またたび森のおねこさま
「さっき、マツと一緒にいた猫だろう?」
「それだけか?」
「何が?」
おねこさまはアツを抱えたまま、先程と同じ位置に座った。
「この猫が、お前の左手を噛んで、怪我をさせたことは覚えているか?」
「人違いじゃないのか?」
「いや、隼太郎の家の子を噛んだのだ、人違いじゃない」
おねこさまはそう言うが、柊一郎には全く覚えがなかった。そもそも、物心ついた頃から、うちには猫嫌いの父がいたのだ。猫嫌いになるほど猫になど触れる機会なんてなかった。
「もしかして」
柊一郎はある可能性に気づく。
「それって、何年前のことだ?」
「む? そうじゃのう、この前のことじゃ」
「おねこさま、十七年前は、『この前』じゃないスよ」
アツが口を挟む。
「ソイツは人間です。俺らとは時間の感覚が全然違うんですよ」
柊一郎がアツの顔を覗き込むと、アツはばつが悪そうに顔を背けた。
「ふむ。そうじゃったのう。人間はあっという間にいなくなる生き物じゃった」
「十七年前なら、俺はまだ赤ん坊だ。覚えてるわけがない」
「じゃあ、なんでアツを追い出したりしたんじゃ?」
おねこさまはまだ納得がいかなかったようで、アツを柊一郎の前に付き出した。強制的に柊一郎とアツは目を合わせる羽目になった。
「おねこさま、やめてくれ。もういいじゃないか、終わったことなんだ」
アツはおねこさまの手の中で暴れて、その拘束から抜け出た。そして猫の群れの中へと走って行ってしまった。猫たちは陽気に騒いでいて、すぐにアツの姿は見えなくなってしまう。それを追いかけようとするおねこさまの服の裾を、柊一郎は掴んだ。それでバランスを崩したおねこさまは、柊一郎の膝の上へ倒れこむ。
「何を――」
「アツは、俺の家の猫だったのか」
「本当じゃとも。隼太郎と仲が良かったよ」
柊一郎の脳裏に、父の姿が浮かんだ。庭に猫が出たと言ってはバケツに水を汲んで、庭に撒き散らす。猫たちは一様にぱっといなくなり、父は隅々まで猫がいないかを確認した後、家の中に入る。それを柊一郎は縁側で見ていて、それに気づいた父が、柊一郎の頭を撫でながら、家の中へと入っていく。そんな光景だ。庭に来る猫は、大体決まっている。三毛猫や黒猫が来ることだってもちろんあったが、一番来ていたのは灰色の猫だった。アツだったかどうかまでは覚えていないが、猫にしては珍しい方の色合いだったので、覚えていたのだ。
そして、これは推測でしかないが、父親が何故アツを追い出したのかも見当がついた。そんなに子想いの父親だとは思っていなかったが、おそらく柊一郎がアツに怪我をさせられたからなのだろう。元は父親は猫嫌いではなかったのだ。
おねこさまは身体を起こし、柊一郎に向かい合うよう座り直した。
「ワシは、二人が羨ましくて仕方がなかったのじゃ。だからワシも隼太郎のいる庭にこっそり遊びに行ったりもしたんじゃ。でも、アツがお前とじゃれているうちに、左手を噛んでしまったのじゃ。当時の光景を見たわけじゃないが、病院に行ったらしいから、血は出たのじゃろう」
柊一郎は、初めてその話を聞いた。なんでも話してくる母親ですら、この話をしたことがない。
「それからじゃ。アツと隼太郎の仲がこじれてしまったのは。言葉を伝えたくても、まだその頃はアツも話せなかったし、ワシが間に入ろうとしても、アツが嫌がるのじゃ。そのうちに、隼太郎の姿が見えなくなって、風の噂で死んだと聞いた。それで、もう居ても立ってもいられなくなって、それならせめて当事者の柊一郎と話せば、アツの気持ちも落ち着くんじゃないかと思ったのじゃ」
まさか覚えていないとは思ってもみなかったがの、とおねこさまは苦笑する。
「それだけか?」
「何が?」
おねこさまはアツを抱えたまま、先程と同じ位置に座った。
「この猫が、お前の左手を噛んで、怪我をさせたことは覚えているか?」
「人違いじゃないのか?」
「いや、隼太郎の家の子を噛んだのだ、人違いじゃない」
おねこさまはそう言うが、柊一郎には全く覚えがなかった。そもそも、物心ついた頃から、うちには猫嫌いの父がいたのだ。猫嫌いになるほど猫になど触れる機会なんてなかった。
「もしかして」
柊一郎はある可能性に気づく。
「それって、何年前のことだ?」
「む? そうじゃのう、この前のことじゃ」
「おねこさま、十七年前は、『この前』じゃないスよ」
アツが口を挟む。
「ソイツは人間です。俺らとは時間の感覚が全然違うんですよ」
柊一郎がアツの顔を覗き込むと、アツはばつが悪そうに顔を背けた。
「ふむ。そうじゃったのう。人間はあっという間にいなくなる生き物じゃった」
「十七年前なら、俺はまだ赤ん坊だ。覚えてるわけがない」
「じゃあ、なんでアツを追い出したりしたんじゃ?」
おねこさまはまだ納得がいかなかったようで、アツを柊一郎の前に付き出した。強制的に柊一郎とアツは目を合わせる羽目になった。
「おねこさま、やめてくれ。もういいじゃないか、終わったことなんだ」
アツはおねこさまの手の中で暴れて、その拘束から抜け出た。そして猫の群れの中へと走って行ってしまった。猫たちは陽気に騒いでいて、すぐにアツの姿は見えなくなってしまう。それを追いかけようとするおねこさまの服の裾を、柊一郎は掴んだ。それでバランスを崩したおねこさまは、柊一郎の膝の上へ倒れこむ。
「何を――」
「アツは、俺の家の猫だったのか」
「本当じゃとも。隼太郎と仲が良かったよ」
柊一郎の脳裏に、父の姿が浮かんだ。庭に猫が出たと言ってはバケツに水を汲んで、庭に撒き散らす。猫たちは一様にぱっといなくなり、父は隅々まで猫がいないかを確認した後、家の中に入る。それを柊一郎は縁側で見ていて、それに気づいた父が、柊一郎の頭を撫でながら、家の中へと入っていく。そんな光景だ。庭に来る猫は、大体決まっている。三毛猫や黒猫が来ることだってもちろんあったが、一番来ていたのは灰色の猫だった。アツだったかどうかまでは覚えていないが、猫にしては珍しい方の色合いだったので、覚えていたのだ。
そして、これは推測でしかないが、父親が何故アツを追い出したのかも見当がついた。そんなに子想いの父親だとは思っていなかったが、おそらく柊一郎がアツに怪我をさせられたからなのだろう。元は父親は猫嫌いではなかったのだ。
おねこさまは身体を起こし、柊一郎に向かい合うよう座り直した。
「ワシは、二人が羨ましくて仕方がなかったのじゃ。だからワシも隼太郎のいる庭にこっそり遊びに行ったりもしたんじゃ。でも、アツがお前とじゃれているうちに、左手を噛んでしまったのじゃ。当時の光景を見たわけじゃないが、病院に行ったらしいから、血は出たのじゃろう」
柊一郎は、初めてその話を聞いた。なんでも話してくる母親ですら、この話をしたことがない。
「それからじゃ。アツと隼太郎の仲がこじれてしまったのは。言葉を伝えたくても、まだその頃はアツも話せなかったし、ワシが間に入ろうとしても、アツが嫌がるのじゃ。そのうちに、隼太郎の姿が見えなくなって、風の噂で死んだと聞いた。それで、もう居ても立ってもいられなくなって、それならせめて当事者の柊一郎と話せば、アツの気持ちも落ち着くんじゃないかと思ったのじゃ」
まさか覚えていないとは思ってもみなかったがの、とおねこさまは苦笑する。