使いにくいし古臭いけれど、柊一郎の家族はこの家が好きだった。
「ただいま」
柊一郎は台所にいる母親に声をかけた。母親は柊一郎の方を振り返りもせずに答える。
「おかえり」
母親は何かを作っているようだった。夕飯でないことは、甘ったるい匂いですぐにわかった。柊一郎は母親の横に立ち、母親と一緒に鍋の中を見る。
「何作ってるの」
ぐつぐつと何か黄色いものが煮詰められている。
「ジャムよ。お隣さんにアンズをたくさん貰ったから」
「またジャムか」
柊一郎の母親は先週も何かの果物のジャムを作っていて、甘ったるい砂糖の匂いに柊一郎は閉口した。
「仕方ないじゃないの。私、甘いものってジャムしか作れないんだもの。それより、今日は遅かったじゃないの。とうとう彼女でもできた?」
ここでようやく、母親が顔を上げる。柊一郎は目を合わせず、鍋の中のぐつぐつと煮立つ泡のようなものを眺めた。目が合えばもっと余計なことを言ってくるからだ。
「できてない。友達の写真に付き合ってた」
「あら、友達って、女の子? 真莉絵ちゃん? 」
母親はワイドショーのスキャンダルを見たときのような、そんな声を出した。きっとにやにやと柊一郎を見ているに違いない。柊一郎は居心地が悪くなって、台所から出て自分の部屋へと向かった。
自室に入り、薄っぺらい鞄を机の脇に立てかけ、そしてベッドに倒れこむ。手持ち無沙汰になって、枕元に置いておいた小さな本に手を伸ばした。小さな写真集で、柊一郎の父親が最後に出した作品集だ。父親はあまり一般には名の知られていない、しがない写真家だった。入院する前に撮り貯めておいた写真が、遺言と一緒に箱の中に入っていて、それから母親や、父親と仕事をしていた何人かの人たちの手で、この写真集はできあがった。この写真集は小さいながらも袋とじがついている。柊一郎はまだその袋を開けることができないでいた。
写真が好きな父親と、写真を好きな父親が好きな母親から生まれたけれど、柊一郎は写真も父親もそれほど好きではなかった。どちらも強く拒否をするものではなかったが、どちらも強く求めるものではなかった。ただ、周りは柊一郎にどちらも好きになるように求めてきた。特に、真莉絵は父親のファンだったから、余計に柊一郎に写真も父親も愛することが当然だと押し付けてきた。柊一郎は思春期と反抗期を盾にして、どちらとも離れたままだ。
父親が死んだとき、全く泣かない柊一郎を見て、周りは流石長男だ、こんなときも気丈だと言ったが、何のことはなく、本当に悲しいと思っていなかった。何かがなくなってしまったような、穴が開いたような感じはあった。それが悲しみに繋がるまで、葬式が続かなかっただけだ。
パラパラと写真集を捲る。家の写真。父親が好きだった縁側の写真。庭が泥まみれになっているのは猫が入ってきたからだろう。その縁側に座っている、少しすました顔の母親の写真。その次のページを捲る手が止まる。この次のページは、柊一郎の写真だった。いつの間に撮られていたのかわからない。母親に庭の手入れを任されて、適当に草むしりをしていたときの顔だ。自分の顔だから、それが良い写真なのか悪い写真なのかはわからない。部屋まで勝手に付いてきて、勝手に写真集を眺めた真莉絵は「いい写真ね」と褒めた。毎日のように写真集を眺めている母親は「全く、もっと息子の良さを引き出せばいいのに」と貶した。柊一郎は、良くも悪くもないが、あまり見たくないと思った。
にゃおん。猫の声がした。柊一郎は、はっとして顔を上げた。父親がいた頃はこの辺りに野良猫なんて住み着かなくなっていたので、かなり珍しいことだった。
にゃあう。猫の声は、庭の方からした。柊一郎はおもむろに立ち上がり、縁側へと向かう。
柊一郎が縁側に行くと、既に母親が立っていた。
「猫の声、したわよね」
縁側に差す西日が強くて、柊一郎は思わず目を細めた。また、庭のどこかでにゃおん、と声がする。母親は縁側に置いてあったサンダルを履いて、庭を歩き始めた。まるで宝探しをする子どものように。サンダルは一足しかなかったので、柊一郎は庭には下りられず、うろうろと動く母親の背中をぼんやりと見つめた。
「珍しいわねえ、お父さんがいた頃は寄り付かなかったのに」
サンダルに乾いた泥がこびり付いている。新しいサンダルにすればいいのに、母親は、そうしなかった。それは、父親がいつも猫を追い回すときに履いていたサンダルだった。柊一郎も自分の小遣いからサンダルを買う余裕はないので、放っておいている。
にゃおん、にゃあん。猫はがさがさと、庭の茂みを移動しているようだった。母親はその茂みに向かって「猫さん、チョッ、チョッ」と手を差し出しながら呼んだ。すると、茂みの中から三毛のデブ猫がのっそりと現れた。デブ猫は母親の手に頭を擦り付け、甘えたようににゃあ、と鳴く。
柊一郎はすぐに、それが三度森で見たデブ猫だと気づいて、「あ」と声を上げてしまった。
「何?」
「それ、三度森にいた猫だよ」
三度森からかなり離れた場所に、柊一郎の家があった。いや、三度森が人里から少し離れたところにあるのである。こぢんまりとした木造平屋の一軒家だ。大工だった柊一郎の祖父が自分で建てた家で、あちこち使いにくいし古臭いけれど、柊一郎の家族はこの家が好きだった。
「ただいま」
柊一郎は台所にいる母親に声をかけた。母親は柊一郎の方を振り返りもせずに答える。
「おかえり」
母親は何かを作っているようだった。夕飯でないことは、甘ったるい匂いですぐにわかった。柊一郎は母親の横に立ち、母親と一緒に鍋の中を見る。
「何作ってるの」
ぐつぐつと何か黄色いものが煮詰められている。
「ジャムよ。お隣さんにアンズをたくさん貰ったから」
「またジャムか」
柊一郎の母親は先週も何かの果物のジャムを作っていて、甘ったるい砂糖の匂いに柊一郎は閉口した。
「仕方ないじゃないの。私、甘いものってジャムしか作れないんだもの。それより、今日は遅かったじゃないの。とうとう彼女でもできた?」
ここでようやく、母親が顔を上げる。柊一郎は目を合わせず、鍋の中のぐつぐつと煮立つ泡のようなものを眺めた。目が合えばもっと余計なことを言ってくるからだ。
「できてない。友達の写真に付き合ってた」
「あら、友達って、女の子? 真莉絵ちゃん? 」
母親はワイドショーのスキャンダルを見たときのような、そんな声を出した。きっとにやにやと柊一郎を見ているに違いない。柊一郎は居心地が悪くなって、台所から出て自分の部屋へと向かった。
自室に入り、薄っぺらい鞄を机の脇に立てかけ、そしてベッドに倒れこむ。手持ち無沙汰になって、枕元に置いておいた小さな本に手を伸ばした。小さな写真集で、柊一郎の父親が最後に出した作品集だ。父親はあまり一般には名の知られていない、しがない写真家だった。入院する前に撮り貯めておいた写真が、遺言と一緒に箱の中に入っていて、それから母親や、父親と仕事をしていた何人かの人たちの手で、この写真集はできあがった。この写真集は小さいながらも袋とじがついている。柊一郎はまだその袋を開けることができないでいた。
写真が好きな父親と、写真を好きな父親が好きな母親から生まれたけれど、柊一郎は写真も父親もそれほど好きではなかった。どちらも強く拒否をするものではなかったが、どちらも強く求めるものではなかった。ただ、周りは柊一郎にどちらも好きになるように求めてきた。特に、真莉絵は父親のファンだったから、余計に柊一郎に写真も父親も愛することが当然だと押し付けてきた。柊一郎は思春期と反抗期を盾にして、どちらとも離れたままだ。
父親が死んだとき、全く泣かない柊一郎を見て、周りは流石長男だ、こんなときも気丈だと言ったが、何のことはなく、本当に悲しいと思っていなかった。何かがなくなってしまったような、穴が開いたような感じはあった。それが悲しみに繋がるまで、葬式が続かなかっただけだ。
パラパラと写真集を捲る。家の写真。父親が好きだった縁側の写真。庭が泥まみれになっているのは猫が入ってきたからだろう。その縁側に座っている、少しすました顔の母親の写真。その次のページを捲る手が止まる。この次のページは、柊一郎の写真だった。いつの間に撮られていたのかわからない。母親に庭の手入れを任されて、適当に草むしりをしていたときの顔だ。自分の顔だから、それが良い写真なのか悪い写真なのかはわからない。部屋まで勝手に付いてきて、勝手に写真集を眺めた真莉絵は「いい写真ね」と褒めた。毎日のように写真集を眺めている母親は「全く、もっと息子の良さを引き出せばいいのに」と貶した。柊一郎は、良くも悪くもないが、あまり見たくないと思った。
にゃおん。猫の声がした。柊一郎は、はっとして顔を上げた。父親がいた頃はこの辺りに野良猫なんて住み着かなくなっていたので、かなり珍しいことだった。
にゃあう。猫の声は、庭の方からした。柊一郎はおもむろに立ち上がり、縁側へと向かう。
柊一郎が縁側に行くと、既に母親が立っていた。
「猫の声、したわよね」
縁側に差す西日が強くて、柊一郎は思わず目を細めた。また、庭のどこかでにゃおん、と声がする。母親は縁側に置いてあったサンダルを履いて、庭を歩き始めた。まるで宝探しをする子どものように。サンダルは一足しかなかったので、柊一郎は庭には下りられず、うろうろと動く母親の背中をぼんやりと見つめた。
「珍しいわねえ、お父さんがいた頃は寄り付かなかったのに」
サンダルに乾いた泥がこびり付いている。新しいサンダルにすればいいのに、母親は、そうしなかった。それは、父親がいつも猫を追い回すときに履いていたサンダルだった。柊一郎も自分の小遣いからサンダルを買う余裕はないので、放っておいている。
にゃおん、にゃあん。猫はがさがさと、庭の茂みを移動しているようだった。母親はその茂みに向かって「猫さん、チョッ、チョッ」と手を差し出しながら呼んだ。すると、茂みの中から三毛のデブ猫がのっそりと現れた。デブ猫は母親の手に頭を擦り付け、甘えたようににゃあ、と鳴く。
柊一郎はすぐに、それが三度森で見たデブ猫だと気づいて、「あ」と声を上げてしまった。
「何?」
「それ、三度森にいた猫だよ」